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先ほどまでは立派な食物だったそれを、俺は凝視していた。
白米に味噌汁、その中にあったワカメと玉葱、ポテトサラダ、それにエビフライ。咀嚼したせいで形こそ崩れてしまっているが、それらが鮮烈な色彩でもって、白い便器を飾っていた。とりわけポテトサラダの色合いがよく、キュウリの緑と人参の赤が映えている。
自分が吐き出したそれには、胃液などは一切混ざっていない。よって、便器から漂うのは人間の吐瀉物のにおいではなく、単なる食物のにおいだ。俺はトイレに持ち込んでいたペットボトル入りの飲料水を何口か飲み、また吐き出した。それを何度か繰り返す。胃と呼ばれている袋の中でそれらが腐ってしまう前に、俺はそれを綺麗に洗い流さねばならない。
この光景を見ていれば――例えばそう、精神科医なら、俺が摂食障害ではないかと疑うのだろう。しかしあいにく、俺は摂食障害ではない。摂食障害にはなりえない。
俺こと山田実は、この施設で作られたアンドロイドだ。
この施設は表向きには『天才児を育成する学校』となっている。しかし秘密裏に、様々な実験がなされている。そのうちのひとつがアンドロイドだ。俺はそんな研究過程で生まれた、『奇跡のアンドロイド』である。
今から五年前。制作途中で大きな地震と長い停電が続き、その結果生まれたのが、山田実というアンドロイドだった。確率論や現実として考えるのであれば、奇跡ではなく、ただの偶然の産物であるといえるのだが。
地震か停電が、俺の基盤にどのような損傷を与えたのかは知らない。しかしそれのおかげで、山田実というアンドロイドはこの施設で――いや、世界で唯一ともいえるだろう『感情を持つアンドロイド』となった。更に言うならば、自発的に行動できるアンドロイドになった。
本来のアンドロイドは基本、受動的にしか動けない。質問に答えることはできても、質問を『作成』することができないのだ。インプットされている情報から答えを導き出すことは容易でも、新たな何かを作り出す力が決定的に欠けている。故に、今までのアンドロイドは会話というものが成り立たなかった。
しかし俺は、ほとんど人間に近いアンドロイドだ。自分で考え、動き、あらゆる話を創作できる。よって、人間との会話もスムーズにこなせるし、人間との共同生活も可能である。
だが、それのためにいくつかの物を犠牲にする必要があった。
例えば、俺には消化器官という物がない。人間達に合わせ、食事をすることはできる。物を噛み砕き、飲み込む。ここまではいい。問題はその後だ。
俺の飲み込んだ食物は食道のようなホースを通り、胃のような袋の中に入る。まあ、そこまでは普通の人間と大して変わらない。しかしながら俺には、その後がない。大腸も小腸も肛門もない。胃のような袋しかないのだ。
よって、飲食したものは口から吐き出さねばならない。そうしなければ、袋の中で食物が腐り、腐臭を発してしまう。更に、吐き出した後も水でもって濯がなければならない。でなければやはり、腐臭を発してしまうからである。
その他にも、人間にはあって俺にはないものがいくつかある。しかし、それらを欲しいと思ったことはない。所詮自分はアンドロイドであって、人間ではないからだ。
自分が数分前に吐き出したものに再度目をやる。それから口に水を含み、ゆすいで吐き出した。――こんなものだろう。
流すと書かれたボタンを押すと、吐瀉物は大量の中水とともに流れ落ちていった。それをしばらく観察してから、俺は腕時計を確認する。五限目が始まるまで、あと十分ほど。個室に引きこもる事としよう。トイレの個室は狭いが、プライバシーがしっかりと保護されているので悪くないと思う。
先ほど食堂でエビフライを咀嚼しながら見た、名倉ヒカルの絵を思い出す。彼の絵は緻密で繊細だ。サヴァン症候群特有の世界観を、彼は見事に表現している。
彼の絵を上手いか下手かで言うのならば、上手いのであろう。だが、単に上手く描かれた絵と、売れる絵は全くの別物だ。一見下手そうに見える絵にも、億単位の値打ちが付けられるのが絵画の世界である。
しかし、と思う。名倉の絵は、いつか評価されるのではないだろうか。残念ながら、それは今ではないと思う。だがいずれ、彼の絵を評価する者が現れるだろう。
出来るならば彼には、今のスタイルを貫いて欲しいと思っている。ペン一本で書き、色は塗らない。彼の絵はそれで出来上がっているのだ。下手に色を付ける必要はない。色彩がないからこそ、名倉の絵は奥行きが深いのだから。
時計を再確認すると、始業開始まで残り二分を切っていた。次の授業は体育だ。人間にとっては発育に必要なそれは、アンドロイドにとっては不要である。故に俺は、体育という科目が好きではないし、よく欠席する。そもそも、何十億という知識をインプットされている自分にとっては、たとえ天才児たちの育成プログラムであろうとも難はなかった。
学校のような施設に通うことで、俺に求められているのは、教養を深めることではない。
人間に溶け込み、共同生活できるかどうか。人間として生活できるかどうか。そのための実験であり、生活であった。
故に、俺がアンドロイドだという事実は誰にも口外してはならない。例えそれが、友達と呼べるような仲になった人間であろうとも。
トイレから出ると、俺はまず教室に向かった。しかし、鍵がかかっていた。教室は諦めて、図書室へと向かう。しかしこれまた都合が悪いことに、他クラスの生徒たちが特別講義を行っていた。それでも体育の授業に出るのは気が重いので、保健室に行く事にした。幸いにも、ペットボトルの入ったカバンの中には、読みかけの本が入っている。それでも読んで、時間を潰せばいい。
――そういえば、いつも一緒に食事を摂る斎藤卯月も、体育を休んで保健室に行くと言っていた。鉢合わせてしまう。だからといって、不都合な事はなにもないのだが。
しかし俺の読みははずれ、そこに斎藤の姿はなかった。俺の読みが外れたのではなく、彼女が嘘をついていたという事になる。どこに行ったのだろうか。トイレか?
まあいい。養護教諭もいない今は、読書するにはうってつけだ。俺は奥のベッドに腰掛けると、読みかけの本を開いた。
おとぎ話大全集。十五歳にもなると、このような本は読まないのかもしれない。しかし俺にとって、この本は新鮮だった。インプットされていない話が、山のように記載されているからである。俺にインプットされているものは辞書のような知識ばかりで、こういった子供向けの物語はあまりない。
おとぎ話大全集の一巻から八巻までは全て読んだ。九巻も残りわずかというところだ。問題は、図書室に十巻がない事。誰かが滞納しているらしい。全十巻と聞いた限りは、網羅したいところである。
手元にある九巻を開き、三話ほど読み進めた。――斎藤が来る気配はない。そろそろ五限も終わる頃なのに、彼女はどこに行っているのだろうか。
そんな事を考えていたらちょうど、扉をスライドさせる音が聞こえてきた。養護教諭でも帰ってきたか。そう思っていたら足音はゆっくりとこちらに近づき、何の躊躇いもなくカーテンを引いた。そうして、カーテンを引いた張本人は「ひっ」と小さな悲鳴をあげた。
「どこに行ってたんだ?」
そこに立ちすくんでいたのは、本来ならば四十分前からここにいたはずの斎藤だった。斎藤は気まずそうに身体を揺らし、視線をあちこちに移動させている。
「あ、えっと……トイレに」
――嘘だな。瞬時にそう思った。どうも彼女は、嘘をつくのが下手なようだ。頭は揺れているし、視線は定まっていないし、舌も回っていない。挙動不審もいいところだ。
「俺は、五限目が始まってからずっとここにいたんだが。斎藤は今までずっと、ここにはいなかった。四十分もトイレにこもってたのか?」
俺が言及すると、斎藤はますます怪しい顔つきになった。顔面に「どうしよう」という文字が張り付いているような気さえする。恐らく、俺がここにいた事に動揺しているのと、この四十分で俺には知られたくない何かがあったのだろう。「えっと、違うの、あのね」と、必死になって言葉を繋げようとしている。
女子がここまで嫌がる話題。男子には言いたくない話だろうか。だとすれば、
「月経痛か?」
月経などという物は単なる生理現象であり、人間が子孫を残すためには必要かつ重要な物である。だから全く持って恥じらう必要はないと思うのだが、思春期の女子は、男子にこの手の話をするのを酷く嫌がる。
残念ながら俺は月経痛のつらさを知らないのでそこら辺は理解しかねるが、もしかしたら四十分も身動きが取れないくらいの激しい痛みだったのかもしれない。
しかし、斎藤は勢いよく首を横に振った。頬が紅潮している。林檎の様だと喩えた人間は誰なのだろうか。見事に的を射ている。
「ちがっ、違うよ!」
ふむ。月経痛ではない、と。
「なら、腹でも下したか」
「違うって! そうじゃないんだけど、違うの、あの、えっと」
これも違うのか。よく分からない奴だ。
「腹が痛いなら、右から二番目の棚に薬があったはずだ。OTC医薬品だけどな。月経痛ならイブプロフェン、腹下しなら木クレオソートが無難か。塩酸ロペラミドでもいいが、それは食あたりと水あたりには適用外だ。あと、牛乳アレルギーがあるならタンニン酸アルブミンってやつが入ってる薬は飲むな」
月経痛でも腹痛でもないのならば尚更、トイレに行っていたという話は嘘のようなので、薬のレクチャーは要らなかったかもしれない。斎藤は、難解な問題を目の前にした時のような顔をしている。イブプロフェンではなく「イブ」とか、木クレオソートではなく「正露丸」などと言ってやった方が分かりやすかったのだろうか。
グラウンドからかすかなホイッスルの音が聞こえてきて、俺は外に目をやった。教師の下に生徒が駆け寄っている。
「授業が終わりそうだな」
俺の言葉につられて、外に目をやる斎藤の姿を視界の端で観察した。彼女はグラウンドを見て、目に見えて分かる位に慌てふためき始めた。
これがコメディー映画かなにかであれば、今頃斎藤は、タップダンスのようなものを披露しているであろう。両手を左右に振り、首は上下に振って。
それ位、斎藤の全身は揺れていた。顔に表記されていた「どうしよう」が今、全身に移行している。
「や、山田君!」
いつもより2トーンほど高い、上ずった声で斎藤が声をかけてきた。ゆっくりと振り仰ぐと、ばつの悪そうな顔をした彼女がそこにいた。
「あの、あのね。五限の間、私はずっとここにいたって事にしてもらいたいの。山田君の隣のベッドにいたって事にして!」
四十分の空白の時間は、彼女にとってそんなに問題なのだろうか。
「何故? その嘘をつく理由は?」
「……言えない、ごめん」
相変わらず、申し訳なさそうな斎藤の顔。どうも、困っているようだ。俺に理由を教えるのも難しいし、アリバイがないのも困ると。
人間がここまでして嘘をつこうとするのはどういう時だろうか。彼女は、この四十分で何か犯したのか? 重大な犯罪、例えば殺人とか。――まさか。ここは、学校のようだが閉鎖病棟のような施設でもある。刃物等の危険物は持ち出せないようになっているし、外から持ち込む事も、ネットで買う事も許されていない。
大体、こんな隔離された空間で殺人なんて犯したら、犯行はすぐに露見する。何か事件があった時は、今のやりとりを密告すればいいだけの事だ。
犯罪ではなく、単に彼女のプライバシーの問題なら、俺がこれ以上追及する必要もない。
結論。彼女の嘘に付き合っても問題はない。
「別に構わない」
俺はそれだけを伝えると、読みかけの本に目を落とした。斎藤が安堵の溜息を漏らす。それと同時に、終業のチャイムが鳴った。しかし、斎藤がここから動く気配がない。一体、これ以上何が目的なのだ? 斎藤は。
もしも俺と、保健室で会話していたというアリバイを作りたいのであれば、その内容を事細かに決めておく必要がある。そう伝えると、斎藤はやはり焦ったように「眠ってた事にする!」と言った。まあ、それが一番無難だ。
ようやく隣のベッドに移った斎藤の事を、少し考える。
正直なところ、彼女の存在は謎だ。というのも、『天才児だけを集めた施設』にふさわしくないほどに、彼女は平凡だからだ。むしろ、平均よりも低い位かもしれない。例えば次の授業は英語だが、彼女はいまだに「I know」を「アイクノウ」と読む。同様に、「knife」も「クナイフ」だ。文法もきちんと理解出来ておらず、「I am play tennis」などといった、ある意味斬新な文章を次々と生みだしている。
これで例えば、森口牧乃や名倉ヒカルのように、芸術面において突出している何かがあるのならばまだ納得がいく。しかし斎藤は、これといって目立つ点がない。絵を描かせてみても中学生のそれだし、リコーダーを吹かせたら音がひっくり返る。ピアノは全く弾けない。体育は常に休む。
彼女がなぜ、選抜試験に合格したのか、アンドロイドの俺ですら理解に苦しむ程だった。
おとぎ話を読みながら斎藤の事を考えていたら、保健室にはふさわしくない音を立てて扉が開いた。鍵谷澪が斎藤を迎えに来たのだろう。
「卯月、寝てた? もうすぐ英語始まっちゃうよー」
やはりというか鍵谷の声がして、更には「実もいるんでしょ? ばれてるんだからね」などと言い放ち、許可もなくベッドサイドのカーテンを引いた。これでもしも、俺じゃない人間が寝ていたらどうするつもりなのだろうか。
鍵谷は頭脳明晰だが騒々しく、俺の苦手な部類の人間である。だが、彼女のパールグレージュの髪は嫌いではない。轟司のホワイトアッシュも。
不承不承ベッドから立ち上がろうとする俺の手元を見て、斎藤が何やら驚いたような顔をしてみせた。俺は手を確認する。そこにあるのは、読みかけの本だけだ。
「なにか?」
訊ねると、斎藤は無言で首を振った。俺も彼女の事を理解出来ていないが、彼女も俺の事を理解出来ないといった様子である。一連の流れを見ていた鍵谷が、疑惑のまなざしを俺と斎藤に向けてきた。
「実。あんた、卯月にちょっかい出したりしてないでしょうね。一時間くらい、男女で二人っきりだったんでしょ。えっちな事してない?」
――女子というものは、月経などの現実的な話は嫌がる割に、下ネタに関しては平然と言ってしまうのだろうか。少なくとも鍵谷はそのタイプであり、斎藤は真逆のようだった。鍵谷の言葉に、斎藤はまたしても激しく動揺している。
「ばっ……! してない、何もしてないって! 私はだから、その、」
「俺は読書をしていた。斎藤は仮眠をとっていた。それだけだが、文句があるか?」
鍵谷からの質問も、斎藤のアリバイも、これでいいだろう。鍵谷は言ってみただけで、俺達の関係をさして疑っていなかったらしく、すんなりと引いた。斎藤は相変わらず申し訳なさそうな顔をしていたが、彼女の小さな嘘に付き合ったところで俺に損害が出る事もないのだから、そこまで気にしなくてもいいのではないだろうか。大体、俺は「構わない」と言ったではないか。人間というものは、時に理解できない。
俺は、感情のあるアンドロイドだ。だが、その感情は希薄である。研究員にそう伝えると、「希薄な人間もいるのだから問題はない」と言われた。感情の起伏が激しく情緒不安定になる事に比べれば、常に一定の状態を保持できる現状の方がいいのだろう。
しかし、そんな感情の薄さのせいなのか、人間を理解出来ない時がある。恐らくこれは、いくら心理学を勉強しても無駄だろう。
例え感情のようなものを持っていようとも、俺がアンドロイドである限りは。




