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 洗い終えているだろう洗濯物を取りに洗濯室へ向かったら、澪にばったり遭遇し、四十分ほど話し込んでしまった。

「スタバの新作フラペチーノがめちゃおいしそうなんだよ!」などと言われても、私はそもそもスタバにも行ったことがないので、どれほどおいしそうなのか見当もつかない。まず、フラペチーノなるものがどういった商品なのかも想像できなかった。

「アップルティーの味なんだって。ホイップの上にはキャラメルソース。ここにいなかったら絶対飲んでただろうなあ」と澪は言った。フラペチーノは紅茶なのか? よく分からない。

 困ったのは、「卯月が好きなスタバメニューは?」という質問だった。どれがおいしいのかさっぱり分からない。というよりも、メニューを把握していない。スタバって確か喫茶店だったよなと思い、無難なところで「コーヒー」と答えてみたら、面白くないと言われてしまった。好きな飲み物に面白さを求められても困る。

 残念ながら私が唯一知っている喫茶店は、寮の食堂隣にある小さな喫茶コーナーだ。メニューは限られているし、フラペチーノなるものもない。


 スタバについて熱弁する澪と別れ、洗濯物を干していたら、あっという間に九時近くになった。――しまった、ナメクジについて調べるつもりだったのに。

 ナンバーの振られた大学ノート四冊を鞄に詰め込み、他に何が必要なのか分からないので、とりあえずルーズリーフと文房具を持って、私は図書室へと向かった。



 図書室には、勉強熱心な学生が何人かいた。全員私服だ。大声で喋っていいわけじゃないけれど、全く喋ってはいけないわけでもない。ので、小さくてか細い声がいくらか飛び交っていた。中には、クリスマスだの正月だの、勉強とはまったく関係なさそうな話をしている子たちもいる。

 山田君は、この前と同じ窓際の席にいた。私が貸したおとぎ話の本を読んでいる。黙ったまま向かいに座ると、ふと顔をあげた。それから、自分の手元に目をやる。


「このペースで読めば、月曜日には返せるはずだ」

「いつでもいいってば」


 私はそう言って、大学ノート四冊を机の上に置いた。ピンク、黄、紫、黄緑色のノートを山田君の方に滑らせる。山田君はそれをすんなりと受け取って、ナイロン製の黒い鞄の中に入れた。それから、ダブルクリップでまとめられたA4用紙の束を同じ鞄から取り出し、私の方に滑らせてきた。表紙に書かれてるのは一言だけ。


「テスト?」


 その単語を読み上げると、山田君は頷いた。


「そう。斎藤が今どれくらいの学力なのか、把握しておきたい。教科は、国語、英語、数学、理科、社会の五教科だ」

「……このプリントはどうしたの?」

「俺が作った」


 私の目は多分、ビー玉みたいに丸くなったと思う。実際、私の目はそこまで大きくないのだけれども。


「これ、作ったの? 問題文も? というか問題自体も?」

「ああ」

「一人で?」

「もちろん」

「嘘でしょ?」


 あり得ない。彼が、私に勉強を教えてくれると約束したのは昨日のことだ。この問題集を作成する時間は、学校が終わってから――つまりは夕方四時から、今までしかない。

 私は紙の束を指でつまんだ。相当な分厚さだ。一日もかけずにこれを作ったって? しかも、問題も自作? 普通なら到底できるはずがない。


「もしかして山田君、徹夜なんじゃないの?」


 訊ねると、山田君は肩をすくめた。徹夜なのだろう、どう考えても。じゃなきゃ絶対に無理だ。私は山田君の顔をきちんと見た。とりあえず、顔色は悪くない。


「徹夜、慣れてるの?」

「ああ」

「やめなよ。身体壊すよ」

「平気だ。一日くらい徹夜したところでなんともない」

「ていうか、どうしてここまでしてくれるの」

「斎藤の小説が読みたかったからだ」


 山田君は恥ずかしげもなく、躊躇もせずにそう言った。その言葉に嘘はなさそうだ。

 私は素晴らしい読者を持ったと思う。本当に。


 ということで、朝の九時から十二時までの間、私は国語と英語と数学のテストを受けた。どの教科も、最初はとても簡単だった。案外楽勝じゃないか。山田君は私のために、わざと簡単な問題ばかりを集めてくれたのだろうか。

 ところが、問題を重ねるにつれて難しくなっていった。恐らく、中学一年生くらいのレベルの問題から初めて、徐々に学年が上がっているのだろう。

 上限がどこに設定されてるのかは分からない。中学三年生なのか、高校三年生なのか、大学生なのか。私が解けたのは、三分の一か、あるいはそれ以下だったと思う。

 ……あ、出た、因数分解。何の話かちんぷんかんぷんだ。

 訳の分からない数式と私がご対面している間、山田君は私の国語の答案用紙を見ながら言った。


「成程。やはり斎藤は、現代文については突出している。……古文と漢文は酷いありさまだが」


 古文と漢文は、国語じゃないと割り切ってしまいたいと常々思う。


 三教科のテストが終了したところで昼食の時間になったので、テストも一時中断して、食堂へ行った。

 ネキリムシの話をした日に限って、昼食にエビピラフが出る。小さく丸まったボイルエビが、ごろごろと入っている。何かの嫌がらせじゃないだろうか。

 一緒にご飯を食べたヒカル君は、エビばかりを最初にすくって食べていた。彼は、オムライスを食べる時も最初に卵だけすべて食べてしまう。カツ丼を食べる時も、最初にトンカツをすべて食べてしまうので、残るのは少量の卵と白米のみになるという虚しさだ。けれどヒカル君自身は、そうしないと気が済まないらしかった。

 私はそんなヒカル君に、自分のボイルエビをプレゼントした。――ネキリムシの話なんて、しなければよかったと思いながら。


 午後からは理科と社会のテストを受けた。流石の私も双子葉類とか、ミジンコとか、プレパラートとか、そういうのは分かる。しかし、フレミングの法則あたりから早くも怪しくなってきた。


 アセトアルデヒド。ケト-エノール互変異性。平衡定数。なにこれ日本語?


 社会は社会で、最初はまだよかった。縄文時代とか卑弥呼とか。世界史も、フランシスコ・ザビエルくらいなら流石に分かる。いや、ここは事実を述べよう。世界史に関しては、フランシスコ・ザビエルくらいしか分からなかった。

 日清戦争と日露戦争とアヘン戦争と第二次世界大戦、順番に並べろ? 平和主義なので存じ上げません。

 あとこの、オンブズマンってなに。おんぶでもしているのだろうか。


『民主主義、社会主義、共産主義、資本主義を説明し、それぞれのメリットデメリットを述べよ』


 ……得意の妄想に耽ることすら、できなかった。



 午後惨事――間違えた、午後三時。私はぐったりと机に突っ伏していた。

 全教科のテストは、無事じゃないものの終了した。山田君は私の解答用紙に、無言で目を通している。赤ペンを持つわけでもなく、目を通しただけで私の学力が把握できているようだ。というか、これだけ解けてなかったら私の学力なんてもう、小学校低学年くらいなんじゃないだろうか。九九も、七の段だけ何故かやたらと苦手だし。


「ふむ」


 山田君は、私の社会の答案用紙を机に置いた。

『民主主義は国民が大事。社会主義は社会ちつじょを優先する。共産主義は多分、みんなでなんか作る。資本主義はお金大事』などと書かれた馬鹿丸出しの答案用紙だ。そんなものを、こちらに向けないでほしい。目をそらしたい現実である。

 私のあまりの疲れっぷりに、茶か何か飲むか? と山田君が提案してくれたけど、私は力なく首を振った。お茶を飲んだくらいでは、この疲れは取れないだろう。

 山田君は特に憐みの目を向けることなく、淡々と私のテスト結果を述べた。


「総合すると、大体中学二年生程度の学力だ。思ったよりも悪くない。ただし、中学三年生の十一月として考えるならそうだな……偏差値は四十二といったところか」

「偏差値四十二って……いいの? 悪いの?」

「一般的には五十が標準だ」

「だよね……」


 私は机に額をあてた。木の冷たさが心地いい。


「今回のテストでは、中学一年からセンター試験レベルまでの問題を出した。斎藤の場合、現代文だけならばかなりの点数が取れている。国立大学でも余裕だろう」


 それは、この施設から出ることができればの話だ。私はそっと目を伏せた。大学だなんて、私には縁のない話だもの。


「英語は中学三年生として考えるのであれば、まあ平均くらいだ。数学は、単刀直入に言ってしまうが酷い。中学一年生の問題ですら、一部理解できていないようだ。理科と社会も同様」

「はあ……」


 私が溜息をつくと、山田君は小首を傾げるようにして微笑んだ。


「まあ、そう気を落とすな。このテストで、苦手教科およびその分野が大体分かった。明日から、そこを徹底的にやろう」

「明日?!」


 私が勢いよく上半身を起こすと、山田君は「なんだ?」とだけ言った。私はしどろもどろになる。


「いや、あの、明日は休みでいいんじゃないかな……」

「何故?」

「いや、ほら……日曜日だし」

「人間の勉強というものは、年中無休だろう?」


 そんな、哲学みたいな言い方しなくても。

 私は大きく息を吐き、それから大きく息を吸った。


「あのね、山田君は勉強が得意だし好きかもしれないけど、私は苦手なの! 疲れるの! 今日はもう疲れたし、明日くらいは休みたいんだよ!」


 これでは、私が単なる駄々っ子のようである。しかし山田君は、分かったと言って素直に引き下がった。私が勉強嫌いなことに関しても、学力が低いことに関しても、さほど文句はないらしい。


「ならば、今日もこれくらいにしておくか」


 山田君は、私の珍回答が山のように書かれている答案用紙を机の上でとんとんと整えた。そして、それをファイリングしながら「そうだ」と言った。


「朝、話していたビオラの花は観察したのか?」


 覚えていてくれたらしい。私は頷いた。


「ナメクジの這った跡があった。犯人はナメクジで間違いないみたい」

「ならば、リン酸第二鉄かメタアルデヒドだな」

「それなんだけど」


 私は少し躊躇してから、訊ねた。


「その、リンとかメタ……とかを使ったら、ナメクジは死んじゃうんだよね?」

「そうだが。何か問題でも?」

「あの……。殺すんじゃなくて、ナメクジが来なくなるようにする成分ってないのかな」

「忌避剤?」

「そうそれ」


 私は思わず、人差し指で山田君を指さしてしまった。しかし、特に気分を害した様子はなかった。


「それならば、サポニンだな。商品名は知らないが、販売していると思う」

「サポニンね、ありがとう。メモするからちょっと待って」


 私がノートを取り出すのを見ながら、山田君はどこか納得のいかない顔をしていた。


「しかし、サポニンは効果があるか分かりにくいという難点がある。確実性を取るのなら、駆除してしまった方が良い。忌避剤ではなく駆除剤で」

「いいの。ナメクジが来なくなればそれで。とりあえずまずは、忌避剤で様子を見ようと思う」

「――ビオラを守りたいのであれば、ナメクジを殺すのが一番だ」

「ナメクジは悪いことをしているわけじゃないから。私に対する嫌がらせのために花を食べているわけじゃない。ビオラに嫌がらせしているわけでもない。ただ、生きたいだけ。だから私も、出来る限り殺したくない」


 私はノートから顔をあげた。山田君と目が合う。その目は怒ってもいなければ、呆れてもいなかった。ただ単に私のことを見ているだけのような、透き通った目をしていた。

『ナメクジ きひ サポニン』とノートにメモして、私は笑った。今日にでも、それをネットで取り寄せよう。ここは孤島だから、注文してから届くまでにどれだけかかるかは分からないけれど。

 私はノートを鞄にしまう。嫌な沈黙が訪れた。山田君が何を考えているのかは分からない。このまま部屋に帰ってしまってもよかったけれど、


「ねえ、雑談してもいい? 時間ある?」


 私はあえて、山田君とお喋りするのを選んだ。私の小説に興味を持ってくれた人が、どんな人なのか知りたかった。外の世界で、どんなことをしていたのかも。


「構わないが。なんだ?」

「えっとね。……そうだ。スタバのメニューで、好きなのって何?」


 突拍子もない質問に、山田君は眉根を寄せた。


「何故、唐突にスターバックスの話になるんだ?」

「今朝、澪とスタバの話してたの。新商品の、フラ……」


 フラ……なんだったっけ。


「フラペチーノ?」

「そうそれ」


 山田君にさりげなくフォローされ、私はまたしても山田君を指さした。五分前にも同じセリフを言ったような気がするけれど、まあいい。だって、知らないんだもの。


「新作のフラペチーノがおいしそうなんだって。それで、男子もそういうの好きなのかなあって思って」

「いや、興味ない。少なくとも、俺は」

「じゃあ『外』にいたころ、ああいうお店に行ったら何を飲んでたの? 好きなメニューは?」


 私が訊くと、山田君は三秒ほど考え、


「ブラックコーヒー」


 できるサラリーマンの口調で、そう言ってのけた。流石、クールビューティ山田君。あんな苦いものを飲めるとは。ちなみに私は、ここの喫茶のブラックなら飲んだことがある。訂正、一口飲んで吐いて、残りに大量の砂糖とミルクを投入したことならある。


「なんか、山田君! って感じのチョイスだね」

「そうか」


 山田君は関心なさそうな声でそう言ったけれど、その後「そういう斎藤は?」と聞き返してきた。

 ――しまった、墓穴を掘った。まさかこの十五年間、一度もここから出たことがなくて、スタバなんて見たこともないだなんて言えない。


「……コーヒー」


 澪に対する答えと矛盾するのもまずいので、そう言うしかなかった。

 私がもごもごとした口調でそう答えると、山田君は「なんだ、一緒じゃないか」と呆れたように言った。砂糖とミルクもいっぱい入れるから、ブラックじゃない! と主張しておく。私は多分一生、ブラックなんて飲めないと思う。


「ブラックが好きってことはもしかして、甘いものが苦手とか?」


 私が突っ込むと、山田君は「そうでもない」と、これまた謎の発言をした。どういうことかと思っていると、山田君は少し面倒くさそうな、どこを見ているのか分からない目をして言った。


「好き嫌いがあまりないんだ。食に興味がなくて。だから、甘いものも嫌いではない」

「じゃあ山田君でも、パフェ食べたりするの? クレープとか、ドーナツとかも?」

「気が向けば」

「へー、意外!」


 私が笑うと、山田君はそろそろ行こうかと立ち上がった。食べ物の話は本当に興味がないらしい。寮に向かう途中、彼は小説の話ばかりしていた。私が貸したおとぎ話の本や、昨日図書室で勝手に読まれていた私の小説の話を。「さむがり猫と雪だるま」を読んだのかどうかは、聞けなかった。


 私は外に出たことがないから、食べたことがないものも、食べてみたいものも山のようにあった。けれど山田君は外から来た人間だから、そういうのはもう満喫しているのだろう。

 スタバ。ミスド。クレープ。お寿司。焼肉。鍋料理。私は大体のものを、ネットか小説で知っただけ。上辺だけの知識ばっかりだ。

 だけど彼はきっともう、実際に色んな場所に行って、色んなものを見て、色んなものを食べて、色んな人と接した人間なんだろう。だから、それに対する憧れとかそういうのも分からないのだろうな。そう思った。


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