3
夕食を食べて、お風呂に入り、各々の部屋に戻る。時刻は午後九時過ぎ。
私はデスクに座ると、大学ノートを取り出した。どこにでもある、普通の大学ノートだ。
これに日記を書くのではない。私が書くのは小説だ。文学、恋愛、ファンタジー、ホラーと、いろんなジャンルを書いている。ヒカル君が、様々な絵を描いているように。彼のように才能はないけれど、才能がなくても書けるのが小説だ。
以前はノートパソコンで執筆していたけれど、一度パソコンが壊れてデータがすべて破損したのをきっかけに、大学ノートに切り替えた。パソコンの件については、バックアップをとっていなかった私も悪いのだけれど。
ウォークマンで音楽を聞きながら、今度はどんな物語を書こうかなあと考える。この前書いたのはライトノベル調の文学だった。自殺について考察する物語で、パソコンのチャットを主軸にした。私は外の世界を見たことがないから、どうしても情景描写が薄くなる。それをカバーしたかった。
今日、保健室で山田君がおとぎ話を読んでいたことをなんとなく思い出して、次はおとぎ話を書いてみるのも面白いかもしれないと考えた。デスクの後ろに位置する、スライド式の本棚を覗く。彼が読んでいたおとぎ話大全集の十巻目だけは、手元にある。大好きな話があったから、十巻だけは自腹で購入したのだ。
ぺらり、と紙をめくる。自分の好きな話があるのは三十五ページ目から。ページ数まで覚えている。タイトルは、「さむがり猫と雪だるま」。一番好きな台詞も暗記している。
『ぼくがいなくなったら、君が笑う季節がやってくる。色とりどりの花が咲いて、その周りをうつくしい蝶が舞う。新しい命が次々と生まれるんだ。だから君は、ぼくがいなくなってもひとりじゃないのさ』
――私がおとぎ話を書いたら、どんな物語ができるだろう。
朝の六時きっかりにセットしたタイマーが、ジリリリリ……と警報のような音を立てた。私はベッドから右手を伸ばして、ベルとベルの間を行き来していたハンマーを止める。デジタルではなくアナログ式の目覚ましは、私のお気に入りの私物のひとつだ。ボディが透明なプラスチックでできていて、中の歯車が動く様子がよく見える。数か月に一度、時刻を合わさないと、時刻がどんどんズレてしまうことが難点だったけれど。
のそりと起き上がって、今日の曜日を頭で確認する。金曜日。今日は私にとって比較的、楽な日だ。一限から四限までは、選択科目――またの名を特別科目で構成されているからだ。個人の得意な分野を伸ばすための授業で、自分の好きな科目を選択することができる。
ちなみに私の選択科目は現代文だ。総合してみると勉強は壊滅的にダメな私だけど、現代文だけは某国立大学に入れるレベルを誇っている。ただしそれは現代文のみで、漢文や古文はやっぱり壊滅的にダメなのだけれど。
私の数少ない友達の中で、現代文を受講してるのはもうひとり。……山田君だ。彼は理系のような気がするのだけど、何故か現代文を選択している。まあ、彼なら何を選択しても一緒かもしれない。得意も不得意もないのだから。
洗面所に行って、あちこちにはねている髪をざぶざぶと濡らした。肩より少し上のボブは、枕の型がつきやすくて困る。もう少し伸ばすか、いっそショートにでもした方が楽かもしれない。私は溜息をついた。
ドライヤーで髪をセットして、制服に着替える。朝食は、午前七時から八時の間に食べなければならない。午前七時ちょうどに食堂へ向かうと、いつもの五人は既に着席していた。相変わらず早い。私は朝食のトレーを受け取って、皆の場所に向かう。
「おはよう」
「おはよ、卯月。……ちょーっと今、揉めてるところ」
「なに? どうしたの」
「ヒカル君がね」
「これは牛乳じゃありません、これは牛乳じゃありません」
ヒカル君の方を見ると、彼は上半身を前後に揺らしながら、スクランブルエッグに向かって呪文のようにそれを繰り返していた。
「牛乳じゃない?」
「いや、あたしも訳分からないんだけどさ、牧乃が説明してくれたのよ。……なんだっけ?」
「ほら、ここのスクランブルエッグって、いつも牛乳が入ってるでしょ? でも、今日のは豆乳のような気がするの。わたしも確信はもてないんだけど……」
そもそも料理をしない私は、スクランブルエッグに牛乳が入ってることも知らなかったのだけど、そうらしい。同じく料理をしないらしい澪も、首をかしげている。
「同じ味だと思うけどな」
司君が、さもどうでもよさそうな口調で言った。朝に弱い彼は不機嫌そうに、スクランブルエッグに大量のケチャップを混ぜている。
「あたしもよく分かんないんだよね。ちょっと卯月も食べてみてよ」
澪に促されて、なにもつけずに一口食べてみた。……同じような、違うような。いつもより若干しょっぱい気はするけれど、牛乳か豆乳かまでは分からない。私が沈黙すると、それに反発するようにヒカル君がガタガタと椅子を揺らし始めた。
「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」
「まあ落ち着けよ。椅子から落ちるぞ」
隣の席の司君が仕方ないといった顔で、ヒカル君の椅子をおさえた。ヒカル君は身体に触られるのを酷く嫌う。私たちはそれを知っているから、極力彼の身体には触れないようにしているのだ。
「ヒカル。おめー、大豆アレルギーでもあったか?」
「アレルギーはありません!」
「そんじゃ、いいじゃねえか。牛乳でも豆乳でも」
「これは牛乳じゃありません! これは牛乳じゃありません!」
「牛乳入りのスクランブルエッグがこだわりなんだね、ヒカル君は」
牧乃ちゃんが苦笑する。ヒカル君がこれだけ違うと断言しているのだから、十中八九違うのではないだろうか。彼は私たち以上に、色んな感性が研ぎ澄まされていると思う。
「山田はどう思う? 牛乳か、豆乳か」
左手でヒカル君の椅子をおさえ、右手でロールパンをかじりながら、司君は山田君を見た。
山田君は司君の方に目をやり、スクランブルエッグを一口食べ、咀嚼し、飲み込んでから
「分からない」
さして興味もなさそうに、言った。
「でも今日の、ちょっとしょっぱいかも……」
言いにくそうに牧乃ちゃんがそう言って、澪と私は頷いた。ヒカル君はまだ牛乳牛乳と騒いでいる。
「そうかあ? 確かにちょっと塩気がきつかったか……」
司君はケチャップをかけすぎていて、味もよく分かっていないらしい。ヒカル君以外の四人で、山田君を見た。
「山田君はどう思う?」
私達全員の視線を浴びた山田君はやっぱり無表情で、パック入り牛乳を飲み干し、
「塩辛い気がする」
どうでもよさそうにそう言った。
「牛乳じゃありません! 牛乳じゃありません!」
「分かった、分かったって! なら、これでどうだ?」
司君は、ヒカル君のトレーの上にあるパック牛乳にストローを刺すと、それをスクランブルエッグの上に、文字通りぶっかけた。牛乳にまみれた見るも無残なスクランブルエッグに、澪が「あー」と声を出す。牧乃ちゃんは頭を抱えた。ところが、
「これは牛乳です」
ヒカル君はとても満足げに、それを食べるのであった。
ヒカル君が落ち着いたところで食堂のおばさんに確認してみると、牛乳が切れていたため豆乳を使用したこと、更には塩を入れすぎたことが判明した。豆乳については、大豆アレルギーの子にだけは事前に報告していたとのことだった。
「やっぱり今日の、しょっぱかったよね……」
「牛乳と豆乳を間違えるなんて、新人さんかなあ」
「こんな離れ島に、新人なんか来るかよ。単なるミスだろ」
山田君は、そんな私たちのやりとりを、遠目から見ていた。
今日の選択教科――現代文のメインは、作文だった。自分の人生の中で印象に残ってるエピソードを一つ、短編小説にして書きなさいというもの。原稿用紙十枚分で、つまりは四千字だ。普段から小説を書いている妄想癖の強い私は楽勝でそれを書いて、あっという間に提出した。ちなみに書いた内容は、校庭にある桜の木と、ベランダにあるガーデニングについてだ。
教師からオッケーが出ると、その後はなんと自習だった。四時間授業のうち、三時間ほど余ってしまった。私は内心でガッツポーズをした。
前列の山田君の方をちらりと見やる。彼は真っ白な原稿用紙を前に、ぼうっとしていた。どうも苦戦しているらしい。あの天才ですら、苦手なものがあるのだろうか。はねているのかセットした結果なのか分からない黒髪をしばらく観察してから、私は教壇にいる教師に訊ねた。
「あの、残りの自習時間、図書室にいてもいいですか?」
「ん? ……そうだなあ、四限が終わる十分前に教室に帰ってくるように。あと、他の授業を邪魔しないよう」
白髪の目立つ男性教師はのんびりした口調でそう言って(他の授業の先生に比べ、現代文の先生は比較的温和である。だから余計に現代文は好きだ)、それを皮切りに何人かの生徒は各々好きなところに出ていった。皆、教科書を脇に挟んでいる。本当に勉強熱心な生徒たちばっかりだ。私は荷物を鞄に詰めると、教室を後にした。
図書室は無人だった。司書すらいない。私は窓際の席に座ると、おとぎ話の本を取り出した。自分の部屋から持ってきたのだ。それから大学ノートを開いて、次の物語の構想を練る。
おとぎ話を書くとしたらそうだなあ、動物を主人公にしてみても面白いかもしれない。ウサギとかどうだろう。真っ赤な目をしたウサギは視界が真っ赤で、それをクリアにするため、つまりは充血を取る薬を探してる話。……ありきたりかな。おとぎ話じゃなくて現実っぽいかも。
……そもそも、ウサギの目ってどうして赤いのだろう。充血、じゃないよね。
私は立ち上がると、動物図鑑を探した。生物、生物……。
その時、視界の端に『日本の凶悪犯罪 分析官から見た事件裏』と書かれた本が映った。
――ぐらり。
上半身が傾く。まずい、と思った時には遅く、私は地面に膝をついていた。頭の方は意外にも冷静で、自分が今パニック状態に陥っていることをきちんと理解している。
――落ち着け、落ち着け。
息を吸うのと吐くのを意識しながら、私は這いずるようにして座席まで戻った。開きっぱなしだったおとぎ話の本や散らばっていた文房具を鞄に詰め込んで、図書室から出る。
向かう先は、カウンセリング室。そして、そこにある本棚の奥だ。
「――ちょっと、お話もしていかない?」
カウンセリング室。本棚の奥から出てきた私を見て、赤井先生は心配そうに言った。彼女は私の友達ではなく、臨床心理士だ。だからそこにある『心配そうな顔』が、作られたものなのか、本物なのかは分からない。けれど私は黙って頷いて、ソファに腰掛けた。カウンセリング室のソファは上等で、ふかふかすぎて、座った勢いでそのまま後ろに転びそうになる。
赤井先生は私用の大学ノートを開いて、膝の上に置いた。私の話を聞きながら、それにメモするのだ。ここで先生がプロだなあと思う点は、私の顔を見ながら、メモを取り続けるところだ。メモばかり取られているという印象を受けない。なのに、私が帰るころにはノートは文字でびっしりと埋め尽くされているのだ。
時計を確認する。三限目が始まったところだ。時間は十分にある。赤井先生は私の顔を見て、うっすらと笑った。
「今日はどうして、パニックを起こしてしまったか分かる?」
「……犯罪という言葉を見て」
「そっか。犯罪って言葉に反応しちゃったんだね」
沈黙が続く。先生はしばらく考えてから、
「今、何が一番不安?」
的確なような漠然としているような、そんな質問をぶつけてきた。だけど私にとって、それの答えは決まっていた。
「今、特に親しい友達が五人いるんです。……ひとりはちょっと、不愛想って言うか、私の事を友達って思ってくれてるか分からないんですけど。一緒にご飯食べたりして、とても仲がいいと私は思ってます。だから、不安なんです」
「……なにが?」
「私が、――私が本当はクローン人間だと知られたら、どうなるだろうかと」
先生はさらさらとボールペンを動かして、何かをメモした。私の今の発言が、どれくらい重要だったのかは分からない。
「斎藤さんは、クローン人間は嫌われると思ってるのかな」
「……分かりません。私は逆に、オリジナルの人達の気持ちが分からないから。クローン人間が不気味だと思われるかどうか、分からない」
「……ちょっと突っ込んだ質問してもいいかな。いやだったら答えなくていいから」
「どうぞ」
「あなたにとって、クローン人間は、人間? それとも別のなにか?」
私は逡巡した。クローン人間。私はクローン人間だ。
クローン人間は人間かどうか。もしも人間じゃないとしたら、私は何だ? 私はみんなと同じ格好をしていて、感情がある。食べるし、眠る。苦手だけど勉強もする。友達を欲しがる。
私は人間だ。――だけど、クローン人間だ。
「……人間、だと、思いたいです」
答えになっていなかった。それは私の願望だった。
「斎藤さんが人間なら、お友達だって怖がらないんじゃないかな?」
赤井先生はペンを動かしながら、私に訊ねた。クローン人間が抱えている矛盾点。だけど私の場合、事情が違う。
「……だって私は」
一番の気がかりをぽつりと呟くと、赤井先生は複雑な顔をした。
この施設は、表向きには天才児を育てる学校ということになっている。けれどその裏――地下研究所で、あらゆる実験がされているのは、私を含めごく一部の人間しか知らない。
私は今から十五年前、この施設で生まれたクローン人間だ。私の人生のすべてが実験だった。私の言動も行動も思考も、何もかも。
生まれてこの方、施設から外に出たことはない。だから私は海を知らない。イチョウの色も、もみじの色も知らない。野良猫を見たこともない。
私以外のクローンは、外で活動している者もいるという。実験内容によって、クローンの行動範囲も決められるのだ。私の場合は実験内容と、『私の遺伝子』の問題で、施設から外に出ることを許されなかった。
私がクローン人間だということは、今のところ、研究員以外の誰にも知られていない。だから私は『天才児のひとりとして、施設にやってきた学生』という設定になっている。『学校』が今の私の実験会場で、だから天才育成学校なんかに通う羽目になっているだけ。私の実際のIQは、一般人かそれ以下だ。だからどれだけ勉強しても、天才児たちの授業についていけやしない。いつまでたっても劣等生のままだろう。
『君の代わりはいくらでもいる。いくらでも作れるんだよ』
私の正体に気付いた時、澪は、司君は、牧乃ちゃんは、ヒカル君は、そして山田君はどんな反応をするだろうか。
私の秘密はすべて、カウンセリング室の本棚の裏側にある。




