1 大工、勇者と出会う
街道から、少し入った森の中。
針葉樹林が立ち並んでいる、そのさらに奥から、軽快な音が聞こえてくる。
それは、金属が何かを叩く、よくある森の風景だった。
規則正しいその音が止み、男の声が響き渡った。
「たーおーれーるーぞー!」
メキメキと何かが割れるような破裂音と、直後、地響きの振動がする。
声の主の目の前で、大木がその身を横たえていた。
「さて、と」
男は、持っていた斧を置き、次いで短めの斧を手にして、大木の枝を落とし始めた。
冷たい空気が森を覆い始めたこの季節は、樹木の水を吸い上げる力も少なくなり、木を伐採するには、うってつけの頃合いである。
男の身体から、湯気が立ち上り、その額には、汗がしずくとなって、木の表面にぽとりと落ちる。
だが、男はそれに構いもせずに、黙々と枝を切り落とす。
男の身なりは、長袖のゆったりとした民族服にズボンを穿き、背中には防寒用の毛皮をまとったもので、大柄な体格にはおよそ不釣り合いな、可愛らしい刺繍が、衣服のそこかしこに、ちりばめられていた。
年のころは四十ぐらいか。
燃えるような赤い髪は、もみあげから顎までもじゃもじゃとしたヒゲが繋がり、まるで赤毛の熊かと思うような、厳つい風貌をしていた。
その男は枝を落とし終わると、次にちょうなを持ち、それで木の表面を削り始めた。
ちょうなは、頑丈で直線的な木製の柄に、直角に刃がつけられた横斧である。
その歴史は古く、遙かいにしえの時代から、人々はそれを使用してきた。
ちょうなで、ゴツゴツの木の表皮をそぎ落とし、木材をキレイに処理していく。
男の手によって、それは丸材へと姿を変えていた。
「あ、あのー」
手を休め、大きく背伸びをする男に、木立の間から、声がかかる。
「イ、イジャスラフ……さん、ですか?」
そう、話すのは、十代半ばぐらいの、細身の少年だ。
「いかにも、俺がイジャスラフだが。何者だ、お前ら?」
おどおどと、怯える少年に、横合いからもう一人、男が姿を現した。
「失礼、我々は、あなたを探していました、少しお話をいいですか?」
横から現われた男は、少年よりも少し年長の、それでも二十歳手前と思われる男だ。
こんな子供が、森の中で人探しをしているということに、イジャスラフは首を傾げていた。
「構わんが、何だって、俺を探しているんだ」
「あなたが、名うての大工だと聞いたからです」
そう言われて、イジャスラフは、少しだけ嬉しくなった。
「そんな遠くじゃ、話もしづらいだろう、こっちへ来い、ゆっくり聞こうじゃないか」
男は、怯える少年の背中を押し、イジャスラフの側へと近寄る。
「ほら、イリヤーしっかりしろよ、男だろう」
「で、でも、僕……」
「あー、坊主、怖がるなよ、取って食ったりしねえからよ」
そう、気さくに話しかけるも、少年の震えは止まろうとしない。
「ごめんなさい、こいつ、人見知りするんです」
困り顔の男が、ぺこりと頭を下げた。
「はじめまして、私の名前は、セルゲイです。それで、こっちのはイリヤーです」
セルゲイと言った彼は、傍らの少年の脇を肘でつついた。
「は、はじ、め、ま、して……」
絞り出すような声で、イリヤーは呟くと、セルゲイの背後に隠れてしまっていた。
セルゲイは、セミロングの黒髪を後ろで束ねた、しっかりした顔つきの少年だ。
背丈は、イジャスラフの肩あたりまでしかないが、それでも、この地域の成人男性の平均身長は、ゆうにあるものであった。
対してイリヤーは、赤毛の短髪で、色白の細身。背丈もあまりなく、セルゲイより少し低い小柄な体格である。
服も、ヨレヨレの、所々ほつれも目立つ、みすぼらしいものだった。
「イリヤー、隠れるなよ、お前の用事なんだからさあ」
「そ、そうだけど、でも」
「お前、勇者様なんだろ、いつまでもメソメソすんなって」
イリヤーの、少女と見間違えるような顔が、怯えながら、イジャスラフを見る。
「や、やっぱり、無理。セルゲイ、お願い」
彼の、懇願するような声に、セルゲイは、大きくため息をついていた。
「イリヤーの代わりに、私が説明します」
「ああ」
イジャスラフは、哀れむような目で、イリヤーを見ていた。
話は一年近く前に遡る。
ここルーシの地から、ギリシャへと至る交易路途上の湖に、一匹の怪物が現われた。
それは、最初のうちは、行き来する船を見ているだけに過ぎなかった。
だが、交易路を行き交う人々が、面白がって、餌を与えているうちに、怪物の身体は、見る見るうちに巨大化してしまっていた。
はじめは、小型のボートぐらいのだったものが、今や、三十人乗りの大型船を凌ぐまでの大きさにまで。
人間は餌をくれるものと思った怪物は、交易船に近寄っては、餌をねだり、さらにその身体を大きく膨らませていた。
あまりにも短期間で急速に巨大化するそれに、人は餌を与えないようにし始めた。
だが、それが怪物の怒りをかった。
腹を空かせた怪物は、通りがかる船に、片端から襲いかかった。
船を沈め、積荷を奪い、船員を食らう。
湖畔には、船の残骸と、人だったものが、流れ着き、辺りを赤く染め上げた。
幸いにも、怪物は昼行性なため、湖は夜間の通行が許された。
しかし、闇夜の移動は危険が伴い、浅瀬に乗り上げる船も続出した。
そこで、付近の村はシャマンと呼ばれる呪術師を招き、託宣を受けることにした。
その結果、怪物を打ち倒す運命の者が選ばれた。
それが、十五歳になろうかという、イリヤーだった。
極度の人見知りの彼は、選ばれたことに、ひどく戸惑っていた。
自分は何もできないと、部屋に閉じこもって、丸まって震えるばかり。
それでも、交易で成り立っている村のためだと言われて、彼は勇者として旅立つことになった。
「私は、彼の、イリヤーのお目付役です」
切り株に腰掛け、セルゲイはそう言った。
「イリヤーは、泣き虫で弱い奴だから、私が尻を叩けということです」
そこまで言われても、イリヤーは黙ったままであった。
「シャマンは言いました、怪物を倒すには、聖なる剣が必要で、それを作るのは、大工のイジャスラフという男しかいないと」
彼の言葉に、イジャスラフは不思議な顔をする。
「うん?剣だと?」
「はい、聖なる剣です」
「剣なら、鍛冶屋の仕事だろう。何だって大工の俺に言うんだ?」
セルゲイは頭を振った。
「分かりません、ただ、シャマンはそう言われました」
シャマンとは、このルーシの地だけでなく、極北の民や南方の遊牧民が持つ、自然と対話をし、精霊の力を持って、人々を導く者のことである。
人は、どうしていいか分からなくなった時や、災いを鎮めたい時など、このシャマンの力を頼り、困難に打ち勝つ事によって、日々を暮らしていた。
未だ迷信が蔓延する、この時代、イリヤーは、シャマンによって選ばれ、勇者となった。
人見知りをする、この小柄な少年がである。
「はくしょん!」
セルゲイの背中の向こうで、可愛らしい声がした。
「お、悪い、つい話し込んでしまったか」
イジャスラフは、丸材を荷車に積み込むと、二人についてくるように促す。
「続きは、俺の家で聞くよ」
そう言って、重そうな荷車を、引き出した。
「セルゲイ、どうしよう」
「行くしかないだろう」
尻込みするイリヤーの手を引っ張り、セルゲイは彼の後を追った。
二人の前で、荷車の車輪が地面にめり込み、高い轍が形成される。
それをじっと見ていたイリヤーは、荷車の後ろに回り、非力ながらもそれを押していた。
「おい、イリヤー」
「セルゲイも、手伝ってよ」
「しょうがねえなあ……」
子供の力とはいえ、後ろからの助けに、荷車は少しだけその動きが軽くなる。
イジャスラフは、声にこそ出さなかったが、その心遣いを、とてもありがたく感じていた。
森のそばに、小さな村があった。
村は、森と川の境の野原にあり、周囲に豊富にある木を利用して板壁で囲われている。民家の数は、およそ十軒ほどあり、それらが村の中心にある広場を基準にして、円形に建並んでいた。
荷車の上で伸びる二人を運びつつ、イジャスラフは一軒の家の前で立ち止まった。
「おーし、着いたぞ。二人とも」
柔らかなイリヤーの頬を、つつきながら、彼は二人を起こしにかかる。
「はぇ、も、もう着いたの?」
眠たい目を擦り、イリヤーは大あくびをした。
見回すと、そこは彼らが居た村よりも、もっと小さな村が見える。
建物は全て木造で、寒さ厳しい土地ならではの、丸太と土壁で出来た重厚な家が立ち並ぶ、ごくごく普通の集落だ。
「さあさあ、家に入ってくれ、日が落ちたら寒いのはすぐだぞ」
言われて、イリヤーの目は空を見る。
青空は、ほんの少しだけ赤みを帯び、短い昼間の時間が終わりを告げようとしていた。
「イリヤー、行こう」
「うん」
イジャスラフとセルゲイの後に続き、彼も家に入っていった。
家に入ると、そこはまるで別世界のように暖かであった。
「おおい、かあちゃん、温かい飲み物を出してくれ、客人だぞ」
部屋の奥に向かって、イジャスラフが声を出す。
「ささ、上がってくれ、遠慮するなよ」
戸惑う二人を和ませるかのように、彼はにこりと笑った。
「お邪魔しまーす」
「お、お邪魔、します」
壁には、イジャスラフの手がけた彫刻があり、道具置き場と思われる場所には、見たことも無い大工道具が、ずらりと並べられ、改めて彼が腕のいい大工だと思わせる様子であった。
「あ、これ」
ふと、戸棚に置いてある、小さな入れ物に、イリヤーは目を奪われた。
「ベレスタだ」
「すごい、こんなに細かい彫刻、初めて見たぞ」
二人は、それを輝く目でじっと見つめた。
手の平サイズのそれは、円筒形の、蓋がついた小物入れで、その側面と蓋には、動物や植物が繊細に彫り込まれた、見事なものであった。
「何だ、気になるなら、やるよ」
戸棚のそれをつまみ上げ、イジャスラフは、二人の手に、それを握らせた。
「え、で、でも」
「いいって、これぐらい、いつでも作れるからな」
そう言って、彼は笑う。
「ありがとうございます、イジャスラフさん」
「あ、ありがと、ござい、ま、す」
ベレスタとは、白樺の樹皮から作られた、白樺細工の総称である。
ここルーシの地に住むスラヴ人は、木工芸が得意な者が多く、交易の品としても人気の高いベレスタを作る者が、数多く存在していた。
だが、そのほとんどは交易の途上で買われるため、国外に出回るのは、ほんの僅か。
まさに、知る人ぞ知る、隠れた名産品であった。
「大工仕事の合間にな、小銭稼ぎでやっているんだ。よく出来ているだろう」
イリヤーはベレスタの蓋を開けてみた。
きゅっという音がして、鼻に白樺の心安らぐ香りが満たされる。
その香りに、彼は不思議と懐かしさを感じていた。
「ちょっとあんた、お客さんを椅子に案内しなよ」
「おう、そうだった、二人とも、座ってくれ」
湯気の上るコップをお盆に載せて、太めの女がイジャスラフに、そう言った。
椅子に座ると、女が二人の前のテーブルに、コップを置いた。
「温かいうちに飲んでおくれ」
そう言って、女は部屋を出て行った。
「あれな、俺の女房のスヴェトラーナだ。ああ見えても、昔は細身の美人だったんだぞ」
「あんた、聞こえてるよ!」
隣の部屋からの声に、彼は肩をすくめて笑って見せた。
「それで、イジャスラフさん、剣のことなんですが」
「おう、それな」
彼は、セルゲイの言葉に、耳を傾けた。
「使うのは、イリヤーなんです」
急に名前を出されて、イリヤーの身が、びくりと震えた。
目の前で、ぶるぶる震える少年の姿に、イジャスラフは、内心、不安を感じていた。
「この、坊主……、っと、イリヤーがか」
「そうなんです、シャマンは、イリヤーでないと、怪物は倒せないって言っていました」
イリヤーの、澄んだ瞳が、たちまち潤みだす。
頭を横に振り、課せられた任務をやりたくない、とばかりに顔を伏せてしまった。
――こんな調子で、大丈夫なんだろうか。
大人と言うには、まだ早い、小さな子供の試練に、彼は少しだけ哀れんでいた。
「ところで、怪物ってーのは、どんなやつなんだ?」
暗くなった空気を、切り替えようと、イジャスラフは話を振る。
「それがですね、頭が三つある、大きなトカゲみたいなやつです」
「三つ?」
「はい、大人たちは、ドラゴンだって、言っていました」
セルゲイの言葉に、彼はますます不安が募る。
普通のドラゴンですら、大人が十数人で退治しないといけないのに、三つ首のを、こんな子供がやれと運命づけられてしまったのである。
「……不安だな」
思わず、言葉が漏れる。
「えっ?」
「あ、いや、なんでもない」
セルゲイに聞き返されて、彼はごまかした。
目の前で、コップを持つイリヤーの手は、何にも汚れてはおらず、剣も弓も持ったことがなさそうな、無垢な感じを残したままであった。
おそらく、喧嘩もせず、動物を絞めたこともないのであろう。
イジャスラフは、己の手を見る。
ゴツゴツとした、四角い大きな手は、無数の切り傷や擦り傷にまみれ、金槌や、斧を握り続けたマメが、至る所に刻み込まれた、職人の手であった。
この子が、何故、シャマンに選ばれたのか、彼には分からなかった。
だが、この小さな子を手助けする役目として、自分は指名された。
シャマンの託宣は絶対である。
言われたとおりに、事を運べば、物事は切り開ける。
これは、必ずや意味のあるものなのだと、彼は受け取っていた。
「よく分からんが、俺が剣を作ればいいんだな?」
イジャスラフは、笑顔をイリヤーに向けた。
「おい、イリヤー」
セルゲイが、うつむいたままの、イリヤーをつつく。
「えっ、あ……」
驚いたイリヤーが、思わず顔を上げた。
「イリヤーの剣、俺が作ってやるよ。なっ?」
そう言って、イジャスラフの大きな手が、差し出された。
その手を、イリヤーは、おっかなびっくりで、ゆっくりと握る。
「よ、よろしく、お願い、しま、す」
ふかふかと柔らかい、イリヤーの手を、イジャスラフは両手で包み込み、優しく握り返していた。
こうして、小さな勇者は、大きな大工の家で世話になることとなった。
外は既に日が落ち、冷たい空気が、屋外を支配していた。