風の強い昼の山田の車の中
kuruma ha shi hetomukau.
絵を描いてみたのだ。八木は画家ではない。ただなんとなく描いてみたくなったのだ。それはふと山田の車の運転席と助手席の間に埋もれてぐしゃぐしゃになった一枚の小さな正方形のメモ用紙と先がとがっても丸くなってもいない中途半端に角を残した短いえんぴつを見つけたからだ。真っ白い背景に黄色いもやがかかったようなその紙は以前雨にでも濡れたのか。
「まるでおしゃれな和紙みたいじゃないの」
八木がそう言ったあとに山田はハンドルを握りながら八木の方にちらりと目をやって、
「八木、まるでお前のようだ」
と苦笑いを浮かべた。
「八木、なにを描いたんだ」
「木だ、八本の木だよ」
八木は小さく笑った。
「なんだそれは。絵じゃなくてお前のサインじゃないか」
山田は鼻で笑ってから
「お前はまだこの世界に自分の存在を知らしめたいんじゃないのか」
と皮肉るように言った。八木は舌打ちをしてから助手席の窓を開けて紙をぽいっと投げた。
なにかに吸い込まれるようにメモ用紙の姿はすぐに消えてどこかへと飛んでいく。風、強いな、と八木はぼそりと言って窓を閉めた。
「強い向かい風だ。なんだか車が進みにくい気がする」
山田は眉間にしわをよせる。
「そんなやわなものなのか車というのは」
八木はそう言ってから先を見つめた。ここは山道。人の姿も車の姿も全く見えない。じっと先を見つめていた。何かないか。あ、橋だ。目的地だ。
山田は車を道路のわきにとめた。
「さあベッドタウンだ」
山田は言った。
「八木よ、どうする。俺はお前が橋から飛び降りる姿は見たくない。俺はお前をおろして最後を見届けずに家に帰るぞ」
それでいいよな?と山田はたずねた。すると八木は口を開かずに小さく頷く。
「なんだ八木。びびっているのか。死ぬことに」
八木はやっとシートベルトを外し、まさか、とふるえる声を漏らしてドアを開けた。
「びびってんなら死なねえほうがいいよ」
「びびってねえよ」
八木はからからになった声を絞り出す。
「山田。俺さ、ヒーローになりたかったんだよ」
八木は身を車の中から完全に出した。風にまぎれて、世話になった、という声がかすかに山田の耳に入った。八木はおもいっきりドアを閉めた。車が小さく揺れる。山田は八木の方を見向きもせずに車を動かしUターンして、来た道を勢いよく走らせる。
山田は車を走らせていた。もうすぐで市街地に出るというところで、ひとりの小学生ぐらいの少女が道路のわきでうずくまっているのが見えて、車をとめて、おりて、声をかけてみたのだ。汗ばんだ顔に長髪はいたんでいて目もうつろな少女はぽつりぽつりと話し始めたのだ。
少女は小学校でいじめにあっていた。そして家が唯一の安全地帯というわけでもないようで家族からの虐待も受けていた。
「だから死のうと思ったのよ」
少女は首を掻いた。爪に垢がたまる。でもね、と少女は続けた。
「これ見たらなんだかどうでもよくなっちゃったの」
少女はうっすら黄ばんだ小さな紙を山田に見せた。
山田は驚かずにいられなかった。声が出ない。
「この絵。八本の木。色は無いし下手くそで。なんだか辛そうにしてるこの木たち。私みたいに」
八木の顔が山田の頭でちらつき始める。
「この木たちは死のうにも死ねない。頑張って生きてるのよ。辛いのに」
少女は鼻からわずかに垂れる鼻水を腕で拭いた。
「だから私も頑張らなきゃいけない。死んじゃいけないのよ」
少女はくしゃっと笑った。汚れた肌でもとても輝いた宝石のような笑顔だったのだそれが。
山田は大きな手のひらで少女の小さな頭をつかむようにして撫でた。
ヒーローじゃないかとっくに。