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無人だったはずの図書室に戻ると、私が座っていた場所にひとりの男子が鎮座し、読書していた。
「またトイレか?」
私の顔を見上げて、山田君はぶっきらぼうに言った。私は首を振る。もしもこの前のように彼が四十分も前からここに座っていて、その間私がずっと不在だったのを確認していたのなら、私はそろそろトイレの花子さんとかそういうあだ名をつけられてしまうだろう。
「保健室に行ってたの。ちょっと気分悪かったから」
「そうか。もう大丈夫なのか?」
「平気。ありがとう」
私はそう言いつつ、彼が読んでいるものに目をやり、悲鳴を上げかけた。
彼が読んでいるのは、大学ノートだった。お世辞にも綺麗とは言えない、癖のある字が並んでいる。それは多分というか確実に、私の字だった。
凝り固まる私の様子に気付いた山田君は、無表情のまま言った。
「これ、斎藤のノートなのか?」
私は無言で頷く。カウンセリング室に走った時、うっかり鞄にしまい忘れたらしい。最悪だ。そのノートは残念ながら、授業用のノートではなかった。
「名前が書かれていないから、誰のノートかと思って読んでいたのだが。斎藤は、小説を書くのか」
自作小説を読まれた。あろうことか、成績トップのクールビューティ山田君に読まれた。澪にすら読ませたことないのに。私は頭を抱えたい気持ちをこらえ、右手を山田君に突き出した。
「ごめん、それ返して」
「待て。まだこの物語のラストを読んでいない。もうすぐ終わりそうだから」
「いやもう読まなくていいから! 恥ずかしいし、やめてよ!」
「恥ずかしい? これが?」
山田君は理解に苦しむといった表情で、私の方を見た。こうやってまっすぐに向かい合うと、彼の瞳は黒じゃなくて茶色に近いことに気付く。
「確かに、稚拙な点は多々見受けられる。例えば斎藤は、情景描写が苦手なようだ。とりわけ、街の描写がなっていない。たとえばここ。『商店街には店がたくさん並んでいた』の一言で済ませられている。これでは、読者が情景を想像できない。――学校についてはかなり事細かに記されているのだが」
そりゃそうだ。だって私は、街というものに行ったことがないのだから。私は十五年間ずっと、施設で育った。だから、学校の描写しかできない。
返事に困る私に構うことなく、山田君は続けた。
「だが、心理描写は得意なようだ。このノートの作品、何作か読んだよ。一人称で書かれている小説が多いが、それは正解だと思う。君は三人称より、一人称の方が向いている。主人公の心理状態をしっかりと書けるからだ。それから、世界観も面白い。突拍子もない台詞や場面がいくつかあるが、それがかえってスパイスになっている。狙ってやっているのかどうかは知らないが」
いつも無口な山田君が、やたらと饒舌に私の小説について語っている。……褒めてくれてる、のだろうか。私はますます反応に困って、黙り込んでしまった。
「なにより、君の文章は」
大学ノートに目を落とし、山田君は言った。
「うつくしいよ」
――うつくしい、なんて生まれて初めて言われた。無論、彼は私にではなく私の小説に言ったわけだが。私の文章について、上手でも下手でもなく、うつくしいと彼は表現した。
私は何も言えなくなって、彼の向かいに腰掛けた。彼はそれで、私が「了承した」と思ったのか、大学ノートに書かれた小説の続きを読み始めた。気まずくなって、私は鞄を漁る。彼と向かい合って、私はおとぎ話を読み始めた。
時計の秒針の音が、やたらと大きく聞こえるくらいに静かな時間だった。
「もうすぐ終わりそう」だという彼の読みは外れていたらしく、そこから読み終わるまでに三十分ほどかかった。ようやくノートから目をあげた彼は、「うん」とだけ言った。私も顔を上げる。よく考えてみれば、山田君とこうしてふたりきりで向かい合うのはこれが初めてかもしれない。いつもは、澪や司君がいた。
うん、の後に何が続くのか、私は待った。けれど彼は、面白かったとも面白くなかったとも言わなかった。ぱたりと大学ノートを閉じて、私にそれを返してくる。机の上で、私はノートを手繰り寄せた。
「このノートだけじゃないんだろう? 斎藤の小説」
「……なんで分かるの」
「ノートに番号が振ってある。これは五冊目だ。ということは少なくとも、あと四冊はあるわけだ」
しまった。書いた順番が分かりやすいように、表紙の右上に番号を振っていたのだ。私の手中にある水色のノートには、『5』と書かれている。
「是非、残りも読ませてほしい」
「いやです」
何故か敬語で即答してしまった。だって流石に恥ずかしい。ポエムみたいなのもいくつか混ざってるし。彼は「いやならば無理強いしない」と言ってから、私が読んでいた本に気付いた。
「斎藤の読んでいる、それ」
「……これがなに?」
「おとぎ話大全集?」
「そうだけど」
「何巻だ?」
「……十巻だけど」
「斎藤が借りていたのか?」
彼は自分の後ろにある本棚を、親指でさしながら言った。後ろはちょうど、絵本やおとぎ話が並んでいる本棚だ。私はおとぎ話大全集を探す。並んでいるのは九巻までで、十巻がなかった。私はかぶりを振った。
「違う。これは私が自分で買ったやつだよ。ほら、図書室のバーコードもついてないでしょ」
「成程。どうも、ここで十巻を借りた人間は、滞納しているらしくてな。かれこれ一か月以上、十巻だけがないんだ。返ってくる見込みもない」
「……そう」
「貸してくれないか? その本」
孤島の天才児、クールビューティー山田君が所望したのは、化学でも哲学でも経済学でもなく、おとぎ話である。私は多分、すごく変な顔をしたのだろう。山田君に「何故そんな顔をする」と言われた。いや確かに、保健室で彼が読んでたのはこれの九巻だったけれども。
「山田君、読むの? これ」
「十巻だけは未読なんだ。先に述べた通り、ここの本はいつ返ってくるか分からない。だから、斎藤が貸してくれるとありがたいのだが。三日以内に返却すると約束しよう」
「三日以内じゃなくても別にいいけど……」
「その本とセットで、斎藤の小説もつけてくれるとありがたい」
「それはいやです」
「そうか」
私は自分の読んでいたおとぎ話大全集を、山田君に渡した。彼はそれを両手で受け取って、ありがとうと言った。それから表紙を開いて、かと思えばすぐ閉じた。ふいっと私の顔を見る。その表情はやはり無表情で、そして真剣だった。
「それならば、こういうのはどうだろうか」
「え、なに?」
「互いの得意分野を交換するというのは」
「……何言ってるの?」
私はまた変な顔をしたらしい。山田君は「まだ話も聞いていないのに、何故そんな顔をする」と私をたしなめてから、話を続けた。
「君は小説を書くのが得意だ。だから、俺にその小説を見せてほしい。対する俺は、勉強が得意だ。だから、俺は君に勉強を教えよう。これならばどうだろうか」
――驚いた。この学校では地べたどころかマリアナ海溝くらいに位置する私に、オゾン層よりも高い位置にいる山田君が勉強を教えてくれるだなんて。
けれどそれ以上に驚いたのは、彼がそこまでする理由が、私の小説だったことだ。そこまでして私の小説を読みたがる人がいるということに、私は素直に驚いていた。
「いやならば、無理強いはしない」
私は困った。彼が勉強を教えてくれるというのはとてもすごいことだと思うし、彼に小説を読んでもらえることもありがたい。それでもやっぱり羞恥心みたいなものがあった。なにせ、読者は山田君なのだ。成績トップの天才児、クールビューティー山田君なのだ。私みたいな阿呆が書いた小説を読んで、呆れたりしないだろうか。ただでさえ人に文章を読んでもらうことには慣れていないのに、彼のような人に読ませても大丈夫だろうか。
けれど、と思う。今まであまり彼と話したことがなかったし、彼もあまり話さなかった。なのに小説については、ここまで熱心に話してくれている。
……読んでもらって、感想を聞きたい、かも、しれない。
「えっと、じゃあ……それならいいよ。あ、でも、澪たちには小説のこと、内緒にして」
「ああ、分かった」
この時私は初めて、山田君の笑顔を見た。ジャニーズのブロマイドかと思った。
山田君は「それならば」と言ってから、動きを止めた。斜め上を見て、何かを考えている。何事かと思ったら、
「斎藤の苦手科目って、何なんだ?」
私は真面目に、真顔で答えた。
「現代文以外、ぜんぶ」
山田君は、範囲が広すぎるとか割に合わないなどとは一言も言わなかった。分かった、それじゃあ少しずつやっていこうと、私同様真面目な顔で言った。どうも本気らしい。私は苦笑した。
「あの、知ってるとは思うけど、私本当にお馬鹿だよ? 大丈夫?」
「問題ない」
どこまでもあっさりと山田君は言う。
「どの教科にも付きまとってくるのは、文章の理解力だ。語学は勿論のこと、理数に関してもそう。例えばの話だが、国語がまったくできない人間は、数学の『問題文』を理解できないだろう。まず、自分が何を問われているかが理解できないからだ。早い話が、文章を読めなければ問題を読むこともできないし、文章を書けなければその解を記すこともできない」
山田君はここで私の大学ノートを見て、しかし斎藤は、と微笑んだ。どこかのモデルの写真集みたいな笑顔だった。
「しかし斎藤は、現代文が得意だろう。これは大きなメリットだ。少なくとも、何を問われているのかは理解できるのだから。だからあとは、それを解く方法を知ればいい。そうすれば斎藤の右手は勝手に、その解を書けるようになる。斎藤の文章力については、俺が保証しよう」
私は頷いた。頷く他なかった。つまりは圧倒されたのだ。彼の持論と、その笑顔に。
こうして私は、彼と約束をした。
私は、おとぎ話の本を貸すこと。そして、彼に自作の小説を見せること。
そして彼は私に、勉強を教えてくれることを。
「――なあ、斎藤」
図書室を出て、教室へと戻る途中。貸してあげたおとぎ話大全集をぺらぺらとめくりながら、山田君が私に声をかけてきた。
「この本の中で、斎藤が一番気に入ってる話はどれだ?」
私は即答する。
「さむがり猫と雪だるま」
自分から訊いてきた割に、山田君は「ふうん」としか言わなかった。「最初に読んでみるよ」とも言わない。私は山田君から目をそらして、少しだけ早足で歩いた。
――山田君は知らないんだ。一人がどれだけ、寒いのか。
だって山田君は、クローンじゃないから。普通の人間だから。
家族が、いるから。
【さむがり猫と雪だるま】
白い雪がしんしんと降りつもる冬のこと。一匹の真っ白な猫が、とぼとぼと路地裏を歩いていました。猫の通った道には、小さな小さな足跡が左右交互についています。
猫はふと上を見ました。大きなモミの木のてっぺんに、綺麗な星がついています。家の中からは、楽しそうな家族の声が聞こえてきました。
「ほーら、今年のケーキはチョコレートだぞー」
「やったあ!」
猫はふうーっと長い息を吐きました。その息も、猫や雪のように真っ白です。猫はぶるる、と身体を震わせました。
――さむいなあ。
猫は、暖をとれる場所を探すことにしました。路地裏から大きな道に出ると、立派な家の前に、これまた立派な雪だるまがあるのを見つけました。目と口は木炭で、鼻はにんじんでできています。あちこちへこんでいるアルミ製のバケツを帽子代わりに被せられ、お腹の部分にはボタンがみっつ、たてに並んでいました。
「やあ。君はひとりかい?」
雪だるまが猫に声をかけました。猫はうなずきます。
「そうだよ。家族はもういないんだ。友達もいない。大切にしていた花たちは、秋に枯れちゃった。一緒に原っぱで遊んでた蝶々もいない。僕は今、ひとりぼっちだ」
猫はそう言うと、雪だるまを見上げました。自分と同じ色の、白い白い雪だるまでした。
「雪でできている、君の身体はさむそうだね」
「そうかい? ぼくには、君の方がさむそうに見えるよ」
雪だるまが答えました。猫は自分の身体に目をやります。ふわふわの毛でおおわれた、自慢の身体でした。
「どう見たって、君のほうがさむいじゃないか」
「そうかな? 確かにぼくの身体は、冷たいかもしれない。だけどぼくは、さむくはないのさ。だって、ひとりじゃないもの」
雪だるまの周りには、小さな雪だるまがたくさんならんでいました。けれど喋れるのは、大きな雪だるまだけです。
猫はそうだ、と言いました。
「ここらへんで、あたたかい場所を知らないかな? 僕は今、とってもさむいんだ」
「ああ、それなら、となりのとなりに使われてない物置小屋があるよ。そこを使うといい。毛布もあったはずさ」
雪だるまにお礼を言って、猫はその物置小屋へと行きました。木製のそれは、使われていなさそうな古い掃除道具と、ぼろぼろの布きれのような毛布があるだけのおそまつなものでしたが、さむがりの猫にとってはありがたい場所でした。
花も蝶々もいなくなり、話し相手がほしかった猫は、それから毎日雪だるまのところに行きました。
「やあ、猫くん。また来たのかい」
「やあ、雪だるまくん。今日もさむいね」
「それじゃあ、あたたかいお話をしよう」
「どんなお話だい?」
「この家の男の子がね、サンタさんに素敵なプレゼントをもらったんだ。なんだと思う?」
「わかった、あたたかいミルクだ」
「違うよ。ぬいぐるみさ」
「なんだ、ちっともあたたかくないじゃないか」
「だけどその子がそのぬいぐるみを抱きしめるとね、その子もぬいぐるみもあたたかくなるんだ。ひとりじゃないからだよ」
「ふうん」
「やあ、猫くん。また来たのかい」
「やあ、雪だるまくん。今日もさむいね」
「それじゃあ今日も、あたたかいお話をしよう」
「どんなお話だい?」
「向かいの女の子が、久しぶりにあたたかい料理を食べたのさ」
「いつも、冷めた料理を食べているの?」
「いいや、料理はあたたかい。けれどいつもはひとりで食べるんだ。お父さんとお母さんは仕事で忙しいからね。だけど昨日は、お父さんとお母さんも一緒に食べた」
「誰かと一緒に食べる料理はあたたかいのかい?」
「ひとりじゃないからね」
「やあ、猫くん。また来たのかい」
「やあ、雪だるまくん。今日もさむいね」
「それじゃあ今日も、あたたかいお話をしよう」
「どんなお話だい?」
「人間はどうして、手を繋ぐと思う?」
「さむいからだろ? お互いの体温を分けているんだ」
「それもある。けれど、手を繋ぐことで心も繋がるのさ。だからあたたかい」
真っ白な猫と真っ白な雪だるまは、いろいろな話をしました。
ふたりでいると、毎日毎日、あたたかい。
「君の身体は冷たいね」
猫が言うと、雪だるまは笑いました。
「だって、雪だもの」
「でも、心はあったかいね」
猫がそう言うと、雪だるまはやっぱり笑いました。
「だって、友達だもの」
「友達は、あたたかいのかい?」
「ひとりじゃなくてふたりなら、ひとりじゃなくてたくさんなら、あたたかいんだよ」
雪だるまは、そう言いました。
月日が経って、少しずつ太陽の日差しが柔らかく、あたたかくなってきました。小さな雪だるまはひとり、またひとりといなくなりました。大きな雪だるまはみるみる小さくなっていって、やがて猫と同じくらいの背丈にまでなりました。
「君が死んじゃう」
猫が泣きながらそう言うと、雪だるまは「ふふふ」と笑いました。
「ぼくがいなくなったら、君が笑う季節がやってくる。色とりどりの花が咲いて、その周りをうつくしい蝶が舞う。新しい命が次々と生まれるんだ。だから君は、ぼくがいなくなってもひとりじゃないのさ」
雪だるまは言います。だから君は、ずっとあたたかい。
「ねえ」
猫は、自分よりも小さくなった雪だるまに言いました。
「来年の冬も、また会えるかい?」
雪だるまは答えます。
「もちろんさ。ぼくたちは友達だもの」
そしたら来年の冬もきっとあたたかいね。
猫がそう言うと、雪だるまはにっこりと笑って、さらさらと溶けて消えてしまいました。
猫の周りには、緑の草と、黄色の花。そしてその周りには、綺麗な青い蝶が飛んでいました。




