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 アンドロイドは眠らない。

 午前一時。おとぎ話大全集の第九巻を読み終えた俺は、ノートパソコンを開いた。各部屋に支給されているパソコンは、インターネットに接続出来るようになっている。俺は自腹で、動画見放題のサイトと契約していた。人間が寝静まってから朝が来るまでは、動画を見たり本を読んだりして過ごすためだ。

 何を検索するかしばらく悩み、轟の言っていたゾンビのドラマを調べた。

 シーズン六まで配信されている。長い。シーズン一から全て観たとして、シーズン六の終わりまで全八十三話を視聴する必要がある。一話四十七分で構成されているという事は、全て見終えるまでに三千九百一分。それ程の時間を割くほどに、このドラマは面白いのであろうか。


 とりあえず、第一話を視聴する。平穏な世界が突如暗転し、終末世界に変わる。人間がいきなり人間に襲い掛かるようになり、死体が動き出す。パニックになる人々。物語の主人公である中年男性はパニックに巻き込まれ、家族と離れ離れになり、それでも生き延びるために奔走する。といった物語らしい。


 展開はスピーディーで、確かに見やすい。問題は、人々がゾンビになっている原因だ。第一話なのだから語られない方が普通なのだろうが、こちらとしてはあれこれと想像してしまう。人間のばら撒いたウイルスによる物なのか、あるいは細菌か、微生物か。それらは自然発生した物なのか。

 もしもこれが、聖書をのっとっただけの『死者復活』であり、疫病でも何でもなく『神のお怒り』といった設定なのだとしたら興醒めだ。

 四話視聴してみたが、ウイルスに関する説明は一切なかった。そもそもこの物語の主人公は科学者でもないのだから、研究が開始されるはずもない。

 シーズン六まで配信されているという事は、三千九百一分かけても未だにウイルスかどうか判明されておらず、更にはワクチンなども製造されていないのだろうか。

 しかしどうもこの物語は、そういった病原に関する事より、終末世界に置かれた人間達の心理描写の方に力を入れているらしい。なるほど、人間観察するには面白いドラマかもしれない。



 午前五時。俺はドラマの視聴を辞め、三階にある談話室へと向かった。談話室には、この寮唯一のテレビがある。そこで毎朝ニュースを見るのが日課だった。

 談話室にはテレビのほかに卓球台、トランプ、オセロ、囲碁、将棋、チェスなどがある。それにいくつかの合皮ソファとテーブル。

 談話室の中には更にもう一つ部屋があり、そこにはグランドピアノが置かれている。楽器演奏室、もちろん防音仕様だ。ちなみに談話室や食堂、廊下には監視カメラがあり、妙な事をすればすぐばれる。

 以前、防音だからと、楽器演奏室でセックスをしようとした奴がいたらしいが、あっという間に露見した。人間の性欲というのは、理性をむしばむ様である。


 談話室へ行くと、既に何名かの生徒がそこにはいた。番組は始まったところで、昨夜起こった重大な航空事故について、アナウンサーが深刻な顔をして語っている。死者が出ているので、今日はどの番組もこのニュースをやるだろう。ソファに座り、政治や経済、殺人事件、その後に続くこの冬お勧めスイーツ特集をぼんやりと見ていると、扉が開いた。


「あ……」


 その声につられて振り返ると、そこにいたのは森口だった。両腕で、紙を抱きしめている。大体の奴はまだ寝間着姿だが、彼女は既に制服だった。


「おはよう、山田君」

「おはよう。森口もニュースを見に来たのか?」

「ううん。ピアノ、弾きたくて……」


 森口はうっすらと笑った。こういうのも悪いが、幸薄そうな顔だと思う。俺は森口の胸元に目をやった。


「それは楽譜か?」

「え……。うん」

「何を弾くんだ?」


 俺が訊ねると、今度は苦笑した。それから楽譜に目をやり、三秒ほど考えてから、言う。


「光の街並み」


 ――聞いた事のないタイトルだ。少なくとも、俺のデータベースには記録されていない。


「楽譜を見せてくれないか」


 俺がそう言うと、森口は何故か困惑したようだった。しかし、渋々といった様子で俺に紙を渡してくれる。森口から受け取った用紙を見て、俺は首を傾げた。


「名倉の絵じゃないか、これ」


 彼女が楽譜だと言っていたものは、名倉ヒカルがよく描いている街の絵だった。ペン一本で下書きもなく描かれた、繊細な絵画。相変わらず、色付けはされていない。山頂から市街を鳥瞰ちょうかんしたようなアングルで、無限に広がる屋根と道が描かれている。


「これが楽譜なのか?」


 思わず言うと、森口はどこか恥ずかしそうに「うん」と答えた。

 絵画を楽譜にする人間を、俺は初めて見た。――興味深い。


「一緒に演奏室に入ってもいいか? どんな音楽になるのか、興味がある」

「いいけど……山田君は面白くないかも……」

「構わない」


 二人で演奏室に入り、俺は壁にもたれかかった。森口は最初こそ気恥ずかしそうにしていたが、楽譜代わりの絵を置いた途端、背筋と表情が変わった。いつもおどおどし、自信のなさげな彼女とはまるで別人だ。


 曲は、低音から始まった。そこから徐々に徐々に高くなっていく。――鳥が飛ぶように。

 一定の高さになると、右手は高い位置で分散和音を繰り返し、左手が主旋律を奏でる。素人の見解だろうが、右手が鳥で、左手が街並みのようだった。右手の方は安定しているが、主旋律の方は不安定で、激しくなったかと思えば落ちついたり、活発になったかと思えばフラットになってもの悲しさを演出したりする。

 そうしてやがて、右手が徐々に左手と合流するように音階を下っていき、ダンパーペダルを用いて、余韻を残したまま演奏は終わった。

 俺が拍手をすると、森口は固い笑顔を見せた。いつもの、自信のない森口に戻っていた。


「いつから考えていたんだ? この曲」

「……即興だよ。今、ヒカル君の絵を見て思ったことを音に乗せただけ」


 やはり彼女は、こと音楽に関しては天才だと思う。普通の人間なら持ち合わせていないような感性を、音楽にする能力。更にそれを弾きこなす技量。将来はプロのピアニストか。


「一つ聞いていいか?」

「……なに?」

「途中、左手で主旋律を弾いてる時。全体を通して、メロディが不安定なように感じた。あれは何だ?」

「あ……。ほら、街って、時間によって顔を変えるから。午前中はちょっとバタバタしてるの。午後からは少し落ち着いて、夕方は悲しくなる」

「成程。それで、最後は鳥が飛ぶのを辞めて終わりか」

「うん。でも鳥は『今日』飛ぶのを辞めただけ。明日もきっと、また飛ぶの」

「だから、ラストに余韻を残している訳だ」

「そう」


 森口は嬉しそうだ。普段は俺が言うのもなんだが、彼女は口数が少なく表情も乏しい。しかしやはり、音楽はよほど特別らしかった。


「いい物を聞かせてもらった。感謝する」

「こっちこそ。最後まで聞いてくれてありがとう」


 俺は時刻を確認した。午前六時五十分。


「そろそろ朝食だな。俺も着替えてくる。また食堂で会おう」

「うん……。じゃあね、山田君」


 声に覇気がない。楽譜を腕に抱えた森口はもう、いつもの彼女に戻っていた。



 ――俺には人間にはない物が数多く存在する。知識の豊富さ、計算能力、記憶保持能力など。それとは逆に、人間にはあって俺にはない物もある。今更欲しいとも思わないが、それのせいで面倒だと思ったり、厄介だと感じる事は多々ある。例えばそう、今がまさにそれだ。


 斎藤を除くメンバーは全員席につき、困惑と憔悴と苦渋を混ぜた視線を名倉に向けていた。いや、実際にその顔をしていたのは女子だけで、俺と轟はいつも通りの顔をしていたかもしれない。周囲の学生は、見てはいけない物を見るような目でこちらを見たり、目を逸らしたりしている。

 事の発端は、朝食のスクランブルエッグだ。名倉は一口食べるやいなや顔をしかめ、唐突に立ち上がった。勢いが良すぎて、座っていた椅子が大きな音を立てた。


「これは牛乳じゃありません!」


 名倉はそう言うと、頭を激しく上下に振り始めた。さながらヘッドバンキングのような光景であるが、ここはヘヴィメタルバンドのライブ会場ではなく、ただの食堂だ。その姿は当然のように目立つ。


「なんだよ急に」


 スクランブルエッグが見えなくなるんじゃないかと思わせるくらいの大量のケチャップを消費しながら、轟は面倒くさそうに言った。面倒というよりも、こいつはただ単に朝に弱いだけだろう。朝食時、機嫌のいい轟を見た試しがない。

 名倉は「これは牛乳じゃありません」と叫ぶように繰り返した。繰り返す言葉がそれだけなので、何の話なのか理解出来ない。名倉の向かいに座っていた森口は立ち上がり、名倉の隣に立つと、身体に触れないよう注意しながら彼を慰め始めた。

 こういう時、森口の覇気のない声は役に立つ。癇癪を起している名倉に大声で対抗すると、余計に事態が悪化するからだ。


「ヒカル君、牛乳じゃないの?」

「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」

「スクランブルエッグが、牛乳じゃないの?」

「牛乳じゃありません!」

「そうなんだね、分かった。とりあえず、椅子に座ろう?」


 森口は促すと、名倉は泣き出しそうな顔をしたまま着席した。それを見ていた鍵谷が、不思議そうな顔をする。


「スクランブルエッグは、牛乳じゃなくて卵でしょ?」

「そうだけど、中に牛乳が入ってるじゃない。もしかしたら、今日のは入ってないのかも……。ちょっとごめん」


 自分の席に着いた森口は、スクランブルエッグを一口食べた。ゆっくりと咀嚼してから、もしかして、と呟いた。


「これ、豆乳かも……」

「そうなの?」


 鍵谷も同じように一口食べ、森口の真似をするようにゆっくりと味わってから、うーんと唸った。


「よく分かんないんだけど」

「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」

「ヒカル君、ちょっと声を小さくしようか。皆、驚いてるから」


 森口がなだめている様子を見ながら、俺はウインナーをかじった。今、スクランブルエッグを食べるのは自殺行為である。「山田君はどう思う?」と振られかねないからだ。

 森口が指摘したおかげか名倉の声のボリュームは下がったが、依然「牛乳じゃない」と言って譲らない。そこに、斎藤がやってきた。


「おはよう」


 斎藤の姿を確認した鍵谷は、右手をあげた。


「おはよ、卯月。……ちょーっと今、揉めてるところ」

「なに? どうしたの」

「ヒカル君がね」

「これは牛乳じゃありません、これは牛乳じゃありません」


 名倉は声のボリュームを抑えたまま、その言葉を繰り返す。流石にミュートにはできないらしい。

 事情を全く知らない斎藤に、鍵谷と森口が説明をする。今日のスクランブルエッグが牛乳じゃないと名倉が主張している事、もしかしたら豆乳が使われているかもしれない事。

 その説明を聞いても、斎藤は今一つピンと来ていないようだった。どうも、料理を知らないらしい。

 轟は元はスクランブルエッグであった、真っ赤な物体をつつきながら言った。


「同じ味だと思うけどな」

「あたしもよく分かんないんだよね。ちょっと卯月も食べてみてよ」


 鍵谷に言われるがまま、斎藤も一口食べる。そして、複雑な顔をした。顔面に「分からない」と書かれている。

 斎藤が無言のままでいると、耐えきれなくなったのか名倉が椅子を揺らし始めた。


「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」

「まあ落ち着けよ。椅子から落ちるぞ。……ヒカル。おめー、大豆アレルギーでもあったか?」

「アレルギーはありません!」

「そんじゃ、いいじゃねえか。牛乳でも豆乳でも」

「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」


 自閉症児は、健常児よりも五感が鋭いという。名倉がここまで言うのだから、今日のスクランブルエッグが牛乳でない事はまず間違いない。問題は、『一般的な味覚を持った人間』が、どこまでその違いに気付くかどうかだ。


「山田はどう思う? 牛乳か、豆乳か」


 ――来た。俺は今までの情報を総合した。味の違いを確実に感じているのは名倉一人、違和感を覚えたというのが森口。分からないと答えたのが、斎藤と鍵谷の二人。ケチャップをかけすぎている轟は論外だ。

 俺はスクランブルエッグを一口食べ、咀嚼した。

 牛乳か、豆乳か。俺にその違いが分かるはずがない。何故ならば俺は、牛乳の味も豆乳の味も知らないからだ。


 山田実というアンドロイドには、味覚がない。


 感情のような物を得る代わりに、削ぎ落した物の一つだった。だから俺は、食事を美味いと感じたことも不味いと感じたこともない。甘い、苦い、塩辛い、酸っぱいなどといった言葉は理解できるが、それがどういった物なのかは体験した事がなかった。嗅覚はあるが、『におい』と『味』は話が別だ。食塩水と砂糖水は、においだけでは判別できない。


 だから、食事に関する話は非常に面倒だ。美味いか不味いか。甘いか辛いか。――牛乳か豆乳か。

 全員の話を総合して、一番無難な答えを選ぶに越したことはない。つまり、


「分からない」


 今、一番『一般的』なのはこれだろう。俺がそう言うと、何故か全員が肩を落とした。成績トップの山田実なら、味の違いすら分かるとでも思っていたのだろうか。


「でも今日の、ちょっとしょっぱいかも……」


 森口があまり口を開かずぼそぼそした声でそんな事を言って、斎藤と鍵谷が頷いた。


「そうかあ? 確かにちょっと塩気がきつかったか……」


 卵というよりもケチャップを食している轟の発言は全員スルーだ。そしてまた、斎藤達はこちらを向いた。


「山田君はどう思う?」


 森口、鍵谷、斎藤の三人が塩辛いと言っているのだ。まず間違いないだろう。しかし、「ちょっとしょっぱいかも」であって、「塩がきつすぎて食べられない」程でもないらしい。それならば、答えは曖昧でも問題ないだろう。


「塩辛い気がする」


 その後、轟が名倉のスクランブルエッグに牛乳を注ぐという、傍から見ればいじめのような行動でもって事態を収束させた。

 斎藤達が食堂のスタッフに確認したところ、牛乳ではなく豆乳が使用されていた事が判明した。やはり、名倉の五感は素晴らしいと思う。塩についても、やはり入れすぎていたらしい。


「やっぱり今日の、しょっぱかったよね……」

「牛乳と豆乳を間違えるなんて、新人さんかなあ」

「こんな離れ島に、新人なんか来るかよ。単なるミスだろ」


 味覚が関わる話題についてはあまり触れたくないので、距離を置いて、さも興味のなさそうな顔をした。


 校舎に入り、教室近くの男子トイレ前で足を止める。トイレに行くから先に教室に入っててくれとメンバーに伝えて、個室に入った。

 そうしていつものように、先ほどまで食物だったそれを全て便器の中に吐き出した。

 牛乳か豆乳か、塩辛いのかどうかも分からない、色とりどりのそれを。


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