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 研究所から出てカウンセリング室に戻ると、先ほどと同じ場所に女性カウンセラーが座っていた。

 赤井みどり先生。赤に緑。クリスマスみたいな名前だと思う。年齢は、三十代前半くらいだろうか。童顔のようなので、もしかしたらもう少し年上かもしれない。

 ここでは臨床心理士を名乗っているけれど、臨床心理士兼研究助手というのが本当の肩書きだろう。華奢で、目が大きくて、かわいらしい女性というのが第一印象だ。

 ブックカバーのされた本を読んでいた彼女は、顔をあげた。


「終わった?」

「はい」

「結果は?」

「……あまり」

「そう……。カウンセリングはどうする?」


 私は時計を見る。体育の授業が終わるまで、あと十分ほどしかない。きっと澪は、授業が終わったら私を迎えに保健室まで来るだろう。その時には保健室にいなければならない。私は首を振った。


「保健室に行きます。カウンセリングはまた今度お願いします」

「そう。気を付けてね」


 何にだろう。私はお辞儀をして、カウンセリング室を後にした。私の背後で、やはり無音でするすると、本棚が元の位置に戻るのを見た。


 保健室の扉をそっとスライドさせる。左には薬や医療品の置かれた棚。右側にはベッドがみっつ並んでいる。それぞれ薄いピンクのカーテンで仕切られていて、中は見えないようになっている。部屋の奥にはデスクがあるけれど、いつもはそこに腰かけている先生がいない。

 私は少しほっとしながら、奥のベッドへと向かった。そこが私の特等席だ。硬くてお世辞にも寝心地が良いとは言えないけれど、奥のベッドからはグラウンドが見える。私はそこから体育の授業を眺めるのが好きだった。

 しかし、今日は先客がいた。

 私は何も考えずにカーテンを引いて、ひっ、と小さな悲鳴をあげた。


「どこに行ってたんだ?」


 私の特等席にいたのは、成績優秀クールビューティー山田君だった。クールビューティーは本来女性に使う言葉のはずだけど、彼を見る度に私は毎回その言葉を連想してしまう。


「あ、えっと……トイレに」


 カウンセリング室に行っていたとは言えない。しどろもどろにそう言うと、山田君は眉をひそめた。それでもその顔は、きれいの部類に十分入るものだった。


「俺は、五限目が始まってからずっとここにいたんだが。斎藤は今までずっと、ここにはいなかった。四十分もトイレにこもってたのか?」


 ――まずい。嘘がばれる。というかなんで山田君、保健室にいるの。ちらりと目をやると、右手には読みかけの本があった。授業をサボって、ここで本を読んでいたということらしい。


「……えっと、違うの、あのね」

「月経痛か?」


 さらり。なんでもない風にそう言われて、私は「げっけい」の意味を頭で考えた。「げっけい」イコール「生理」だということに気付いたのは三秒後だ。急に気恥ずかしくなって、私はぶんぶんと音が鳴りそうなくらいに首を振った。きっと私の顔は今、真っ赤になってると思う。男子って、そういうことを恥ずかしげもなく女子に言えちゃうものなのだろうか。


「ちがっ、違うよ!」

「なら、腹でも下したか」

「違うって! そうじゃないんだけど、違うの、あの、えっと」

「腹が痛いなら、右から二番目の棚に薬があったはずだ。OTC医薬品だけどな。月経痛ならイブプロフェン、腹下しならもくクレオソートが無難か。塩酸ロペラミドでもいいが、それは食あたりと水あたりには適用外だ。あと、牛乳アレルギーがあるならタンニン酸アルブミンってやつが入ってる薬は飲むな」


 成分名ではなく商品名で言っていただけるとありがたい。大体私は、生理痛でもないしお腹を下しているわけでもない。違う違うと否定だけを繰り返す私を、山田君はじっと見つめている。こんなことなら、生理痛ってことにしておけばよかったかもしれない。


「授業が終わりそうだな」


 山田君の言葉を聞いて、窓の外に目をやった。生徒が、教師の前に列になって並んでいる。終業まで残り三分。まずい。このままでは私は、五限の間どこに行っていたのか分からない謎の生徒になってしまう。

 カウンセリング室に通ってることは出来る限り知られたくない。ましてや、『本棚の奥』のことは絶対に気付かれてはならない。


「や、山田君!」


 切羽詰った声を出すと、山田君がゆっくりとこちらを向いた。


「あの、あのね。五限の間、私はずっとここにいたってことにしてもらいたいの。山田君の隣のベッドにいたってことにして!」

「何故? その嘘をつく理由は?」

「……言えない、ごめん」


 少しの間、沈黙が続く。ああ、嫌な沈黙。これってあれだよね。えっちなビデオだと、「じゃあ俺の言うことなんでも聞いてもらおうか」とかそういう流れになって、女の子は大変な目に遭うんだよね。どうしよう。山田君は、そういう変な趣味は持ってないと思うんだけど。エロ本すら読まなさそうだし。

 山田君はしばらくの間、私の顔をじっと観察してから、


「別に構わない」


 そう言って、読みかけの本に目を落とした。私は胸をなでおろす。それと同時に、終業のチャイムが鳴った。

 山田君はふっと顔をあげた。


「いつまでそこに立っている気だ? 隣のベッドに身体を横たえていたらどうだ。それともこの五十分、俺と二人で会話していたことにするのか? それならば、何を話していたか綿密に決めておく必要があるが。でなければボロが出る」

「ね、眠ってたってことにするから! 私はこの一時間、ずっと眠ってたの! 山田君とは何も喋ってないってことで!」

「分かった。ならば、早く隣のベッドに移動すればいい」


 私は早足で隣のベッドに向かい、冷たいシーツの上に寝ころんだ。ぺらり、と紙をめくる音が聞こえる。彼は何の本を読んでいるのだろう。少なくとも、私なんかが楽しく読める本じゃないはずだ。寝返りを打つと、シーツがざらりと音を立てた。

 次の授業は英語だ。考えるだけで気が重い。隣のベッドの山田君は、英語だってベラベラだった。発音がもう、外人のそれなのだ。以前それが話題になった時、彼はやっぱりなんでもない顔で「二年間アメリカにいた」とだけ答えた。それと同様に、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語も話せるという噂。私とは違う意味で頭がおかしいんじゃないだろうか。

 そんなことを考えていたら、保健室の扉が大仰な音を立てた。こんなに荒っぽく扉を開ける人間は私が知る限り一人しかいない。


「卯月、寝てた? もうすぐ英語始まっちゃうよー」


 案の定、そこにいたのは澪だった。私は上半身を起こして、あたかも今まで寝ていたかのような素振りをする。


「実もいるんでしょ? ばれてるんだからね」


 澪はなんのためらいもなく、奥のベッドのカーテンをシャッと引いた。先ほどと変わらない体勢で本を読んでいた山田君は、渋々と言わんばかりの態度で両足をベッドからおろした。私は彼の読んでいた本に注目して、そして目を見開いた。

 彼が読んでいたのは私の愛読書、『世界のおとぎ話』だった。全十巻で、彼が読んでいるのは九巻。表紙にバーコードが貼られているので、図書室で借りてきたものらしい。

 彼のような天才でも、おとぎ話なんて読むんだ。意外だった。


「なにか?」


 山田君に言われて、私は無言で首を振った。その様子を見ていた澪が、なんだか怪しそうな顔をする。


「実。あんた、卯月にちょっかい出したりしてないでしょうね。一時間くらい、男女で二人っきりだったんでしょ。えっちなことしてない?」


 澪はたまに、こういうことをこれまた平然と言う。そして私はいつもそれを真に受け、顔を真っ赤にしてしまう。


「ばっ……! してない、何もしてないって! 私はだから、その、」

「俺は読書をしていた。斎藤は仮眠をとっていた。それだけだが、文句があるか?」


 山田君がさらりと嘘交じりのフォローをしてくれた。私は内心で山田君に平謝りして、澪と一緒に保健室を出る。後ろから、やっぱり面倒くさそうに山田君はついてきた。



 英語の授業と生物の授業が終わって、ようやく学校から解放される。と言っても、校舎からその隣(西側)にある学生寮に移動するだけなので、ある意味学校にいるようなものだけれど。


 学生寮は三階建てで、北側が男子、南側が女子の棟になっている。それを分断するように、一回中央には食堂、二階中央には男女別々の大浴場、三階中央には談話室がある。男子は女子棟に、女子は男子棟に入れない。兼用なのは食堂と談話室のみだ。

 部屋は、一人一部屋ずつ与えられている。間取りはすべて一緒。六畳一間で、西向きの小さなベランダ付き。ベッドとデスクとノートパソコン、クローゼット、それから小さな本棚と冷蔵庫は備え付けられていて、あとは好きなものを飾っていい。小遣いは、一か月に一万円支給される。国が運営している施設なので、私たちの小遣いも恐らくは税金だろう。

 この島には、学校ここ以外の建物はないらしいが、今日びネットで好きなものを注文できる。だから私たちはネットで、好きなお菓子や雑貨を注文する。ただし孤島なので、注文してから到着するまで二週間近くかかるけれども。

 それから、注文品はすべて検閲される。危険物を持ち込まれたら困るからだ。ハサミを含む刃物等はすべて没収される。ライターも持てないので、花火で遊ぶことも不可能だった。


「んじゃまたあとでねー」


 澪と別れ、私は自分の部屋に戻って、電気をつける。ほとんどが支給品で構成された部屋。ただし私は自分で本棚も買い足したので、ベッド横の空いたスペースにスライド式の本棚もある。以前私の部屋に遊びに来た澪が、図書館みたいだと笑っていたのを思い出した。一応これでも可愛いものも好きなので、小さなぬいぐるみがデスクの上やベッドの上に置かれていたり、壁に子犬の写真が貼られていたりするのだけれど、そこには目が向かなかったらしい。

 私は冷蔵庫から、水の入ったペットボトルを取り出すと、ベランダへと向かった。小さなベランダには洗濯物と、それからいくつかの植木鉢がある。もちろん、全員がガーデニングをしているわけではない。むしろ、花を育てるような人間は少数だそうだ。苗も鉢も肥料代も、自分の小遣いで出さなければならないから。外から来た人は、花を買うならおいしい食べ物を買いたいと思うらしい。たとえばお菓子とか。食堂にも一応、少しだけお菓子が置かれているけれど、外の世界にはもっとたくさんの種類のお菓子があるのだそうだ。

 ベランダの戸を開ける。狭い範囲に置ける花は限られているので、そこにあるのは本当に少しだけの花だ。白と黄色のマーガレット、ピンクと赤のプリムラ、それから青と紫のビオラ。


「みんな、きれいに咲いたねえ」


 サボテンは話しかけるといいらしいが、花はどうなのか知らない。けれども私は話しかけながら、ペットボトルで水をやった。中に入ってるのは水道水だ。あとでまた、汲みに行かないと。

 この施設が人生のすべてである私にとって、ちゃんと目で見れる花は桜くらいだった。自分で育てない限り、私は花のにおいも感触も分からない。

 図鑑を開けば、色とりどりの花を見ることができる。テレビでも、様々な花が紹介されている。けれど私は、実際にそれを見てみたかったのだ。チューリップもひまわりも朝顔もコスモスもラベンダーもポインセチアもマリーゴールドも、すべて自分で育てた。

 欲を言うのなら、チューリップ畑だとかひまわり畑をこの目で見てみたい。外の世界を知りたい。けれどそれは土台、無理な話だ。

 私はもう一生、この施設から出られない。一生だ。


「卯月ー? ご飯の時間だけど、寝てるのー?」


 ドアの向こうから澪の声が聞こえて、私は顔をあげた。腕で両目をごしごしとこする。


「ちょっと待って、今行くから!」


 空のペットボトルを片手に、私は澪と食堂へと向かった。


 食堂は、夕食が午後六時から七時、朝食が午前七時から八時の間と決まっている。メニューは決められていて、校舎の食堂のように好きなものを選ぶことはできない。今日の夕食は八宝菜だった。昼食の時と同じメンバーでそれを食べる。

 司君は今度こそ山田君に水素爆弾の話をして、けれども「人類を滅亡させるつもりならウイルス兵器のほうがいい」と一蹴された。しかし司君は、一気にドカンと爆発させたいらしい。そして、爆弾を落とす場所は自宅の上だと言い張った。


「うちのジジイとババアは、俺が将来立派な発明家になって、養ってもらえるとでも思ってるらしいが大間違いだぜ。てめえらの頭上に爆弾を落としてやる」

「立派な発明家ねえ。でもあたしの両親も、そんなこと思ってるかも。正直ウザいよね」


 同調したのは澪だった。


「この学校に入ったのだって、あたしの意思じゃないんだよね。親が勝手に推薦して勝手に応募して、受かっちゃっただけ。何に期待してるんだか」

「俺なんか、きっと厄介払いも兼ねてたと思うぜ。今頃、俺のいない家を満喫してるだろうよ。おかげで俺は、こんな離れ小島で不便さを満喫中だ」

「ハタチまでいい子にしてたら、おかあさんむかえにくるって言ってました」


 ヒカル君がそんなことを言って、全員がヒカル君の方を見た。その目には少し、憐憫れんびんとかそういうものが含まれていた。司君がうんざりしたような顔で言う。


「……ヒカル。おめーがハタチになった時にきてくれるのは、ママでもパパでもなく、養護施設のおばさんか、成人後見人のおっさんだと思うぞ」


 それを聞いた牧乃ちゃんが、眉間にしわを寄せた。


「どうしてそんな酷いこと言うの」

「んじゃあ、ヒカル君のお友達の森口牧乃さんに聞くけれども。こいつの母親が本当に迎えに来ると思うか? こいつこそ、厄介払いされた子供の一人だろうよ」


 牧乃ちゃんは俯いてしまった。かわりに、司君が身を乗り出して言う。


「いいか、ヒカル。おめーの「おかーさん」は、おめーのこと捨てたんだよ」

「ハタチまでいいこにしてたら、おかあさんむかえにくるって言ってました」

「おめーが売れっ子の画家にでもなったら、手のひら返して迎えに来てくれるかもな」

「ガカじゃありません、いいこです。いいこにしてたら、おかあさんがむかえにきます」

「売れっ子の画家が、世間の言う『いい子』なんだよ。そうじゃないおめーは、ここじゃない施設に入れられて終わりだ。一生施設暮らしだぜ」

「もうやめてよ!」


 思わず私が声を荒げると、周囲の人間が一斉にこちらを向いた。今日の数学の時間を思い出す光景だ。


「……そういえば、卯月の家族の話ってあんまり聞かないね。どんな人達なの?」


 ヒカル君の話を逸らしたかったのか、澪が私に話を振ってきた。私にとっては困る質問だ。山田君は八宝菜のイカを箸でつまみながら、私に目をやった。私はその視線を感じながら、国語の本読みのような口調で答える。


「……実は、両親の事知らないんだ。生まれてすぐに児童養護施設に入れられてたから。小学生の時にここの施設の事知って、猛勉強して入学したの。自立した大人になりたかったから。ここならほら、生活費とかも国が負担してくれるし、教員免許とかも楽に取れるし」


 我ながら見事な嘘だった。今話した言葉の中で、真実はひとつもない。

 親がいないという話が重かったのか、澪は明るい口調で「親なんて喧嘩の原因になるだけで、ウザいよー」と笑った。そうするしかなかったのだと思う。私からしてみれば、その『ウザい』という気持ちすら羨ましかった。

 そこから家族の話になった。牧乃ちゃんは大家族の長女で、少しでも家の負担を少なくするためにこの施設に入所したらしい。確かにここに入れば、授業料はもちろん食費も光熱費もすべて国が負担してくれるのだから、最高の親孝行だろう。


「山田は?」


 司君が訊くと、山田君は溜息をついた。


「人の家の事情を聞いて、楽しいか?」

「全員の話を聞いたんだ、お前も教えろよ。等価交換だろ」

「聞きたくて聞いたわけじゃない」


 そう言いながらも、山田君は箸を置いた。緑茶を飲んで一息ついてから、


「両親は今、千葉にいる。兄弟は弟が一人。二歳差だ。弟はまあ、普通の子供だな。家族仲は悪くない。親や弟と大きな喧嘩したことはない。自分で望んでここに来た。これで満足か」


 そうして答えを聞く前に、昼食の時と同様、一人で空の食器を返却口に下げに行ってしまった。


「……謎が多いわねー」


 八宝菜のニンジンをきれいに避けながら、澪が頬杖をついた。


「司はどうして、実と仲良くなったわけ?」

「地球をぶっ壊したいって言っても、クラスのやつらって相手にしてくれないんだよな。でもあいつは、俺の話を真剣に聞いてくれたから。参考になる意見も多いし」

「ふーん……」


 澪と司君が黙ると、ヒカル君がおかあさんおかあさんと繰り返す声だけがそこに残った。


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