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1.蜘蛛男

1.蜘蛛男



妖精の住まう古き森より西に十日ほど離れた、小さな丘の雑木林に、その男は潜んでいた。代々をきこりとして生きてきた彼の家柄は、15年前の山火事で焼失した。それから何年か放浪するうちに、定住は出来ず、妻を囲うことも出来ず、また人間とも相容れなくなったため、林の中を住みかとした。蜘蛛と心を通わせ始めたのは、それから間もない頃である。

心、とはいえ、個体の意思はないに等しい。蜘蛛の行動を規定する原則は子孫繁栄であり、それに基づく食欲と自衛とが、凡そ本能の総てだった。

だがその男は、ある夜、確かに蜘蛛の声を聴いた。始めは小さくか細い呻きは、やがて大きくなり耳だを叩いた。男は訝しんで外に出て、声の聞こえる、家の裏の倒れた古木に目を凝らした。その木は、彼が寝床を拵えたときに材木として使ったものだった。そこには、産まれたばかりの小さな蜘蛛たちが、節の間からぞろぞろと這い出している光景があった。だが彼らは、どこに旅立とうともせず、いたずらに巣穴の近くで固まっているだけである。

彼らは口々に、腹が減ったと訴えていた。

男は、その種に覚えがあった。古来より生きる彼らの最初の食事は、確か、自らの母である。母蜘蛛は子孫繁栄のために自らの体を子どもに託し、食べさせる。子蜘蛛はそれにより、獲物の味を覚える。この蜘蛛らにとって、親殺しこそが自らの生きるべき道の標であり、本能である。


だがどうしたことか。

男は目を凝らしたが、母らしき姿は見えない。

それはそうだ。家を建てるためとはいえ、古木を倒したのだから、その衝撃で母はどこかに行ってしまったに違いない。憐れな子どもらは、本能が故に、何も出来ないまま死んでいく定めである。

憐れ、男は涙した。共に生きる家族と仲間とを早くに亡くした彼は、何をか思って自己を投影し重ね合わせ、深く蜘蛛らに同情した。そうして直ぐに、一切の迷いなく己の小指を切り落とし食事として与えた。すると、本来ならば、見向きもされないだろう肉片を、蜘蛛らは嬉々として咀嚼したのである。


このときより、男は蜘蛛と生きることに決めた。労力のほとんどすべてを彼らの安寧に費やした。空腹のときには獲物を捕らえて与え、陽射しが眩しいとあらば遮り、湿気を求められれば井戸を掘り水を撒いた。蜘蛛たちも夜は男を護るように空に巣を張り、外敵を確認すれば教え、敵為すものと分かれば捕らえて食した。そのようであったから、男と蜘蛛たちは、雑木林の中の主となった。限られた範囲の中で、彼らは絶対的な存在となっていったのである。

あるとき男の下に、一羽の烏が訪ねてきた。男はその烏が、以前知り合った人間の遣いであると知り、蜘蛛を下がらせ話を聞いた。烏が言うことには、逃げろ、の一つに尽きた。お前には手強い相手が、お前の命を狙っている、早く林を棄てて逃げろ、との助言であった。

それは到底、信じられぬ、聞けぬ話である。この林の中では蜘蛛たちは最強なのだ。蜘蛛らが空腹を感じ続ける限り、外敵が捕食対象である限り、彼らを害しうる者などいない。

その旨を伝えると、烏は何事も返さず飛び去った。後ろを振り替えることもなかった。



それから幾日か、月が満ちる夜。驚異が、彼らの林に姿を現せた。

蜘蛛たちは即座に異常を伝えた。報せを受けた男は、ゆっくりと寝床を出、まさかりを担ぎ、悠々と驚異の前に姿を晒した。

刹那。蜘蛛男が見たのは、鮮紅の髪を夜風にたなびかせ、深緑の剣を携える少年の姿だった。その有様は、魁偉としかいいようがない――


捕らえろ、食え。

即座に男は蜘蛛たちに命じた。目前の存在は尋常ならざる問題である。除かねば、確実に害なすに違いはない。

ところが蜘蛛たちは動かない。そわそわとその場に留まっているだけで、一向に攻撃の気配を見せなかった。何度強く呼び掛けても、心を通わせていたかに見えた彼らは、肝心要で不通となってしまった。

それもそのはずである。蜘蛛は子孫繁栄のために食を欲するのであるから、的とする対象と争うことが、空腹を満たさない場合には攻撃なんてしない。増して、争うことにより、自身らが根絶やしにされる可能性が高いならば尚更である。蜘蛛たちがその場から逃げないのは、世話を焼いてくれた男に対する、群体からの報いに違いない。


蜘蛛男でなくなったただの男は、背筋に冷ややかな汗が流れるのを感じた。だがそれでも逃げず踏み留まっているのは、愛しい蜘蛛たちを護るためである。自身が逃れれば、必ず蜘蛛らにも害が及ぶ。そういう予感があったので、男は動けず、一歩、また一歩と近付く少年に背を向けることが出来なかった。

しかしながら、このままでは結果は変わらぬ。不動のまま一刀に伏されるくらいなら、幾らか戦い、蜘蛛らを逃す時間を与えねばならないのだ。

意を決する。手にしたまさかりを振りかぶり、第一歩を踏み込んだところで――少年の剣により両断された。捌かれた魚を想起させるような男の死に様は、それ以上の形容のしようもなく、無様である。血液と臓物を血に垂れながら、男は絶命した。蜘蛛たちはそれを見て一斉に少年へ襲い掛かるが、全て剣戟に凪いで払われ、次々に地面に屍を晒した。最後の一匹が動けなくなるまで、決死の特攻は続けられた。最後の最後で、蜘蛛たちは本能を脱し損得勘定のない行動に身を任せたのだ。

結果は明白だった。少年は魔法使いなのである。統一された意思を持たぬ個体など、いないに等しい。元より一踏みで数十が死ぬ戦いならば、結果は出たも同然だった。



夜明けの陽射しは、一人の男と無数の蜘蛛の死骸とを照らしだした。そこに少年の姿はなかった。


男と蜘蛛とは不運にも、後にエメラルドソードと呼ばれる少年の最初の犠牲者だった。


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