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私の目の前でゆうゆうと毛づくろいをしている白いハツカネズミは、自分の寿命が残りどれくらいなのかを知っているのだろうか。
私はガラスケージの奥をちらりと見る。オオトカゲが、枯れ木にもたれかかり、ゆったりと眠っていた。オオトカゲの正式名称は知らないけれど、全長六十センチを超える大きなトカゲなのは確かである。
ハツカネズミはそこから五十センチほど離れた距離で、先ほどから丹念に毛づくろいしていた。
残念なことに、これはおとぎ話ではない。ハツカネズミとオオトカゲが仲良く暮らしている家の話ではなく、地下研究室にあるガラス張りのケージの話だ。あのハツカネズミはオオトカゲの友達ではなく、エサである。
今は閉じられているオオトカゲの目が開いた時。それは、ハツカネズミの命が終わる合図だ。
ハツカネズミは自分の運命を知っていて、それでも綺麗な姿で死ぬために、身なりを整えようとしているのだろうか。それとも本当に何も知らず、いつも通り毛並みを整えているだけなのか。
ケージの前にしゃがみ込み、じっと観察していると、女性研究員がこちらに近づいてきた。三十代後半の、けれどもそうは見えない細身の女性だ。針金でも入れてるんじゃないかと思えるくらいにストレートの黒髪を、後ろで一つにまとめている。釣り目気味の目は大きく、気品のある顔立ちだった。クールビューティという単語は本来、彼女のような人に使うのだろう。
「またここにいたのね」
声をかけられ、顔を上げる。彼女は私に寄り添うようにして、ケージを覗いた。そして、理解に苦しむと言わんばかりの顔をした。
「……爬虫類が好きなの? あんなのが好み?」
「いえ。そういうわけでは」
「感情移入でもした?」
私は答えずに、オオトカゲを見た。他の生物の命を握っている彼はまだ、眠っている。
感情移入でもした? ――それは、トカゲにだろうか。それとも、ネズミにだろうか。
「あのトカゲも、実験動物ですか」
私が訊ねると、女性――私の担当研究員である菱木さんは「いいえ」と言った。
「あれは、堺先生のペットよ。場所がなくて、ここにいるだけ」
私は周囲を見渡す。齧歯類と、数匹のウサギ、猫、犬。それぞれが、狭い檻の中に入れられている。
ペットショップならまだよかったかもしれない。だけどここは、研究室の一角だ。どの動物も、実験のために使われる。見た目には分からない病気になっている犬も、全身の毛が抜け始めている猫も、片耳が腐り落ちてしまっているウサギもいる。
菱木さんは白衣のポケットに両手をつっこんだ。
「行きましょう。ここは騒々しいわ」
救いを求めるような犬猫の鳴き声に、菱木さんはうんざりしたようだった。
「よくもまあ、こんな場所にいられるわね。匂いもきついし、うるさいし、いいことないでしょう。動物に癒されたいのなら、ベランダにパンくずでもまいて、野鳥を呼び寄せた方がよほどいいと思うわよ。精神衛生的な意味も含めてね」
「……私も、ここにいるべき動物だったはずです」
見上げると、菱木さんは無表情でこちらを見下ろしていた。山田君のそれとはまた違う無表情だ。彼女のそれは無表情ではなくて、侮蔑のような感情が込められているような気がした。
私の人生の中で、一番付き合いが長いのは菱木さんだ。私は、中学生になるまでの勉強はすべて菱木さんに教えてもらった。
けれど彼女は、私をいつだって好意的に見ようとはしなかった。できる限り近寄らないようにしている、そんな空気が子供の私にも分かるくらいに。
菱木さんはいつも通りの冷たい目で実験動物たちの檻を見渡してから、私に言った。
「あなたは、マウスでもウサギでも犬でも猫でもない。あなたは……人間だわ」
「だけど私はクローンです」
「クローン『人間』よ」
「それでも。――私が実験動物であるということは、否定しないんですね」
あなたは人間だわ。その言葉を発するのにつっかえた菱木さんは、はあ、と溜息をついた。
「ねえ。私は、あなたとはあまり会話したくないの。あなたに対して、特別な感情を持ちたくないのよ。これを理解してくれると、ありがたいのだけれど」
「ええ、分かります。思い入れがあると、実験に支障が出るんでしょう」
私は立ち上がると、部屋の左端にある檻から順に目をやった。
「レオン、ひな、きなこ、ピーター、なずな、チロ、ハク、もも、こたろう、ごんた、はなこ、はなまる、ココ」
私は振り返り、忌々しいという単語を顔で表している菱木さんに向かって言い放つ。
「彼らの名前です」
「……いい名前ね。みんな、気に入ってるんじゃないかしら」
薄っぺらい声で菱木さんはそう言って、オオトカゲのケージを指さした。
「この中にいる、ハツカネズミ」
私もつられてケージを見る。寿命があと何時間もあるか分からない、白いネズミ。
「このネズミの名前は?」
私はぎょっとして、菱木さんの方を見た。彼女は表情を変えない。返答に窮する私を見て、菱木さんはオオトカゲのガラスケージを叩いた。ハラハラする私をよそに、トカゲはぐっすりと眠っている。ネズミは音に驚いたのか、カサカサとケージの隅へと移動した。
「ねえ。あなたは自分がどれだけ残酷なのか、分かっているの?」
菱木さんはケージを叩くのを辞めて、その手をまた、白衣のポケットへと戻した。
「私は、私たちがどれだけ残酷であるかを知っている。けれどあなたは、自分がどれだけ残酷なことをしているのか分かっているの? レオン、ひな、きなこ……あとはなんだったかしら。忘れてしまったけれど、覚えるつもりもないわ」
彼女は部屋を見回してから、私に焦点を合わせた。
「オオトカゲのケージの中にいる、ハツカネズミの名前は?」
私は菱木さんを見上げた。女性にしては身長の高い彼女を、私は見上げる格好になる。挑戦的な目で彼女を睨んで、けれどもその答えを言えなかった。
「――行きましょうか。検査が山のように残ってる」
踵を返す彼女に、私はついていくしかなかった。
血液検査から始まり、様々な検査を受けた。そうして三時間ほどかけてすべてを終わらせ、私は実験動物のいる部屋に戻った。
レオン、ひな、きなこ、ピーター、なずな、チロ、ハク、もも、こたろう、ごんた、はなこ、はなまる、ココ。みんなはちゃんと、ケージの中にいた。
ただ、オオトカゲのケージにいたハツカネズミだけが、いなくなっていた。
「……ごめん」
いなくなってしまった名前もない命に、私は謝るしかなかった。
日曜日の午前中は大概、検査で潰れる。地下研究所から私が寮に戻った時は、既に昼食の時刻だった。食堂へ行くと、いつものメンバーが揃っていた。今日のメニューは醤油ラーメンだ。
「卯月、どこ行ってたの? 部屋に行ったんだよ、あたし。談話室も覗いてみたけどやっぱりいないし」
メンマをつまみながら、澪がふくれっ面をした。私はそんな澪の隣に座る。
「図書室だよ。借りたい本があったから」
私の発言を聞いて、山田君がちらりとこちらを見てきた。……もしかして山田君は、図書室にいたのだろうか。一瞬不安になったけれど、山田君はそれ以上何も言わずに麺をすすった。
澪は図書室までは探しに来なかったのか、「ふうん」とだけ言った。それから急に、私に向き合うように座りなおした。
「ねーねー卯月。午後から暇?」
「暇だけど……どうして?」
「私の部屋で一緒にDVD観よ!」
澪の部屋に遊びに行くのは珍しくないけれど、DVDを鑑賞するのは珍しい。ちなみに澪の部屋にはテレビがないので、DVDはノートパソコンで観ている。
私は限界まで薄く切られたナルトを食べながら、澪の顔を観察した。他の子たちの顔も確認する。牧乃ちゃんは上半身がせわしなく動いているし、司君は面白そうにこちらを見ている。……何か隠しているようだ。山田君だけは無表情だけれども。
私はナルトを飲み込み、箸でつかんだ麺に息を吹きかけながら澪に言った。
「別にいいけど……なんのDVD?」
「司から借りた、えっちびでお」
麺を思いっきり丼の中に落とし、油の浮かんだ中華スープが周囲一面に飛散した。その様子を見て、澪はけらけらと笑う。ヒカル君も面白かったのか、えっちえっちと繰り返す。その単語を繰り返すのはやめるべきだ。牧乃ちゃんが人差し指を立てて口元に当て、「しーっ」と言うと、ヒカル君も同じように「しーっ」と言って黙り込んだ。
司君は澪同様けらけらと笑った後、「あのなあ」と机を叩いた。
「おめー、どうでもいい嘘に俺を巻き込んでるんじゃねえよ。斎藤に勘違いされちまうだろ」
「司に借りたっていうのは本当よ」
「AVってところが問題だろうが。俺は紳士だ。そんなDVD持ってないね」
「でも、貸してくれたDVDもどうせエッチなシーンが出てくるんでしょ?」
訳が分からない。澪と司君はぎゃあぎゃあと言い合い、ヒカル君と牧乃ちゃんはもくもくとラーメンを食べ、山田君は無表情でそのすべてを眺めている。私はしばらくみんなの様子を観察してから、今度こそ麺を食べた。すっかりのびてしまっている。
「……それで結局、本当はなんのDVDなの?」
ようやく私が声を出すと、澪はああそうだったとこちらを向いた。
「アメリカのホラーよ。殺人鬼が次々に人を殺すやつ。グロいの」
「……その作品に、えっと、その、えっちなのが出てくるの?」
「アメリカのホラーで殺人鬼といえば大抵、エロシーンが出てくるのよ。最初の犠牲者はバカップルで、エッチしてる時に殺されるのが定番」
「ふうん……」
そういえば、あまりその手の作品は見たことがない。
「牧乃も誘ったんだけどさあ。怖いからって断られちゃって」
私は牧乃ちゃんの顔を見る。頬が真っ赤だ。多分、グロにもエロにも耐性がないのだろう。私も人のことは言えないけれど。
澪の言葉を聞いた司君が、「はん」と鼻で笑った。
「おめーこそ、ビビってるくせによく言うぜ。ああいうホラーは、夜中に一人で観るに限るってもんだ」
「うるっさいわねー。観てあげるだけでも感謝しなさいよ」
「え? 澪、ほんとは見たくないの?」
私が突っ込むと、澪は右手を口に当てた。視線が空中をバタフライしているみたいに、右に左にとぶれている。
「そのー。司がすごく面白いっていうから、どんなのかなーと思って……。それだけなんだけど……」
澪にしては、歯切れの悪い言い方だった。私はもう一度「別にいいけど……」と答えながら、澪のそれを観察する。山田君も私と同じような目を澪に向けていて、牧乃ちゃんだけが何もかもを知っているような顔をして微笑んでいた。
澪の部屋は、色んな意味ですごい。まず、壁一面が点灯する。赤になったり青になったり緑になったり。仕組みは知らないけれど、クリスマスツリーに使われる飾りのひとつだそうだ。ベッドの上にはぬいぐるみが所狭しと並び、寝返りもうてないような環境になっている。
部屋の隅には何故か、年中かぼちゃのランタンがあり、これまた光る。かぼちゃの隣には何故か、ハート形のクッション。机の上はきらきらにデコレーションされたパソコンから始まり、アロマキャンドルを模したライト、黒電話型の目覚まし時計、地球儀型の鉛筆削り。ちなみに澪は鉛筆を使わないので、これは単なる飾りである。
和洋折衷のアバンギャルドでイノベーションな……なんちゃらこんちゃらが、なんとかこんのか。説明してくれたけど、ほとんど覚えてないし理解もできていない澪の部屋。分かりやすく言ってと頼んだら、「テーマパークみたいな部屋を目指した」と言われた。テーマパークというのは、こういう感じなのだろうか。
そんな感じの、つまりはお世辞にも綺麗に片付いているとは言い難い澪の部屋で、司君が貸してくれたというDVDを鑑賞した。ストーリーは単純明快で、山奥に遊びに行った若者たちが、謎の殺人鬼に次々と惨殺されていくというものだった。
澪の言った通り、最初の犠牲者は協調性のないカップルだった。そしてやっぱり、あんなことこんなことしている最中に殺されてしまった。その次は、単独行動をした男の子。殺人鬼はいちいちと、斧とかチェーンソーとか、痛そうな道具を使ってくる。
澪はその映画を、半分泣きそうな顔で見ていた。どうも本当に、こういう物語は苦手らしい。そりゃあ私だって、好きなわけじゃないけれど。この作品が『十五歳未満閲覧禁止』なのはおかしいと思う。どう考えても十八禁だ。
「……澪はさー」
澪が用意してくれたポテトチップスを食べながら、私は訊いた。
「どうしてこれを借りようと思ったの?」
山小屋に閉じ込められた三人の生き残りが、「さのばびっち、さのばびっち」と繰り返す。さのばびっちってなんだろうか。
澪は私の質問に、消え入りそうな声で答えた。いつの間にか、ハートのクッションを抱きかかえている。
「いやだから、司が面白いって言うから……」
「これ薦めたのが山田君だったら、借りなかった?」
「絶対に借りないわよ、こんなの」
即答かつ断言。私は画面から目を離し、澪を見た。彼女は複雑な顔をして、殺人鬼が暴れる様子を見ている。「さのばびっち」と「しっと」と「じーざす」が、どうもこの映画の三大用語らしい。
「……司君のことが好きなの?」
思い切って言ってみると、澪も画面から目を離した。それから、一時停止ボタンを押す。よりにもよって、女性の右肩に斧が食い込んでいる画像で止まってしまった。
「好きじゃない。気になってる段階」
澪はクッションを抱えたまま、何故か唇を尖らせた。私は首を傾げる。
「気になるっていうのは、好きっていうのと違うの?」
「違うでしょ。私はまだ、例えばこう、手を繋ぎたいとかそういうのは思わないし。でもちょっと、あいつのこと知りたいかなって思い始めただけ。だからこの、悪趣味なDVDも観てみようかと思ったの」
「それって……付き合いたいっていう気持ちとはまた違うの?」
「ええ? んー、あいつ子供っぽいからなあ。気になるっちゃなるんだけど……。あ、この話、男性陣には秘密ね。特に司には」
「うん」
「ていうか卯月、あんた」
ポテチを一枚かじって、澪は深刻な顔をした。
「初恋とか、したことないの?」
「えっ?!」
私の狼狽っぷりを見て、澪はUMAでも見たような顔をした。
「小学校の時、好きな子とかいなかったの? まあ、初恋とまでは言わなくても、好きな子って一人や二人できるじゃん。修学旅行で好きな男子を暴露したりして、盛り上がったりしなかったの?」
「いやあ、あの、えーっと……」
小学校には通ってなかったし、中学生になるまで必要最低限の大人としか接していなかった。とは言えない。
澪は相変わらず、UMAを見る目で私を見ている。しかしやがて、ふっと息を吐いて、いつもの澪の顔に戻った。私とは対照的に、特に恥ずかしいという感情はなさそうだった。
「……いやもう過去の事はいいわ。小学校の時はまあ縁がなかったとして、今はいない訳?」
「えっと、なにが?」
「好きとか気になるとか、そういう子」
何故か一瞬、山田君の顔が浮かんだ。しかし、私はそれをすぐに振り払う。
ないない。つり合わないし。――彼はちゃんとした人間だし。
「………………いない」
「あー、それ! その、いないって言うまでの無言! 絶対なんか隠してるんでしょ! 教えなさいよー」
澪が私の脇腹をくすぐるようにして、私はそれから逃れるために身体をひねる。きゃっきゃとはしゃいでる間にいつの間にかDVDの再生ボタンを押してしまったらしく、私たちのはしゃぎ声と、女優の断末魔が重なった。
私は山田君が気になる。けれどそれは、彼が私の小説に興味を持ってくれたからだ。私の小説の読者ってどんな人なんだろうって、そういう意味で気になっただけ。外の世界が知りたかっただけ。天才に憧れてただけ。
これは絶対に恋じゃない。
じゃなきゃ、悲しい気持ちが増えるだけだ。