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「あなたは一生この施設から出られない」
それは私にとって、死刑宣告と同じようなものだった。
今よりももっと幼かった頃――あれは五歳くらいの時だっただろうか、同じような言葉を言われたことはある。けれどその時の私は、特別なんの感情も疑念も抱かなかった。それが当たり前だと思っていたからだ。
私の世界は白い壁と白い床と白い天井で構成されていて、あとは同じように白いベッドがあるだけ。その頃はそれで十分なのだろうと思っていた。ある程度のおもちゃは与えられていたし、部屋にはテレビもあったし、絵本や小説なんかもたくさん貰えた。
けれど私はそれのせいで、外の世界を知ってしまった。外にはもっとたくさんの人がいて、子供は学校という所に通っていて、電車や自動車という乗り物が走っていること。鉄の塊が空を飛ぶこと。色とりどりの花が咲いていて、そこに虫という生き物が集まること。
塩水で構成された、大きな水たまりがあること。それを、海と呼ぶらしいこと。
本やテレビで蓄積された知識。それのせいで、徐々に私の『当たり前』は『当たり前』ではなくなっていった。
「ねえ。どうして私は外に出ちゃいけないの?」
埃なんて一切ないだろうと思えるくらいに清潔な部屋を掃除しに来た職員に、そう訊ねたことがある。職員は何も言わなかった。私と目も合わせなかった。そうしろとマニュアルにあったからだろう。
私は次に、菱木さんに訊ねてみた。
「私も外に出てみたい。どうして、だめなの?」
菱木さんは、神経質な顔を更に歪めた。子供が嫌いだったのか、私自身を嫌っていたのかは分からない。
「あなたがクローン人間だからよ」
「くろーんってなに?」
「同じ人間をふたつ作ること」
「私のほかにも、私がいるの?」
菱木さんはさも面倒くさそうに、私と目も合わせずにパソコンに何かを打ち込んだ。私は構わずに質問を重ねる。
「もうひとりの私は、何をしているの?」
「……あなたと同じように、小さな部屋の中にいるわ」
「じゃあその子も、がっこうに行ったりしてないの? でんしゃにのったこともない? うみを見たこともないの?」
「さあ、どうかしら。もういいでしょう、部屋に戻りなさい」
あっという間に煙に巻かれて、話は終わってしまった。
――学校に行ってみたい。それが最初に思ったことだった。最初は無理だと言われた。それが何年も続いた。十二年間ずっと。
だから今こうして、施設内とはいえ学校のようなものに通えているのは奇跡だと思う。私はとても嬉しかったし、満足もした。
そう、そこでやめておけばよかったのに。
人生何度目か分からない心理検査を、私は黙々とこなしていた。Y-Gテスト、文章完成テスト、バウムテスト、ロールシャッハテスト……。よくもまあ、インクの染みばかり集めた問題集があるものだと思う。
赤井先生は聞き取りやすい声で、質問文を読み上げた。
「ある男の子が、クリスマスにサンタさんから自転車とボールを貰いました。けれど、男の子はそのプレゼントを喜びませんでした。なぜでしょうか?」
「…………自転車とボールで遊べる場所がないから。部屋に閉じ込められているから?」
私はおどおどと答えると、赤井先生はそれを紙に書き記した。そういった訳の分からない質問をいくつかされて、それから『私専用』の検査用紙が渡される。私は質問に目を落とした。
『次のうち、殺してもいいと思うのはどれですか。人・犬・猫・虫・魚』
『あなたの大切なものを、友人Aが壊してしまいました。どうしますか?』
『崩れかけのビルに、何人かの人がいます。誰を助けますか? 自分・友人・見知らぬ子供・老人』
『他人の身体の一部を切るとしたらどこにしますか。腕・脚・腹・首』
『あなたのオリジナルが目の前に現れました。どうしますか?』
心理検査が終わると、内診等が行われた。そうして私は、様々な種類の薬の入った紙袋を受け取る。いつもよりずしりと重い。私は菱木さんを見た。
「これ……二週間分ですか」
「いいえ、一週間分よ」
「……薬、増えました?」
「ええ」
私の中で不安が膨らんだ。
「何が増えたんですか? 抗不安薬? 抗精神病薬? 安定剤? それとも、何か新しい薬ですか」
電子カルテにデータを打ち込んでいる菱木さんは無言だ。私はそれで、袋の内容を悟る。祈るように、袋を薬を握りしめた。
「……効くんですか、これ」
菱木さんはパソコン画面から目を離し、ようやく私の目を見た。
「効かないとは言わないし、言えない」
その目は、オオトカゲのケージにいるハツカネズミを見ていた時とまったく同じ目だった。
地下研究室からカウンセリング室に戻ると、赤井先生が私の肩を叩いた。
仕事のためなのか、それとも本当の顔なのか、彼女はいつだって優しい笑顔を作る。
「今日はどうする? お話していく?」
私は頷いた。赤井先生が水を用意してくれたので、先ほどもらったばかりの薬を飲んでから、話を始める。
「――……やっぱり、『遺伝子の問題』もあると思うんです」
私がぽつりと言葉を落とすと、赤井先生は「どういうことかな」とだけ言った。私は自分の指先をいじりながら、俯いたままでぽつぽつと話す。
「私は、強欲だと思うんです」
「……どうして?」
「望んではいけないことを、望んでいるから。例えば私は、外に出ちゃいけない。一生です。これは昔から言われてきたことで、だから受け入れるべきだと思っていました」
「うん。今までお話していた限りだと、斎藤さんはそれをきちんと受け止めていたよね」
「そう思います。でも、最初に『学校に行きたい』と願ってしまった。それが叶えられて、友達……、私は友達だと思ってるんですけど、そういう仲間もできて。それだけで十分だと思っていました。でも、それが叶ったら、今度はまた別の欲求が出てきたんです。でも私は……『それ』をしちゃいけない」
「……『それ』って、なにかな」
訊かれて、黙り込んでしまった。口にしたくなかった。信じたくなかった。だってもしもこれが本当の話なら、私は虚しくなるだけだ。寂しさが、増すだけだ。
私の様子を見ていた赤井先生が、ボールペンをノートの上に転がした。
「でも、斎藤さんの考えていることは普通だと思うよ。普通というか、一般的、かな」
「一般的、ですか」
「うん。人間は、色んなものを欲しがるもの。例えば最初の、学校に行きたいっていう気持ち。それだって、普通だよ。学校に行ったことがないなら、行ってみたいって思うよ。例えば私も、アメリカに行ったことがないの。行ってみたいなあって思うよ。だから、そういう気持ちに罪悪感を覚える必要はないんじゃないかなあ」
「……だけど私は、『一般的』な存在ではありません。そうですよね?」
これには、二つの意味が込められている。ひとつは、私が『クローン』であること。そしてもうひとつは、私のオリジナルに『問題』があること。
赤井先生は私の言葉の意味をちゃんと理解してくれたのか、何も言わなかった。「そうだよ」とも、「違う」とも。
「私はやっぱり、問題のある存在なんじゃないでしょうか。だから強欲になる。もしかしたら歳を重ねるごとにそれが大きくなって、そのうち、……そのうち」
言葉が出なかった。そのうち、私は。これも、言いたくないことだ。
赤井先生は、すぐに壊れてしまうガラスのカップを抱えているかのような慎重さで、私に言った。
「斎藤さんがさっき言ってた『それ』っていうのは……」
「違います。そっちじゃないんです」
私が首を振ると赤井先生は控えめに、けれどもいつもより長く息を吐いた。安堵の溜息なのか、疲れたのかは分からない。
「ごめんね。私、カウンセラーだけど鈍いから、ちゃんと言ってもらわないと分からないの。『それ』って何かな。多分、今日お話したいのはそのことだよね?」
「…………」
「言いたくないのなら、無理には聞かないけれど」
「――――気になる人が……できたんです」
意を決してそう言うと、赤井先生は少し驚いたような顔をした。
「ええと、一応聞かせてね。それは恋愛対象としてってことかな」
「……多分そうだと思います。すみません、私もこういうの慣れてなくて……。自分のことなのによく分かっていないというか」
「ううん、いいよ。初めてだね、そういう話してくれるの」
「初めてなんです、こういう感情が」
私はどこを見ていいのかもわからず、床に、壁に、自分の手にとあちこちに視線を泳がせながら言った。
「さっき斎藤さんが言ってた、しちゃいけないことって、恋愛?」
「……はい」
「どうして斎藤さんは恋愛をしちゃいけないの?」
「だって私は」
私はクローン人間だ。オリジナルではなく。それも、『問題のある』クローンだ。
対する山田君は人間だ。オリジナルの。優等生で、将来も有望な。
「恋をしちゃいけないって誰かに言われたのかな?」
「言われてません。ただ、自分でそう思ってるだけで」
「そっか。……変なこと訊いちゃうけど、相手は男の子かな」
「はい」
「その男の子とは、どういう関係なの?」
「ええと……。同級生なんです。向こうはこの施設でもトップじゃないかってくらいの優等生で。一年生の時から、一緒に食事をする仲ではありました。あ、でも二人きりでって訳じゃなくて、友達の中の一人だったというか……」
「うんうん。友達だったんだね。それがどうして、気になるようになったのかな」
「……彼に、勉強を教えてもらうようになって」
最初はただの事故だったけど、自分の小説に初めて読者がついて舞い上がったんだ。小説について褒めてもらえたのも嬉しかった。
勉強を教えてくれる時の彼はとても丁寧で、親切で、根気強かった。他の男子と言葉遣いがどこか違う彼は、ぶっきらぼうに見えて、けれど優しかった。勉強は好きじゃないから最初はいやだと思っていたけれど、そのうちに勉強が楽しいと思えるようになった。
でも違ったんだ。楽しかったのは勉強じゃなくて、彼と過ごす時間だった。
一か月と少し。たったそれだけなのに、私は彼と図書室にいる時が一番落ち着いて、一番幸せな時間だと思うようになった。
たまに、一緒にコーヒーを飲んだりもした。野鳥の本を見せてもらった。
一緒に海に行こうと、言ってくれた。
きっと、どれもこれも些細なことなのだろう。彼自身は忘れてしまっているかもしれない。でも、私にとっては大きかった。
「――……彼の前で、泣いてしまいました」
あれは、自分にとっては最悪な記憶だ。彼は本気で「月経か?」とかなんとか言っていたけれどそうじゃない。あの日の私は色んな意味で絶不調だった。原因は前日の日曜日。山田君と玄関で別れてからの事だった。
自分の現状を、未来を、再確認したのだ。私の力ではもうどうしようもなくて、打破できない状況にまで陥ってしまったことを。
私に、未来なんてものがないことを。
それでも、あるはずもない未来に期待をしてしまっていることを。
色んな感情がないまぜになって、先走って。「メイクラブって何」なんて彼に訊いてしまった。あの時は本当にその意味を知らなくて、愛をはぐくむという意味だと思いこんでいた。
だから。その言葉を彼の前で使うことで、ほんの少しでもいいから、彼に私の気持ちが届かないかと思ったのだ。
男子のそれとはまた違う、下心だった。
結果的に山田君は顔色一つ変えずにその意味を教えてくれて、私の方が恥ずかしい目にあった。見かねた山田君がパフェを食べに行こうと提案してくれて、そのあと「どこに行きたいのか」という話になって。
その話は、今の私にとっては地雷だった。
「……泣いて、彼を困らせてしまいました」
「困るって言われたの?」
「言われなくても分かります。彼は焦っているようでした。女性ホルモンのバランスが崩れてるんじゃないかと本気で心配されて、それがちょっとおかしかったんですけど」
「……ごめん。笑っちゃ悪いんだけど、なんだか面白い男の子だね」
「ですよね。私もそう思います」
私は恋愛を知らない。避けてきたからだ。
他の同級生に比べて、私には決定的に不足しているものがある。人生経験とコミュニケーション能力だ。だから誰かを好きになるのはとても複雑なことだし、もっと大人になってから経験するのだろうと他人事の様に思っていた。
そう。もしも恋愛が大人だけのことなら、それは私にとっては他人事だったのだ。
「……相手からしたら、私が唐突に泣いて、きっと訳が分からなかったと思います。ウザい、と思われたんでしょうか。――嫌われたんでしょうか」
「うーん、どうだろう」
「赤井先生は、恋愛とかは?」
「ここで私に話を振っちゃう? そうだなあ。年齢の割にあんまり経験してないかな。だから、そんなにいいアドバイスはできないと思うんだけど」
「けど?」
「もしも彼が斎藤さんの前で泣いたら、斎藤さんはいやだと思う?」
――山田君が泣く? クールビューティ山田君が? そんなの、想像もできない。
でも、もしも立場が逆だったら私はどうしていただろう。どう思うだろう。
「実際そうなったことがないので分からないですけど、多分いやだとは思いません。そうですね……。ホットコーヒーをあげるかも」
「ホットコーヒー? その子はコーヒーが好きなの?」
「はい。ブラックで飲むんです。渋いですよね」
「渋いね」
赤井先生は笑った。私もつられて笑う。
「――斎藤さんは自分で、自分は恋愛をしちゃいけないって思ってるんだね」
「はい」
「でも、人を好きになるのって、とても自然なことだよ。誰も駄目とは思わないし、駄目とも言ってないんだよね」
「……はい」
「なら、いいんじゃないかな? その感情は、大切にしても」
また何か進展があったら聞かせてね。赤井先生はそう言って席を立った。夕方の、五時四十分過ぎ。もうすぐ夕食の時間だ。
「――あっ」
思い出して、赤井先生に訊ねる。
「先生は、スタバのコーヒーを飲んだことがありますか」
「うん、あるよ」
「あそこのコーヒーって、いくらでしたっけ」
「トールサイズで、三百円ちょっとだったかな」
「……食堂にあるコーヒーは、一杯百円なんです。彼は多分、スタバにも行ったことがあると思います。スタバを知ってる人間からしたら、安いコーヒーってやっぱりおいしくないですか?」
赤井先生は少し考えて、
「気分や環境でも、味は変わると思うなあ」
「……彼は、私と一緒に飲むコーヒーを、おいしいと思ってくれているでしょうか」
私の問いかけに、先生は何故か寂しそうに微笑んだ。




