三題小説第九弾『美少女』『インターネット』『時計』
現在12:32:45だ。父が祖父から受け継いだ時計店はシャッター街化しつつある商店街の裏にある。時代の波に揉まれつつも倒産ギリギリの所で踏ん張って来た。
まぁ父が言うところによると大した営業努力もしていないそうだが。何せ出不精故に外を出歩く必要が少なさそうだからと店を受け継ぐような父だ。それでも家族三人の生活を支える事は出来ているのだから大したものだろう。給料も出ないのに大学休みの俺が店番させられている事を差し引けばの話だ。
「滝夫。これ持ってきてくれ」
店の奥からやって来た父に渡されたメモ書きにはあるメーカーの腕時計がいくつか並んでいた。
「通販?」
通信販売は早くから着手していた。客にとっても商売人にとっても省エネな素晴らしい販売方法だと絶賛していたものだ。勿論今ではインターネットを介した通販が主流となっている。
「そうそう。よろしくな。俺はちょいと出かけてくるから後頼んだ」
少しでも店番すらいない時間を作るなんて神経がどうかしてるんじゃなかろうか。
店舗の奥には倉庫がある。ここから商品を取り出すことさえ父にとっては億劫なのだ。まぁ年も年だから文句を言う気にもならないが。
いくつもの棚と段ボールが所狭しと並んでいる。祖父はコレクターのように古今東西の時計を集めていた。時計博物館でも開けてしまうのではないかという量だ。しかし祖父はコレクターのようであってコレクターではない。全てがれっきとした商品だ。
昔、ネット通販を始めるのを機に父が全ての在庫を帳簿管理ソフトで管理しようと思いついたが棚卸が面倒になってやめてしまった。祖父が集めたコレクションの大半は倉庫の奥で眠りについている。
今や倉庫の手前部分だけが使用されている。それにしても個人店舗にしては大きな倉庫だ。
薄暗い倉庫の蛍光灯のスイッチを手探るがいつもより仄明るい事に気付いた。倉庫の奥でホタルにも劣る青緑がかった微かな光がどこかから漏れている。
蛍光灯を点けるがその仄かな明りは掻き消されてしまう。もう一度蛍光灯を消し、青緑の明かりの光源を探す。光る時計など山ほどあるが、その光のある辺りは祖父が集めていた時計の群だ。古めかしい柱時計や懐中時計に蛍光塗料が使われているはずもない。
最上段の棚にあるぼろぼろの段ボールの一つから光が漏れていた。背を伸ばして段ボールを取り、床に下ろす。
埃まみれのガムテープを外すと段ボールが破裂し、少女が出てきた。二人出てきた。裸だ。美少女だ。なんてこった。
「な、何なんだ! どこから出てきた」
俺は驚きのあまり後ろに倒れこんでいた。二人は咳き込みながら破裂した段ボールで身を隠す。
片方は高校生くらいでもう片方は小学生くらいだろうか。大きい方は垂れ目で優しげな雰囲気だ。全体的に女性的な丸みを帯びていた。黒い髪は後頭部でシニョンを作っている。
対照的に小さい方は吊り目で既に俺を睨みつけている。子供の体型に女性らしさは見当たらない。茶色のツインテールが幼さを極めて表現していた。
「えいっ」と言って小さい方が段ボールの破片を投げつけてくる。
思わず身を庇うと、次の瞬間には二人とも服を着ていた。大きい方は梅柄の袴姿で小さい方はセーラー服だ。裸を拝めたのは数秒のことだった。舌打ちしそうになるがやめる。
「多喜二様!」
大きい方がよく響く鋭い声で叫び、俺に抱きつき押し倒す。
「お会いしとうございました! 多喜二様の温もりが懐かしゅうございます! またクロッ子で毎朝目を覚まして下さいまし! それに! それと! えっと!」
突き放すのはやめておく。密着する柔らかさに全神経を集中しつつ言う。
「落ち着け。何者だよお前ら。人間じゃないのか? 幽霊か何かか?」
クロッ子が半ば起き上がる。見下ろす熱い眼差しは恋する乙女のそれだった。
「多喜二様の置き時計ですわ! お会いしたい思いのあまりにこうして具象化したのです! 多分! だけどきっとそうですわ!」
本人も分かっていないようだ。というか一々声が大きいなこいつは。
「そっちの子は?」
小さい方が立ちあがって傍らに立ち、囁く。
「ヲチ子。多喜二の腕時計」
と言ったように聞こえた気がする。こっちの声はやたら小さい。
「それだけどな。俺は多喜二じゃないぞ。多喜二ってのは」
「そんな! この温もりは間違いなく多喜二様ですわ!」
「おい! 温もり以外に何かないのか!?」
「温もりだけで十分ですわ! 私が多喜二様の温もりを間違えるはずがありませんもの!」
そう言ってクロッ子が身を擦り寄せるが突然止まる。
「間違えました。すみません。温もり違いでした」
「突然冷静になったな。温もり違いって何だ。まぁ分かってくれたのなら良いんだが」
クロッ子は立ち上がり、辺りを見回す。
「ここはどこですの?」
「ここは山沢時計店だよ。それで何だっけ? 時計? 九十九神的な事なのか? 流行りの擬人化ってやつか?」
クロッ子が俺の手を掴んで詰め寄る。ヲチ子は話に飽きた子供のように座り込んでいた。
「やはり山沢時計店!? どこかに売り飛ばされてしまったのかと思いましたわ! それで多喜二様は!? 山沢多喜二様はどこにいらっしゃいますの!?」
「クロッ子うるさい」
ヲチ子が呟くとクロッ子が振り返る。
「貴女だって多喜二に会いたい会いたいってぐちぐちぐちぐちぐちぐち言ってたじゃありませんか!?」
ヲチ子は俯いてしまった。
「それはそうだけど、とりあえず事情を説明しないとその人だってどうすればいいのか分からないよ」
「それもそうですわね!」と言ってクロッ子はこちらに向き直る。「私はクロッ子! この子はヲチ子。多喜二様の持ち物として長年愛用されていましたの! でも何年前の事でしょうか。ある日から多喜二様に触れてもらえず、そこの段ボールに仕舞われていたようですわね。それはそうとしてとにかくともかく! 私達は多喜二様に再会して恩返しをしたいのですわ!」
「その多喜二だけど……」
「でなければ!」クロッ子は聞いちゃいない。「私達に渦巻く念が暴発してしまう事請け合いですわ!」
「ぼ、暴発? 具体的にどうなる?」
「私たちにも分かりませんわ! とにかく何かしら悪い事になるに決まってます! 妖怪とか悪霊とかそういう何やかやと化してしまいますわ!」
これは不味い事になった。彼女らが多喜二に恩返しできなければ何か悪い物、この世のものでない何かになる。しかし当の多喜二は、俺の祖父はこの世のものではないのだ。
現在12:57:41だ。
「そういうわけで多喜二様はどこにいらっしゃいますの?」
「えぇっと……そう! 爺さんはちょっと出かけててな! 帰るのはいつになるかな。そういや聞いてなかったな」
「爺さん? 多喜二様の事ですの?」
「お、おう。俺は多喜二の孫、滝夫だよ」
「そうですか。随分お年を召されてしまったのですね。ともかく、であれば探しに行きましょう! 私一刻も早く多喜二様にお会いしたいですわ!」
倉庫から出ようとするクロッ子を押しとどめる。
「待て待て。お前達自分がどういう存在かわかってんのか? 人前に出たら騒ぎになるっつうの!」
「そうです? どこから見てもただの人間にしか見えないと思いますが」
その通りだった。どこから見てもただの美少女二人組だ。
「とりあえず店から出るのは駄目だ。そうだ。爺さんもそのうち帰ってくるんだし家で待ってりゃいいんだよ!」
「それもそうですわね。じゃあ待たせて貰いますわ」
「じゃ、ついてこい。居間まで案内するから。店には出てくるなよ」
倉庫を半分ほど歩いた所で二人がついて来ていない事に気付いた。
「どうしたんだよ?」
「連れてって下さいまし」
「はぁ?」
ヲチ子が床に落ちている何かを指さす。
「それ。持ってって」
そこに落ちているのは古めかしい装いの置き時計と腕時計だった。
「自分で移動できないのか?」
クロッ子は腕を組み目をそらす。
「一定範囲だけのようですわね」
これはもう放っておいてもいいんじゃないか?
「変な事考えないでくださいね! 化け物と化して欲しくなければ」
「脅迫かよ。仕方ないな」
置き時計と腕時計を拾い上げる。本当に古い代物だ。しかしよく手入れされているようにも思える。二人も俺についてきた。とりあえず行って欲しくない所に行かせずに済みそうだ。
倉庫を出て、店と隣り合う住居に入る。廊下を通り、台所の隣、茶の間にある卓袱台の上に二つの時計を置いた。
それにしてもレトロで美しい時計だ。腕時計を手に取る。どうやら自動巻きのようだ。竜頭を摘まんで慎重に巻く。呼気7声3の割合でヲチ子が嬌声をあげて卓袱台に突っ伏す。
「お、良い反応じゃないか。それ、もっと巻いてやろう」
「やめなさい!」
クロッ子に足蹴を貰う。
「何だよ。巻いた方が良いんじゃないのか?」
「下手に巻かれてゼンマイを切られるわけにもいきませんわ!」
「時計屋の倅をなめるんじゃねえよ!」
腕時計を戻して置き時計を取る。同じく慎重にゼンマイを巻く。
クロッ子はまたもや蹴り上げようとしたが膝から崩れ落ちてしまった。得も言われぬ表情になる。相当の悦びを感じつつも表に出さないように耐えているようだ。上目遣いでこちらを睨みつけるが俺の嗜虐心がそそられるだけだった。
「本当にやめてください……」
随分しおらしくなっている。頬が赤く染まっている。
「悪い事じゃないだろ?」
「もう長い間分解掃除されていないのです……。もし壊れれば怪物と化しますよ……」
「おっと! それもそうか」
置き時計を机に戻す。せっかく祖父の死を隠しているのに元も子もない。
振り返ると怒りに震えるクロッ子が俺を見下ろしていた。
「まあ落ちつけって。俺が悪かった」
「悪かったと思っているのなら罰を受け入れなさい……」
クロッ子が俺の耳を引っ掴み、口元に無理やり引き寄せる。
「おいおい待ってくれよ……まさか……!」
「長年多喜二様に目覚まし時計としてお仕えした実力をお見せしましょう」
現在13:15:28だ。時計達を居間で待たせて店番に戻る。まだ耳鳴りがする。
さて、どうしたものか。時計達に恩返しさせなくてはならないのは今は亡き祖父だ。
そうだ。別に亡くなっているからと言って恩返しが出来ないという事にはならないんじゃないか? 例えば子孫に対して尽くしてくれれば、それは先祖に対する恩返しという事にはならないだろうか。さすがに都合が良いかな。
いや、そもそも祖父が亡くなっている事を伝えた時点でアヤカシになってしまいそうな様子なんだ。つまり祖父が死んだ事を知らせずに祖父に恩返しさせる。これは詰んだのか?
店の天井付近に飾られた白黒の写真を見る。祖父の写真だ。黒縁眼鏡でニコニコ笑っている。俺には似ていない。母方の祖母に似ていると子供のころによく言われたっけ。残念ながら俺が生まれた頃にはその祖母も亡くなっていたが。
多喜二爺さんも俺が幼い頃に亡くしたがおぼろげに記憶に残っている。どうにも陽気な爺さんで、よく俺を「たかいたかい」したがっていた。
そうだ! 思い出した。爺さんはいつも腕時計を付けていた。あれがヲチ子だったのではないだろうか。さすがに造形までは覚えていないが。
クロッ子はどうだろう。目覚まし時計として仕えていた、ということは枕元にあったのかもしれないが、思い出せない。何か二人を成仏させるヒントはないだろうか。
それにしても何故二つの時計は倉庫に仕舞われたのだろう。特に腕時計なんてのは形見としては定番だろうに、誰も受け取ろうとしなかったのだろうか。
店の扉が開いた。いらっしゃいませ、という直前でやめた。父だ。丁度いい。
「よう。儲かってっか?」
「うるせえよ。ところで父さん。爺さんがつけてた腕時計覚えてるか?」
「ん?ああ、あれな。覚えてっけどどうした突然」と言って父が通り抜けて家に入ろうとした。腕を掴んで引き留め隣に座らせる。
「いいから知ってる事教えてくれ」
「知ってるっつってもただの愛用品だあな。自分で買って自分で使ってたってだけだろ。確か死ぬ前に言ってたな。俺が死んだら預ける。絶対売るなよってな。まあ金属製品は火葬に出来ねえし、売るなよって事は保管しとけってこったろうから倉庫にしまったんじゃなかったかな」
寂しさのあまり実体化したのは父の責任ってわけだな。
「置き時計はどうした?」
「んー? あー、あったな。置き時計。あれも一緒にしまったんじゃないかな。そんな事よく覚えてたな」
「忘れてたけど思い出したんだよ」
みんな忘れてたんだ。そして特に成仏させるためのヒントはない。
しかし父のきょとんとした顔を見て思いつく。眼鏡以外そっくりじゃないか。超古典的詐欺。替え玉作戦だ。
「父さん。これからする話をよく聞いてくれ」
「な、なんだよ突然。金ならねえぞ」
無視して話を進める。
「今、家の中に二人の女性がいる」
「はあ?」
立ち上がろうとする父を押しとどめる。
「その人たちは昔爺さんに助けられてその恩返しにやって来たんだ」
「何だよその鶴の恩返しみたいな話はよ」
「まあ聞け。残念ながら爺さんはもう死んでいる。しかしその女性達は恩返しできなければ自殺でもしかねないほどに思いつめているんだ」
「おいおい。どうしたらそうなるんだよ」
「それだけの恩だって事だ。だから二人には気持ちよく恩返しをして帰って貰いたいわけだ」
「そりゃそうだがどうすんだよ」
「父さんが黒縁眼鏡をかけて多喜二と名乗れば良い」
まあ温もりと名前だけで容姿すら知らないのだから黒縁眼鏡は関係ないが。
「お、おまえ恩人を騙すのかよ」
「落ち着け。恩人は爺さんだ」
「そ、そうか。そうだな。自殺なんてされちゃあたまんねえや。やってやろうじゃねえか」
「思ったより思い切りが良いな」
「こういうのは勢いが肝心なんだよ! それじゃあ行ってくる」
立ち上がろうとする父を押しとどめる。
「眼鏡を忘れてるぞ。一度深呼吸をしよう」
父は一度深呼吸をする。机の引き出しから祖父の形見の黒縁めがねを取ってかける。
「やべえ。何も見えねえ」
「父さん落ち着け。それは我慢しろ。それと絶対に女の肌に触れるなよ」
彼女の温もりセンサーは油断ならない。
「言われなくても見知らぬ女性に触ったりしねえよ馬鹿」
「よし。基本俺が喋るから話を合わせてくれ。あとあっちは情緒不安定だから変な事を言うだろうけど気にすんな」
「分かった。母さんと同じだな」
後でチクってやろう。
現在13:37:12だ。茶の間の前、廊下で一度立ち止まる。ふすまは閉まっていた。俺が閉めたんだったか。
「人を騙す覚悟は出来たか?」
「お、おう。嫌な言い方するんじゃねえよ。お嬢さん方の為なんだから方便だろうが」
中は眠っているのかという程に静かだ。もしかして成仏してしまったのだろうか。それならそれで構わないが。
扉を開ける、と同時に音を立ててジェンガが崩れ落ちた。二人の女の笑い声が響く。
「もう! 滝夫ったら嫌なタイミングで入ってきましたわね!」
「クロッ子。罰ゲーム」
「仕方ありませんわね」と言ってクロッ子は右耳から何かを引きはがすジェスチャーをする。「あっひゃあ! うるっせ! うるっせ!」
クロッ子に罰を受ける俺のモノマネだった。
「お、おい。滝夫。とても自殺しそうには……」と父さんが耳元で囁く。
「躁状態というやつだと思う」と囁き返す。
二人に向き直ると、ようやく父さんに気付いたようだで。こちらを見ている
「おいお前ら。祖父を連れて来たぞ」
「多喜二様!」
父さんに飛びかかるクロッ子を制する。
「待て待てクロッ子」
「何ですの! 滝夫! ようやく多喜二様と再会できたというのに!」
「落ち着けって。お前ら自分が何者か忘れたのか? 軽く説明はしたが爺さんだって混乱してるんだよ。とにかくまず座ろう」
「そ、それもそうですわね」
そういうわけで4人で卓袱台を囲む事になった。卓袱台の上には散らばったジェンガと置き時計と腕時計がある。
「多喜二様。こんなにも大きなお孫さんがいるのにお若くいらっしゃいますのね!」
沈黙が流れる。父は俯いて押し黙ってジェンガを箱に片付けていた。
「そうだな」と俺が言う。
「滝夫には聞いてませんわ!」
父よ。気圧されすぎだ。父が少し俺の方に寄って囁く。
「おい、滝夫。親父の恩人にしては若すぎないか? というかちっこい方は死んだときにまだ生まれてないだろ」
「恩人の恩人だ。又恩人だ」と返す。
父は腑に落ちないようだった。クロッ子はきらきらした目で父を見つめ、ヲチ子は俺と父を交互に睨みつけていた。
「それでどこまで説明いたしましたの?」
「うん。まあとにかく恩返しをしたいって事だな。ところで具体的にどう恩返しするんだ。何か霊験あらたかなパワーでも使ってくれるのか?」
父の視線が気になったが気にするなという視線を送り返した。
「そんなものありませんわ! でもこの体で出来る事なら何だっていたします! 何かして欲しい事はございませんか!? 多喜二様!」
俯く父は顔を赤くしていた。後でチクってやろう。
しかしまずったな。恩返しで何をさせるか考えておくべきだった。まあいい。何だってしてくれるそうだし。
「とりあえず倉庫の片づけをしたいんじゃなかった? 爺さん」
「滝夫には聞いてませんわ!」
「そ、そ、そうそう。倉庫の片づけしたかったんだったった」
「落ち着け爺さん」
「多喜二様はどうしてこんなにも緊張していらっしゃいますの?」
「昔の人間だからな。お前らみたいな存在はあれなんだよ」
よく考えたらこの場で俺だけが全員を騙しているのか。言葉を選ぶのも大変だ。
「そうですか……。では倉庫の掃除、喜んでお手伝いさせていただきますわ!」
一瞬の油断だ。クロッ子が身を乗り出し、父の両手を自分の両手で包み込んでしまった。すぐに手を離しクロッ子は立ち上がる。
「やっぱり! おかしいと思いました! ジェンガを片づけるばかりで時計には見向きもされませんでしたもの! いくら長年放っておかれたにしても多喜二様に限ってそんな事ありえませんわ!」
クロッ子が俺を睨みつける。その瞬間置き時計の目覚ましベルがけたたましく鳴り響く。俺も父も揃って全身が引きつる。ヲチ子だけが冷静に置き時計のベルを止め、クロッ子の腕を掴む。
「落ち着いて。クロッ子。二人とも悪気はないの」
「多喜二様はどこですか!? 滝夫!」
俺は首を振るばかりだった。もう怪異になってしまったのか? 正体不明の威圧感が全身を抑えつけてくる。
「もういいです! 多喜二様!」
クロッ子は茶の間を飛び出して行ってしまった。
「お、おい。一定距離は離れられないんじゃなかったのか!?」
ヲチ子は首を振る。
「分からない。時計じゃなくなろうとしてるのかも」
痺れた体を無理やり立ち上がらせる。とにかく追わなければ。
クロッ子はどうやら家じゅうをかけずり回っているようだ。もはや人間のようには移動していない。廊下を走って行ったと思ったら次の瞬間には床下から足音が聞こえてくる。卓袱台の上の時計は微塵も動いていないが、二階から、隣の部屋から、壁の中から、目覚ましベルが断続的に鳴り響く。あちらからこちらへ、こちらからあちらへ、ベルと足音と多喜二を呼ぶ女の声が飛びまわる。
父は完全に怯えて部屋の隅で縮こまっていた。無理もない。俺だってそうしたい気持ちだ。
ヲチ子と共に茶の間を出ると、二階への階段を目覚ましベルの音と共にクロッ子が駆け上がって行くのが見えた。
そして家が静まり返る。先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、埃の舞い落ちる音まで聞こえそうなほどに静寂が横たわる。
後を追おうとするとヲチ子が俺の腕に縋った。
「滝夫。腕時計」
卓袱台の上の腕時計を取りに戻り、ヲチ子と共に二階へ向かう。
階段を上り、一つ一つ部屋を覗き込む。どの部屋もふすまがしっかり閉まっていたが、最も端の商店街を見渡せる部屋にクロッ子がいた。生前爺さんが使っていた部屋だ。最後の最後まで健脚だった爺さんは何の苦もなく一日に何度も一階と二階を往復していたものだ。そこは今では父の寝室で、祖父の仏壇が据えられていた。
仏壇の前でクロッ子がくずおれてすすり泣いていた。そしてどこからか時計の秒針の音が聞こえている。しかしその音は時を等分に刻まず、不規則に切り分けている。
「ヲチ子。どうすればいい。どうなるんだ」
「分からないよ。何が起こっているのかなんて!」
俺もヲチ子も立ち竦むしか出来なかった。クロッ子は顔を覆い、涙を流していた。気がつくとすすり泣きと秒針の音の他に何か細かな金属片のぶつかり合うような音が聞こえる。いつの間にかクロッ子の涙は歯車で出来ていた。無尽蔵に歯車がクロッ子の顔から溢れ出ている。
「何で……」
それはクロッ子の声だった。ざらつく錆びのような鈍い声になっている。
「私を置いて行かれたのですか? 多喜二様……」
「クロッ子。時計は火葬できないし、使えなくなった訳じゃないから供養するはずもないんだ。爺さんは自分が死んでもお前達が使われ続ける事を望んでたんじゃないか?」
「黙りなさい……」
「俺の父、多喜二の息子はこう言われたんだ。俺が死んだら時計を預けるって。絶対に売るなって。妙な言い方だろう? 死んでもお前達の事を誰かにくれてやるつもりはなかったんだ。爺さんの持ち物として誰かに使われる事を望んでたんじゃないか?」
「黙りなさい……。多喜二さんの子孫といえど私を騙そうとした奴の言う事など信じられましょうか……」
クロッ子が顔を上げた。顔にはぽっかりと虚ろな穴が開き、闇の奥から錆びた歯車を吐き出し続けていた。とうとう亡霊と化したのか?
「そうです。そもそも子孫というのは本当なのですか? それも嘘なんじゃないですか?」
溢れる歯車は畳の奥に吸い込まれている。クロッ子は仏壇に向き直った。爺さんは遺影の中でも朗らかに笑っている。
「そうです! そうです!! そうです!!! 多喜二さんだって本当は亡くなってなどいないんです!!!」
クロッ子が小刻みに揺れ始める。まるでその時刻になった目覚まし時計のように。次の瞬間ベル音が炸裂した。家全体を包み込むほどの大音声のベル音が何もかもを振動させる。
「多喜二さん! 多喜二さん!! 多喜二さん!!!」
俺は必死に耳を抑えるが何の足しにもならない。無理やりに鼓膜を揺さぶられ、限界が近づくのを感じた瞬間、ヲチ子がクロッ子に抱きついた。そうしてクロッ子に何かを囁いた途端音が消え去った。鼓膜が破れでもしたのかと思ったが違う。振動が止まったんだ。
「ごめんなさいクロッ子。黙っててごめんなさい。ヲチ子、多喜二が亡くなった事知ってたのに黙ってた」
それはヲチ子の告白だった。
「ヲチ子もグルでしたの?」
「そうじゃない。多喜二が亡くなった時に亡くなった事を知った。ヲチ子、その時多喜二の腕に付いてた。いつも聞こえる鼓動が消えて、みるみる冷たくなっていって恐ろしくて恐ろしくて」
「それで黙ってらした……?」
「だから怒るならヲチ子を怒って。二人は悪くない。ヲチ子達を納得させようと思ってした事だから」
「じゃあ、やっぱり……」
「多喜二はもういない……」
二人はただ少女のように、あるいはまるで目覚まし時計のように泣きじゃくった。
もう大丈夫なようだ。とりあえず腕時計をその場に置いて茶の間に戻る。父は置き時計を分解掃除していた。
「何で今分解掃除してるんだよ」
「いやぁ、何が何だかわからんけどこれが原因かな、と」
呆れるやら感心するやら。
ふと目が覚める。早朝の透き通った日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。呆れたような驚いたような顔でクロッ子が俺の顔を覗き込んでいた。
ベッドから起き上がり、ひんやりした空気を全身で感じる。ヲチ子はまだ傍らで猫のように丸くなって眠っていた。
「二人ともお早う」
朝の挨拶は欠かせない。それが例え時計相手だとしても話し相手ともなる存在を無視する事はできない。
「本当にお早うございますね!
」
クロッ子がりんりんと目覚まし時計のようにがなり立てる。
「何を怒ってるんだよ……」
ヲチ子はこれでも起きやしない。
「何で目覚まし時計が鳴るよりも早く起きるんですか!? これでは私の存在意義が!」
「そうそう言い忘れてたけど俺の体内時計は妙に正確でさ。秒単位で現在時刻が分かるんだよ」
現在07:31:15だ。
「そ、そんな馬鹿な事があるわけありませんわ! それじゃあ時計いらずじゃないですか!?」
「うん」
「そういうわけにはいきませんわ! 私には多喜二様の代わりに使っていただくという使命があるのですから!」
黙っていた方が良かったようだ。
「じゃあ行ってきます」
「ちょっと待ちなさい! ヲチ子はいい加減に起きなさい!」
喧しい時計を後にして俺は朝の準備を始めた。
最後まで読んで下さってありがとうございます。