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生まれてこの方、私は海というものを見たことがない。
十五年間海を見たことがないと言うと、どういう人間を想像されるだろうか。念のために言っておくと、私は日本人だ。少なくとも、両親ともに日本人であることは間違いがない。
海を見たことがない人間。それはたとえば、海が隣接していない県――栃木、群馬、埼玉、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良県――の住人だと思われるだろうか。残念ながらそれはハズレだ。厳密に言えば、ハズレているのかどうかは私にも分からない。けれど、私が海を見たことがない理由は、そんな理由ではない。
一生病院生活、という訳でもない。これはある意味事実に近いけれど、私が今いるのは病院ではない。学校だ。先ほどから壇上では教師が、訳の分からない数式を、訳の分からない公式を用いて説明している。因数分解などという、世にも奇妙な言葉を執拗に繰り返しながら。
――因数分解。因数分解ってなんだろう。そもそも因数ってなんだろうか。
恐らくこの授業についていけてないのは私と、ヒカル君くらいだろう。斜め前に座っているヒカル君は先ほどから、熱心にペンを動かし、大学ノートに何かを書き続けている。けれどそこに書かれているのは数字やアルファベットの羅列ではなく、とても繊細な街の絵であることを私は知っている。
彼は、ありあまる情熱をすべて絵に注ぐのだ。特に好んで描くのは、街の絵だった。
ヒカル君から目をそらし、窓から外を見た。視界の左には学生寮が、右には体育館が見える。中央には、黄土色のグラウンド。白いラインで、テニスコートが描かれているだけの簡易設備。私のいるこの施設は上から見れば、コの字型になっているはずだ。縦線の部分がちょうど、私が今いる校舎に当たる。
建物の周辺は、エメラルドグリーンのフェンスに覆われている。グラウンドの突き当りも一面のフェンスで、その向こうは森林だ。あれが山なのか森なのか林なのか、私は知らない。鬱蒼とした木々が、行く手を阻むようにそこにある。あの木々の中に、割って入ったこともない。
教室の窓からでは見えない、つまりは校舎の裏に、運搬用トラックが通る小さな道路がある。一日に二回か三回、食料や日用品を載せたトラックがそこを通る。それが私の知る、唯一の外界とのつながりだった。トラックがどこからきて、どこに帰っているのかは、私を含め誰も知らない。
ここは、日本のどこかにある『学校のような施設』だ。
この施設が、日本の何県にあるのかは分からない。少なくとも、孤島であることは間違いない。世間から完全に断絶されている空間。孤立した施設。
私はそこで生まれて、そこから出たことがない。だから海を見たことがない。孤島ならば、海くらい見えるだろうと思われるかもしれないけれど、この孤島は案外広いようで、施設からは海なんて見えないのだ。名前も分からない暗い色の木々ばかりが見える。ドラマでよく見る、山奥の田舎みたいな風景。私はそれを、当たり前だと受け止めて、そして諦めて育ってきた。
施設の外に出ることは許されなかった。だから私にとって外とは、校舎の二階から見える程度の広さしかないグラウンドがすべてだ。ちっぽけなテニスコートと、塗装の禿げたサッカーゴール。グラウンドの隅に申し訳程度に植えられた桜の木、三本。これがすべて。
教室にいる全員が、私と同じ境遇だというわけではない。他のみんなは外からやってきた人たちだ。ここで生まれたのではない。この施設は選ばれた天才児しか入れない場所で、本来は科学者だとか芸術家を育成するために設立されたものらしい。
私以外の入所者は、小学六年生の時に選抜試験を受けている。定員は毎年きっちり三十名。そうしてめでたく合格したら、住所があるのかも怪しい孤島に送られ、そこから――つまりは中学一年から二十歳になるまでを、ここで過ごす。月曜から金曜日までみっちりと、普通の学校ではやらないらしい複雑なカリキュラムをこなしながら。
入所中は、家に帰ることも許されない。許されているのは電話とメール、あとは三か月に一回集合写真を撮って、それを家族に送る。それだけだ。この施設は、家族にすら明確に場所を明かされていないらしい。私には家族もいないのでよく分からないのだけれど、友達が言うにはそういうことだそうだ。家族よりも勉強。そのための孤島ということだ。
外から来た人はここに来るまでの間に船を使っているので、全員が当然のように海を見ている。ほとんどの子は海水浴にも行っている。釣りや、スキューバダイビングをしたと言う子もいる。
私は、テレビや小説や漫画の中でしか海を知らない。他にも、見たことがないものが山のようにある。だけどそれは言えない。私も同級生と同じように、選抜されてやってきた天才児の一人というふりをしなければならないのだ。『この施設で生まれた』ということは、絶対に口外してはならない。
グラウンドから、空へと視線を移す。大きな鳥の影。トンビだ。ほとんど翼を動かしていないのに、とても優雅に空を舞う。落ちるなんて言葉を知らないみたいに。
「斎藤、……斎藤!」
気づくと、脇口先生が私に向かって叫んでいた。何度か名前を呼ばれていたらしく、教室にいる二十九人の生徒と一人の教師の目が、私に突き刺さっている。痛い。
「また自分の世界に耽っていたのか。確かに窓際の一番後ろの席っていうのは、妄想しやすいかもしれないなあ。斎藤にぴったりだ。で、今度は何を考えていたんだ?」
五十歳間近、本格的おじさん目前。そんな脇口先生が眉間にしわを寄せて、こちらを睨んでいる。私は眉間のエベレストを見ながら、口を開いた。
「……海について、です」
「空を見ながら海の事を考えてたのか?」
「あ、いえ、それはトンビを見ていて」
「お前が今見るべきものは、教科書とノートと黒板だ。お前がここの生徒じゃなく、受験生だったら大変だぞ。もう十一月なんだからな」
至極当然のことを、至極不機嫌な顔をして脇口先生は言った。私は赤面して、先生から目を逸らす。黒板にはいくつかの問題が書かれてあった。天才でも何でもない普通の中学三年生である私にとって、それは呪文だ。黒魔術。あるいは、読解不能の宇宙語といってもいい。「答えを言ってみろ」なんて言われたら困る。とても、困る。
すみませんでしたとうなだれると、脇口先生は勘弁してくれたようだった。そして、私がその呪文を唱えられないことを悟ったのか、廊下側の一番前の席に座っている男子生徒に答えを言うよう促した。廊下側の一番前。それは、窓側一番後ろの私にとって、対角線上の、つまりは最も遠い席の生徒だった。まるで、私と彼の頭脳の差を物語るような距離。そう、私はこの施設の劣等生で、彼は優等生だった。
唐突に答えを要求されても、彼は顔色一つ変えなかったと思う。この席からだと彼の顔は見えないけれど。彼の成績は常にトップだ。だから、あんな呪文の読解なんて造作もなかっただろう。案の定、私には理解不能の宇宙語を、すらすらと述べている。答えに困るとか、つっかえるとか、噛むとかいうことを彼は知らない。
彼の事を少し考える。ジャニーズにでも入れそうな、つるつるの肌と、どこか中性的だけどクールな顔。セットしてないのに、何故か整えられたように見える黒髪。すらりとした手足。得意科目はぜんぶ。苦手科目は、なし。将来は有望だ。きっと、この施設で今一番注目を浴びているのは彼なのだろうと思う。
彼がどこの出身なのかは知らない。彼が、あまり話したがらないから。休憩時間は、いつも一人で難しそうな本を読んでいる。人のことを言えないけれど、友達も少なそうだった。
彼が呪文を唱え終ると、脇口先生は「流石だな」と彼を誉めた。彼の呪文は正解だったらしい。脇口先生が詳しい解説を始めたけれど、やっぱりさっぱり分からなかった。因数分解。因数、分解? 分解って何を? 数字をだろうか。数字を分解。
ばらばら死体の数字が見つかりました。犯人は因数分解。殺害理由は――
私は数字遊びより、言葉遊びの方が好きだ。才能があるわけではないけれど。
ようやく終業のチャイムが鳴って、私は溜息をつく。黒板は一応写したけれど、理解できるかどうかは話が別だ。大嫌いな数学の教科書とそのノートを、鞄に押し込んだ。時計を確認する。十二時四十分。これから五十分は昼休みだ。
「卯月! まーた脇口に目をつけられちゃったねえ」
私の机に、女子生徒が腰掛けた。鍵谷澪。ゆるいパーマをかけた明るい茶髪の目立つ、派手な女子だ。この学校の制服は男女ともにネクタイなのに、彼女はお手製の大きな赤いリボンをつけている。手首には、どこかの民族を思わせるようなブレスレットがじゃらじゃらと。
一見ギャルだけど、成績は三位だ。なのに何故か、劣等生の私に構ってくれる。
「ほら、ご飯食べにいこ! ねえ、司も早く用意してよ、唐揚げランチが売り切れちゃう!」
「うっせー女だな。唐揚げとか太るぞ」
澪に名前を呼ばれた司君は、頭をボリボリと掻きながらこちらに来た。轟司、成績は二位。将来の夢は、「地球をぶっ壊す兵器を作ること」だそうだ。彼なら本当にできてしまいそうで、私は地球の将来を不安に思っている。
赤茶色の澪の髪も目立つけれど、白っぽいグレーの司君も相当に目立つ。グレーの髪はパーマがされていて、あちこちにはねていた。私は彼の服装を見る。下から、黒色のスニーカー、ヴィンテージものらしきジーンズ、長袖黒Tシャツ、その上に制服の半袖Yシャツを羽織った状態。つまり彼が着ている制服は、半袖Yシャツのみだった。この学校にも一応校則らしきものはあるが、かなり緩い。
私は教室を見渡して、首を傾げた。
「ヒカル君と、牧乃ちゃんは?」
「先に食堂に行ったんじゃない? ほら、ヒカル君、人を待たないから」
澪はそう言うと、教室の前列に目をやった。
「実も早くしてよー」
「今行く」
男性にしては少し高めの、けれども聞き取りやすいはっきりとした声。
――山田実。彼こそが廊下側の最前列に座る優等生であり、私と最も遠い距離にいる人間であった。
食事をするメンバーはいつも決まっている。成績トップの山田君。二位の司君。三位の澪。それから絵画の天才、名倉ヒカル君。ヒカル君と仲良しの森口牧乃ちゃん。牧乃ちゃんは音楽に特化していて、右に出る者はいないと言われている。そんな秀才だらけの中に、何をやらせても最下位である私が一人。改めて考えてみるとすごいメンツで食事をしていると思う。きっと周囲の皆は、どうしてここに私が混ざってるのか不思議だろうし、更に言ってしまうと、どうして私のような一般人としか思えない人間がこの施設にいるのかも不思議だろう。
「ヒカル君と牧乃、はっけーん」
食堂の中央付近にある、六人掛けの丸いテーブルについている二人を見つけて、澪がかけよった。唐揚げランチは無事にゲットしている。私は親子丼、司君はカツカレー、山田君は日替わりランチを手に、それぞれ席に着いた。これでテーブルの中央にくるくる回る小さな台座があれば、完璧に中華料理屋のそれだ。もちろん、テレビでしか見たことないけれど。
「そうか、今日は木曜日か」
ヒカル君のミートスパゲッティを見て、司君が言った。
ヒカル君は曜日ごとに、食べる昼食が決まっている。月曜はカレー、火曜日は焼きそば、水曜日はオムライス、木曜日はミートスパゲッティ、そして金曜日は醤油ラーメンだ。それが彼のこだわりらしかった。ヒカル君は知的障がい……いや、自閉症? らしく、様々なこだわりがある。たとえば、髪の長さは一センチから二センチとか。制服は第一ボタンまできちんととめて、シャツはインするとか。
「先に食べちゃっててごめんね」
申し訳なさそうに牧乃ちゃんが言った。と言っても、彼女のスープスパゲッティはさほど減っていない。きっと、私たちが来るまで待っていたのだろう。垂れ目で猫背、腰ほどまである長いストレートの黒髪が彼女の特徴だった。優しく物静かで、でも悪い言い方をすると目立たない。顔には生気がない。彼女が深夜の廊下に立っていたらきっと怖いと思う。
「ヒカル君、さっきは何の絵を描いてたの?」
私が訊ねると、ヒカル君はスパゲッティを食べたまま、私たちと目も合わせずに大学ノートを突き出してきた。渡されたそれを開いてみると、他の四人も覗き込んできた。
「おおー」
山田君以外の全員が声を上げる。そこに描かれていたのは、鳥の目線で見たような街の絵だった。マンションの窓や、一軒家の屋根が一枚一枚丁寧に描かれている。道路には数台の車。あと、街路樹っていうのだろうか、道路に沿って木が並んでいる。テレビで見たことがあるけれど、確かこれはイチョウだったはずだ。秋には葉が黄色くなるという。私はそれの実物を見たことがない。
ヒカル君は下書きもせずに、ペン一本で、こういう絵を何枚も書く。まれに色を付けるけれど、基本は線のみで構成された白黒の絵が多い。だから私は、イチョウの色が分からない。
「これ、想像だけで描いたの?」
澪が訊くと、ヒカル君は手を眼前でひらひらさせた。口の端にミートソースがべったりとついている。
「これはぼくのおうちから見ました、これはぼくのおへやから見ました。じゅういちがつふつか、さんじごふんの絵です」
「よくもまあ、ここまで精密に描けるな。ここまできたら写真だぜ。いいもん見せてくれた礼に、カツを一切れやろう」
司君がカツカレーのカツを渡そうとすると、ヒカル君は手をぶんぶんと上下に激しく振った。いつもハの字のまゆ毛が、縦線二本になりそうな勢いで不機嫌な顔になっている。
「木曜日はミートソースです! 木曜日はミートソースです!」
「そうだったな、悪い悪い」
司君はヒカル君にあげようとしていたカツを、自分の口に放り込んだ。山田君はヒカル君の絵を一瞥して、それから何でもないような顔で日替わりランチのエビフライをかじった。彼は好き嫌いがないらしく、おいしいもまずいも言わない。
山田君は司君と仲がいいとのことだけど、本来なら私たちと一緒にご飯を食べるような人じゃないように思う。それこそ食堂の隅で、難しい本を読みながら一人でご飯を食べてそうだ。クールな顔で。
「はあー。次の授業は体育かあ。めんどくさー」
澪が心底げんなりした様子で言った。お皿には鶏肉の皮だけが綺麗に残されている。司君がそれに手を伸ばしながら笑った。
「おめー、理数はトップクラスだけど、体育と音楽は地を這う蛇のレベルだからな」
「もうちょっとマシな比喩はないわけ? あんたこそ、美術はダメダメのくせに」
「その点、山田は向かうところ敵なしだな。何やらせてもできるんだから」
司君が言うと、山田君は相変わらずの無表情でエビフライを飲み込んだ。尻尾まですべて食べている。そして、そっと箸を置いた。
「――ごちそうさま。俺、次の授業はサボる」
それだけ言うと、山田君は空の食器を持ち、さっさと食堂から出ていってしまった。司君はそれを見て、わざとらしく口を尖らせる。
「……今日はご機嫌斜めっぽいな。新しく発明した兵器について話したかったんだが。お前らも聞きたいか? 水素爆弾なんだけどな、威力を高めるために」
「もういいわよ。あんたの話、面白くないもん。ごちそうさま。さ、体育の準備しにいこ」
立ち上がる澪たちを、私は見上げた。
「あ、……私、次の一時間は保健室にいるから」
私が言うと、澪は「ああ」と頷いた。
「身体の調子、やっぱりよくないんだね。早く運動できるようになるといいのに」
「うん、ありがとう。でも私は運動音痴だから、体育がサボれるのはラッキーだと思うことにする」
「お大事にね、斎藤さん」
「牧乃ちゃんもありがとう」
食堂を出ていく四人を見送って、返却口に食器を返すと、私は大急ぎで保健室へと向かった。――本当は、保健室には行かない。その隣にあるカウンセリング室に用事があるのだ。
本来ならば予約制であるカウンセリング室だけど、私はこの部屋の予約状況を大体把握していて、つまりは『いつ入室すれば他の生徒と被らないか』を知っている。
カウンセリング室の戸を三度叩くと、「どうぞ」と女性の声が聞こえてきた。躊躇わずに中に入る。壁に沿ってソファが二つ、向かい合うように設置されていて、その真ん中には長方形のテーブルがひとつ。部屋の隅にあるのは箱庭とその道具。そこから少し距離を置いて、高さ二メートルはありそうな巨大な本棚。いつも通りの風景だ。
ソファに腰かけていた女性カウンセラー……いや、研究員は、私の顔を見るなりふんわりと笑った。
「こんにちは、斎藤さん。……カウンセリング? 研究所?」
「研究所に」
私が言うと、女性は机の裏に手を伸ばした。かちり、とスイッチを押す。すると、大きな本棚がするすると横へスライドして、壁にあいている穴が姿を現した。
「どうぞ」
促されるまま、私はその中に入る。
私以外の生徒は誰も知らない、秘密の研究所へと。
私以外の生徒は誰も知らない、私の秘密を握る場所へと。