六
「幸子さん。今、僕はあなたの家の前に居ますよ」
―――
日々のルーティンとして新塚幸子のブログを覗いて見ると、とんでもないコメントが付いていた。以前からちょくちょく薄気味悪いコメントを載せていた輩だが、まさかこんなことを書くなんて。投稿された時間を見ると、まだ十五分前だった。わたしは思わず、窓から外を窺った。電柱や塀などに男が隠れていないかどうか、こそこそと見てみたが、誰も居ないようである。一応、カーテンを閉めておく。
家の前、とは具体的にどこだろうかと考えていると、隣の部屋のインターホンを鳴らす音が聞こえてきた。まさか、太郎が、新塚さんの部屋に押しかけたのだろうか。美人だがぼやぼやしている彼女のことだから、もしかしたら無防備にドアを開けてしまうのではないか。わたしは、見えるわけもないのにドアスコープにへばりついてみた。
扉が開き、閉まる音。
わたしは隣室との壁に耳を近づける。物音は特にしない。
不自然だ。何も音がしないなんて。
居たたまれなくなって、わたしは部屋を飛び出すと、隣室のインターホンを鳴らした。返事はない。また鳴らす。
次第に妙な心地にとらわれて、何度も何度もインターホンを押し、あまつさえ、
「大丈夫ですか! 新塚さん!」
と叫びだしてさえいた。
ドアを叩き、インターホンを押し、怒声を上げる。
と、
「はい」
返事がして、扉が開いた。
そこには新塚幸子と、二○八号室の男が並んで立っていた。
二○八号室の男はわたしを見ると、
「なんですか?」
とニヤニヤしながら言った。
どういうことだ? わたしはとっさにパニックに陥る。
この男が「太郎」だったのか?
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
新塚幸子は黙ったまま、そっと二○八号室の男の袖を取った。怯えているように見える。
「木村さん。もしかしてあなた、太郎という男のコメントを見て、慌てたんですか?」
「え?」
「新塚さんのブログに書かれた、今家の前に居る、という太郎のコメントを見て、隣室に誰かが入った音を聞いて、それで慌てたのでは? ということはつまり、あなたはそれほど慌てるだけの理由をもっていたことになる。ほかならぬ、成りすましの犯人だから、ではないのですか?」
違う、といおうとしたが、言葉にならない。
「あなたは新塚さんを語りブログを書いた。そこで太郎という変な虫が付いたことを、自分の責任だと思った。だから実際に新塚さんを誰かが訪れただけなのに、ひどく狼狽した」
違う。わたしはただ、彼女に憧れていて。それで。何かあったらいけないと。ただ。心配して。
「でも大丈夫。あの太郎という男、実は存在しないのです。あれは、ほかならぬ新塚さん本人によるものなのだから。新塚さんなりに、自分に成りすましてブログを書いている人間へ警告を与える意味で、気味の悪いコメントを書いただけなのですよ。そしてそれが、こうして犯人をあぶりだす結果になった、ということですね」
この男の理論は破綻している。それらしい言葉を並べているが、中身はない。
だがわたしが何か言葉を発しようとする前に、
「それでは、もうあんな気持ちの悪いことは辞めてくださいね」
そう言って男は扉を閉めた。
理不尽に、侮蔑的な視線を込めてわたしを見ながら。
―――
私の恋愛はまっすぐには行かない。
何か盛り上がって、結束を固めるような出来事でもない限り、彼女の隣に居座ろうとは、思えなかったのだ。
隣人愛。
隣人の隣人までは、手に負えない。
2014年4月ごろに書いていた話。
元々は賞に出そうと思っていたのですが書いてみたらあまり膨らまず、ということで放置していたものを、供養に。加筆・修正は特にしていません。
変態と阿呆のせいで勝手に貶められた哀れな木村さんを慰める話でも書こうかと、読み直したらそんな気分になりました。