3
最近の俺は少し変化したらしい。様々な人から「珍しい」という単語を使われる。
「珍しい。君がこんな所に来るなんて」
また言われてしまった。俺は「こんな所」と表現された部屋を見渡す。マウス、ラット、ウサギ、猫、犬の入れられた檻が所狭しと並んでいる。いや、実際に狭いのだが。
部屋の中央にはオオトカゲの入ったガラスケージが一つ。トカゲの全長は六十センチほどだろうか。俺に珍しいという言葉を投げかけた張本人は、オオトカゲにハツカネズミを与えていた。
「生きているハツカネズミが餌ですか」
「ん? ネズミが可哀想だと思ったのかな?」
そう言っているそばから、白いハツカネズミの尾をつまみ、暴れているそれをトカゲのケージに落とした。
オオトカゲがハツカネズミに襲い掛かる様子を見て、男性――堺務は拍手をする。この施設の最高責任者という事だが、年齢はまだ若く、三十半ばといったところだろう。イエス・キリストをリスペクトしたかのような髪型に、銀縁の眼鏡、更には不健康そうな目の下のくまがトレードマークだ。
「僕は、生餌を補食するトカゲを見るのが好きでね。この種類のトカゲは、補食が豪快でいいよ。特にハツカネズミを与えた時の、食い散らかしっぷりが素晴らしい。幸い、マウスならいくらでも繁殖出来るからね、ここは」
「そうですか」
堺の話には、特別興味が持てない。オオトカゲを見ると、口の端からマウスの尾が出ていた。尾は、まだかすかに動いている。
「それで? 君はどうしてここに来たんだい」
実験動物を収容した部屋に、俺が来るのは確かに珍しい。愉快な気持ちになれる場所でもない。
「なんとなく、ですよ。深い意味はありません」
「ふむ。論理的思考によって動くはずの君が、『なんとなく』とは素晴らしい。ますます人間らしくなったようだ。アンドロイドである君が人間と共に生きていけるかという実験は順調みたいだね。全く持って興味深い存在だよ、君は」
堺は恍惚とした表情で、生餌をもう一匹追加した。逃げ惑うネズミを、俺は目で追う。
「それでも俺が、アンドロイドであるという事実は変わりません」
「その通りだ。君はアンドロイド。ただし、『感情のあるアンドロイド』だ。普通の人間とほぼ遜色ない。確かに、感情を得るために失ってしまった機能もある。特に、触覚を搭載できなかったのは悔しい事だ。人間として暮らすには、必要不可欠な物だからね。――それでも君は奇跡の一体なのだよ。君を生み出してから幾度となくチャレンジしているが、いまだに君と同レベルのアンドロイドは作れていない」
「俺を解体して、調べてみればどうです? 俺に感情が出来たのも、味覚や触覚が欠如してしまったのも、全て基盤の損傷のせいでしょう? それを調査すればいい」
「駄目だ。もしもそんな調査をして、君が動かなくなってしまったらどうする」
君は賢いが、まだ欠けている部分があるのだろうなあと堺は言った。
「君は『感情のあるアンドロイド』であり、唯一の存在なのだよ。それをまず理解した方がいい」
「ならば、ここにいる動物達はどうなんですか?」
片目の潰れた犬が、呻くような声をあげる。俺はそれを目の端で確認して、堺に向き合った。
「俺はアンドロイドですが、動物は生きています。唯一無二とは機械ではなく、生物に向けるべき言葉なのでは?」
「ふむ。やはり少し変わったな。君にしては感情的な言葉が増えたようだ」
堺は部屋を一通り見渡して、両手を広げた。
「これでも我々は、ここの動物達を最大限に尊重しているつもりなのだよ。彼らは自分の命を投げうって、我々の実験に協力してくれている尊い存在だ。この動物達のおかげで、人類は進化できる。これほどまでに、誰かの役に立つ命が他にあるかい? この動物達にとっても、きっとこれは本望だよ」
それに、と堺は口角をあげた。
「ここにいる動物の八割は、クローンだ。唯一無二? とんでもない。ここにいる動物達は、いくらでも作れるんだよ」
「……この施設は、クローンの実験もしているのですか」
「それは君にも教えられないが、まあ、クローンの動物を作っているとだけは言っておこう」
トカゲに与えいているこのネズミもクローンだしね、と堺は声をあげて笑った。犬猫の鳴き声は止まらない。沈黙する俺に、堺は不敵な笑みを見せた。
「いいかい。クローンはいくらでも作れる。かわりなんていくらでもいるんだよ。彼らは、唯一どころか無限だ。しかし君は、一体しか作れていない貴重な存在だ。それを決して忘れてはならない」
堺は、ハツカネズミの入った箱のふたを閉じ、それを左右に揺らした。箱の中で、ネズミが左右に揺さぶられる音がする。
「――もしもノアの箱舟があったとして、アンドロイドも入れていいというのであれば、間違いなく君が選ばれるだろう。逆に、ノアの箱舟にクローンの動物が入ると思うかい?」
堺はそこまで言うと、箱を揺らすのをぴたりとやめ、俺と目を合わせた。銀縁眼鏡の下で細く吊り上がっている目が、さらに吊り上がる。しかし数秒後、その目を逸らすと、俺に背を向け手を振った。そして、背中越しに言い放った。
「最後に残るのは、唯一無二のオリジナルだけだよ」
十一月も下旬になると、流石に秋とは言い難いようだ。校庭にある三本の桜の木は、ほとんどその葉を散らしていた。マフラーを巻いている女子も増えてきている。つまりは寒いのだろう。
夏や冬は暑い寒いというのが分かるが、春や秋は人間にとってどれほど快適なのか理解出来ないから厄介だ。春なのに日差しが暑いと言ってみたり、かと思えば寒いと言ってみたり。秋も同様だ。気温だけで判断できればいいのだが、人間という生き物には体感温度があり、しかもそれには個体差があるから厄介である。
今日は日曜なので、校舎にはほとんど人がいない。俺はカウンセリング室から廊下に出て、玄関まで歩いた。自室に戻って斎藤の小説を読もうと思っていた矢先、
「あっ」
斎藤の声が、玄関ホールに響いた。
「斎藤か。また、妙な所で出会うな」
声をかけてみたが、斎藤はどこかよそよそしかった。左手首には相変わらず、ローズクォーツのブレスレットが巻かれている。
「図書室に行こうかと思って……」
――前々から思っていたが、斎藤は本当に嘘をつくのが下手だ。表情筋がこわばるし、目が泳ぐ。口調も弱々しく頼りない。
休日の校舎で、開いている部屋は限られている。図書室、保健室、――あるいは、カウンセリング室。
この中で、一番言いにくいのはカウンセリング室なのだろう。もしや、彼女は何かしらの精神疾患なのか? だとすれば病名は何だろうか。鬱病? パニック障害? 摂食障害? 統合失調症?
様子を見る限り一番当てはまっていそうなのは全般性不安障害あたりだが、俺は精神科医でも臨床心理士でもないので何とも言えない。大体、斎藤が精神疾患を抱えているのかどうかも分からない。何せ、十五歳と言えば思春期真っ只中だ。それなりに色々と抱えているだろう。
ここまで考えて、俺は長く息を吐いた。考えるだけ無駄だ。彼女が秘密にしている事を、わざわざ詰問するつもりもない。
「そうか。何か面白い本が見つかったらまた教えてくれ」
「うん、じゃあまた」
俺はナイキのスニーカーを履き、彼女はコンバースそっくりの、しかし名前も知らないブランドのスニーカーを脱いだ。靴底はすっかり擦り切れている。
「山田君」
外へ向かう俺に、背後から斎藤が声をかけた。
「その恰好で寒くないの? 今日、結構冷え込んでるけど」
言われて見ると、斎藤は冬物の上着を羽織っている。俺は薄手のシャツだけだ。研究室にいる間に曇ったらしく、空は黒に近い鉛色だった。もしかすれば、今朝確認した気温よりも今の方が低いのかもしれない。
「そうだな、確かにちょっと肌寒い」
「部屋に帰ったらあったかくしてね。その格好だと風邪引いちゃうよ」
「ああ、そうする」
無論、アンドロイドは風邪なんて引かない。しかし斎藤は、俺の体調を心配をしてくれているらしかった。
俺がアンドロイドだと知られたら、このような言葉も聞けなくなるのだろう。
「斎藤も無理するな」
俺が言うと、斎藤は少し困ったような顔をして、「ありがとう」とだけ言った。
翌日の放課後。俺と斎藤は図書室の隅に並んで座り、英語の問題集を開いていた。
この二週間ほどで、彼女の学力は多少なりとも伸び始めていた。特に英語は彼女本人もやる気になったらしく、積極的に取り組んでいた。訳を訊くと、彼女は照れたような顔をした。
「今書いてる小説で、外人を出そうと思うんだけど。英語のセリフをいれたらかっこいいかと思って……。いやあの、かっこいいじゃなくて、話がリアルになるかなーと思って、うん。でも、パソコンの無料翻訳を使っても、でたらめな英語が出てくるんだもん」
「台詞の一部を英語の教師にでも渡して、翻訳して貰ったらどうだ」
「嫌だよ恥ずかしい!」
「ならば、俺が訳そうか。その外人に、何を言わせるつもりだ?」
「えっとね……。あっ」
「なんだ?」
斎藤は気まずそうに、辺りを見渡す。月曜日の放課後、図書室の一角。特におかしな所はないはずだが。
斎藤は先ほどよりも小声で、ぼそぼそと呟いた。
「いやあの、私の小説で使う訳じゃないんだけど。この前、澪と見てた映画で、印象的な単語があって。どういう意味なのかなあと……」
「なんだ? 言ってみろ」
「いや、あの」
「sexなら、性別という意味だ。勘違いする人間が多いが」
「ちちちちがっ、違いますっ!」
「ならなんだ?」
「いや、あの。……多分、恋愛に関する言葉だと思う」
「それだけだと分からない。はっきり言ってくれないか」
俺が促すと斎藤は言いにくそうに、もはやミュートに近い声で言った。
「…………メイクラブって単語なんだけど」
「ああ、makeloveか」
「愛をはぐくむとかでいいの? ピュアな恋愛とか? それとも青春?」
「いや。makeloveは、日本語で言うところのセックスだ」
「へっ……」
「具体的には性交する、求愛する、愛撫するという意味であり、」
「いやごめん本当にごめんなさいなんでもないですすみません!」
「斎藤、声が大きい」
今度は俺が周囲を見た。当然だが、図書室にいる人間の視線がこちらに集まっている。斎藤の声が、蚊の鳴くような声から一気に爆音状態までになったのだから当然だ。
だというのに斎藤は落ち着かない。よほど恥ずかしいらしい。思春期という物は性交にやたらと興味を持ち、しかし一部の女子はそれを恥ずかしいと感じたり隠したいと思うようである。
斎藤は顔を上気させ、単語にもなっていない言葉を何やら呟いている。俺は右に左に揺れている斎藤に話しかけた。
「斎藤、落ち着け。性交は別に恥ずかしい事でもないだろう。動物ならば子孫を残すために交尾をするし、人間だって性交」
「いやもういいって! なんで山田君は女子に対してそんなに恥ずかしげもなく言っちゃうわけ?!」
「轟も言うと思うが」
「ううん、違う! 司君のはネタだもん! でも山田君は本気!」
「本気だといけないのか」
「聞いてるこっちが恥ずかしいの!」
人間も謎だが、思春期の女子も謎だ。異性間で性交について話すのはそんなに妙なのか? ネタで話すのはよくて、本気だと恥ずかしいとはどういう事か。
最近、訳の分からない現象が増えている。俺のデータベースにはない事が、この世にはまだ山のようにあるらしい。
俺は再度、周囲を見た。明らかに他の生徒の邪魔になっている。斎藤の爆音は止まりそうにもない。
「斎藤、俺が悪かった。パフェでも食べよう」
「いや、山田君は悪くないし! それになんでまたパフェになるの!」
「この施設には、他に何もないじゃないか。スターバックスもないし、遊ぶ場所もない」
そう言うと、斎藤は相変わらず真っ赤な顔をあげた。
「……ここがもしも外だったら、どこに連れて行ってくれてた?」
――その目は何故か、何かに縋るようだった。あるいは、何かを待っていたのかもしれない。
しかし俺は、ここ以外のどこかを知らない。0と1で構築された、知識でしか。
「斎藤の行きたい所に連れていく」
「ほんとに? 海でも?」
「海? 海に行きたいのか?」
斎藤は俯き、黙り込んでしまった。
話の流れからして、スターバックスやタリーズ、ミスタードーナツあたりが挙がるのかと思っていた。甘味とコーヒーを味わえる場所かと。しかし、斎藤が言ったのは海だ。海に甘味はあるのだろうか。海水自体は塩辛いはずだが。
「…………っ」
隣の呼吸音がおかしい事に気付き目を向けると、いつの間にか斎藤の目から涙がこぼれていた。
『ぎょっとする』という言葉の意味は知っていても、実際にそうなった事はない俺だったが、この時ばかりはぎょっとした。
なんだ? 斎藤はなんで泣いているんだ?
流石の俺も、これの処理の仕方は知らない。
「すまない。俺はまた、何か余計な事を言ったか」
訊いてみても、斎藤は首を横に振るだけだ。周囲からの視線がますます鋭くなる。これでは、俺がいじめているようだ。いや、実際どうなのだ? そもそも、斎藤が唐突に泣き始めた訳が分からない。故に、対処法も思いつかない。
斎藤は両の手で顔を覆い、何かに耐える様に静かに泣いている。俺は少し考え、斎藤に提案した。
「ならばこうしよう。二十歳になってこの施設を出たら、海を見に行こう。沖縄の波照間島にあるニシ浜はどうだろうか。俺も行った事はないのだが」
名案だと思ったのだが、斎藤はかえって泣き崩れてしまった。時折、嗚咽が漏れている。
確かに、二十歳というのは気が遠い話かもしれない。あと五年ある。だが、そこまで泣かなくてもいいのではなかろうか。どうなっている。
「斎藤。お前、もしや月経か? 女性ホルモンのバランスがおかしいのではないだろうか」
思いついた事を言ってみたが、先ほど性交の話で失敗したばかりだ。まずかったかもしれない。
しかし斎藤は、やがて「ふふっ」と笑った。そうして、腕で乱暴に目を拭う。指と腕を使って目や頬をこすり、真っ赤な目で笑った。
「焦ってる山田君、初めて見た。おかしいよ」
「おかしいのは斎藤だ」
思わず本音を言うと、斎藤は「ごめんね」と目を細めた。残っていた涙が一粒、零れ落ちる。斎藤は大きくため息をついて、自分の前に並べられていた英語の教科書を鞄にしまい始めた。
「ね、喫茶行こ。私、キャラメルパフェね」
泣かせたのが俺かどうかは定かではないが、拒否権はないだろう。俺が頷くと、斎藤は微笑んだ。
「山田君は、ホットコーヒー飲むんだよ。ブラックで」
喫茶コーナーで俺はまた、斎藤にホットコーヒーを奢ってもらった。
味は分からなかった。熱いのか冷めているのかも分からなかった。
ただ、出来る限り鼻でにおいを嗅いで、美味しいと言って笑った。
キャラメルパフェを食べている斎藤と、たわいもない話をする。海の話ではなく、轟から借りたDVDの話や、最近見た面白い動画の事なんかを。
そうして彼女と別れた後、俺はトイレに行き、彼女から貰った物を全て便器に吐き出した。その時ですら、何の味も感じられなかった。
――味覚があれば。そう思ったのは、これが初めてだった。