二
「おはようございます」
朝、お互いが部屋から出てくるタイミングが同じになると(もちろん私がそうなるように調節しているのだが)、彼女はそう言ってこちらに挨拶をくれる。私は鍵を差し込むのに集中しつつ(彼女に会うと緊張して震えが止まらない)、もそもそと返事をする。彼女に聞こえているのかどうかはわからないが、たぶん彼女くらいの美人になると、こうしたドモリ男の対応も随分慣れているのだろう、
「それでは」
と一言添えると、先を進んでいく。
私はその日、仕事が休みだった。ごみを捨てに行くわけでもないし、煙草や缶コーラを買いに行くわけでもない。朝早くにわざわざ目を覚まし、耳を澄まし丹念なリハーサルを済ませタイミングを見計らって部屋を出て、まさか挨拶を済ませて大満足なんて、そんな純真無垢な大人には、残念ながら育っていない。
一般的にこのような行動は、ストーカーと呼ばれるのだと思う。だが私は自己正当化のために「これは尾行である」と認識するよう努めていた。
尾行。調査だ。
二十八の男が美人に対して無知で居ては、攻略できるものも出来ない。趣味を知り、趣向を知り、そうして何とか共通項を得て初めて、スタートラインに立てるのだ。
深呼吸を一つすると、ゆっくりと彼女を追って歩き出した。階段を降り、国道に出て左右を見ると、彼女は左に曲がっていったらしい。特徴的なロングヘアがさらさらと揺れている。すれ違う男たちは釘付けになるか、一度はやり過ごしても必ず振り返るかのどちらかの行動を取った。まるで出来の悪いドラマでも見ているようだが、事実美人というのはこういう行動を誘発させる生き物なのだろう。鈍重な現実が安っぽい虚構に重なるという妙な感覚ではある。
新塚幸子はそんな周囲に関して無頓着らしい。どうも、彼女は世間知らずというか、自分知らずというか、周囲が自分に対してどのような感情や思惑を抱いているのか、分かっていないように思える。のんびりとしすぎているというか、無防備というか、ただの隣人に過ぎない私が思うのもなんだが、見ていて心配になってしまう。
やがて新塚幸子は駅に到着した。生憎私は今回何の準備もしていなかったため、尾行はここで中断ということになる。思えば私は彼女の年齢がいくつで、これから向かう先が学校なのか会社なのかも、知らない。そう思うと、私は自分の無知がひどく怖くなった。
改めて言うべくもないが、私は間違いなく、この段階で新塚幸子という女性を好いていた。好いているが、顔と名前と住所以外は何も知らないのだ。
知らないということは、恐怖だ。未知ほど怖いものはない。だから人間は本質的に暗闇というものに恐怖を覚える。茫漠な宇宙に恐怖を覚える。知ろうと必死にあがく。私はそれらに対するのと同じように、新塚幸子に恐怖を覚えた。
そして、私は攻略云々という浅はかな動機から、もっと深遠な執念に駆られて、毎日のように彼女を尾行するようになった。知りたいという欲求に身を委ねたのだ。
そこから知れたことは以下の通りである(もちろん尾行の成果ばかりでなく、直接的な会話によるものも中にはあるが、ここでは結果報告ということでひとくくりとする。こうして調査と割り切ってしまうと、もちろん彼女の人となりも手伝ってだろうが、驚くほどすらすら会話が出来ることが、どこか虚しかった。また、私のような素人の尾行に気付かない辺り、私の抱く彼女の印象はおおよそあたりなのだろうとも感じる)。
新塚幸子。年齢は二十四。実家は福島の海沿い。母と父は健在。兄が一人いるが、年は六つも離れているという。大学進学を機に上京し、今のアパートには就職のために引っ越してきたという(浪人を経験しているためこの年齢なのだそうだ。勉強はからきし苦手らしく、ただただ美人なだけじゃないのだから、世の男性が彼女を放っておかないのも道理だ)。
毎日五時半に起床。いや、少なからずこの時刻には目覚まし時計が鳴る音が聞こえてくる、というのが正確か。寝覚めは悪いほうと見え、スヌーズ機能が満足げに五分おきに五回は鳴るから、結局は大体六時前に起きているということだ。そこからばたばたと(毎回時計を見て寝過ごしたことに驚くのだろう)ベッドから起きると(きしむ音がよく響いてくる)、まずシャワーを浴びに行く。と言っても夜にはもっとしっかりと浴びているため、あくまでも目を覚ますためのルーティンとしてに過ぎないようだ。さっとシャワーを済ませた後は、大抵トーストを食べているらしいが、これは日による。トーストか、食べないかの二択のようである。
七時には家を出る。駅までの道のりをやや早歩きで、十分ほどかけて歩いた後は、電車に揺られて三十分。そこからまた十五分ほど歩いたところにあるこじんまりとしたビルに入っていく。五階建てのビルで、全てにテナントが入っているが、さすがに何階に行くかまでは確認できていない。そこまでのリスクは犯せない。
昼休みには職場の人間(それが先輩か同期かは分からない)とご飯を食べに行く。コンビニなどに買いに行くわけではなく、ファミリーレストランだったり定食屋だったりと様々だが、基本的にいくつかの候補の中から選び、外食で済ませるらしい。三十分もするとビルに戻る。
そこから六時ごろまで仕事をし、朝と同じルートで帰宅する。どうやら職場の人間に飲み会に誘われたりもするらしいのだが、今は仕事の疲労感でとてもそんな気にはなれないらしい。これは本人曰くだが、大勢で飲むよりも一人でしっぽり飲むほうが好きなのだという。美人ゆえ、華やかな場に居るのを想像しがちだが、どちらかというと根は暗いらしい。
平日は大体このような決まりきった生活を繰り返しているようだ。
休日には渋谷へ行ったり新宿へ行ったりと意外にアクティブである。彼女曰く、東京に強い憧れがあったのだそうで、毎週毎週、人ごみに紛れているだけで言い知れぬ充足感が生まれるという。私も社会の一員である、という認識を少々屈折したやりかたで覚えるらしい。
私の恐怖は多少なりともやわらいできた。私は新塚幸子に関して無知ではない。他のライバルたちを差し置いて一歩抜きん出るほどの情報量を持っているといっても、言い過ぎではなかろう。
恐怖が薄れてくると、また以前のように彼女に対する強い恋情が蘇ってくる。
正攻法ではないにしろ、彼女を知り、また彼女に知ってもらうために会話をするのは、心をよく満たしてくれた。それまでの、くだらない毎日のマイナスを、プラスとは言わずともいくらか軽減してくれる、至福の瞬間であった。私はこのときにはおそらく、新塚幸子というただの人間を、神格化していた部分があると思う。愛だの恋だのを超越した何かを持っていたような気さえする。ただ一方で、愚劣な自分が、彼女を犯したい、彼女をめちゃくちゃにしてしまいたい、という欲求に飲み込まれ、黒い、ぐつぐつと煮えたぎる泥沼のように変化しているのも、自覚があった。
そうした強い劣悪に潰されそうになると、小説を書いた。小説の中でひとを犯し、殺し、そして埋める。しかしミステリーという性質上、どうしてもそれは露見してしまう。そうなると、もっとぐちゃぐちゃとした思いが胸中を支配する。絶対にばれない方法はないのか。何とか誰にも知られずに彼女を。そう考え始めてしまうと、手は止まり、思考も散漫になった。
だが、随分と遠回りをしたが、新塚幸子のことを好きで、彼女についての知識や彼女と会話をする機会を得ている私の立場なのだから、しっかりと、根っこから、順番どおりに、彼女と付き合えばいいのではないか、と思い当たった。
本当に、遠回りもいいところである。
しかしこれも、まっすぐには行かなかった。