鈴鳴奇談【針千本】
静かな声だった。
「戸を開けてはいけないわ」
白い指を唇に当て、黒い少女は云う。
「一度ひらけば、呪いの効果は消えてしまう」
――に。と、薄い唇の端が上がり、黒々とした瞳が私を見下すのです。
「い、いつまで、こうしたらいいのでしょう」
「少なくとも、朝を迎えるまでは」
「ぴったりと締め切って。
見ても、聞いても――喜んではいけないわ」
隙間風がびゅうびゅうと吹く。
四畳一間の部屋は狭くって、風が吹くと屋根も、壁もがたがた揺れて、それから隙間風が入ってくる。
私はそれがたまらなく嫌で。だって、寒いでしょう、寒いと指が悴んで、針が上手く刺せなくって。あの人が帰ってくる前に仕上げないと、叱られてしまうでしょう。
けれどね、炭を買う余裕もなければ、油を買う暇もなくって――。
家のことは女の仕事。朝の食事、お勤めの支度、掃除、洗濯、夕餉、子はまだですから、後は服を繕ったり、新しい布を都合したり。
私ね、食事はあまり上手く作れもしないけれど、けれど針事だけはそれなりにできますから、母から頂いた漆塗りの裁縫箱と五本の針は、数少ない私の花嫁道具で、仕事道具なんです。
びゅうと風が吹いて、
がたがたと、戸が揺れる。
開かないだろうかと、心が萎む。
『戸を開けてはいけないわ』
あの言葉ばかり、思い出す。
決して開けず、決して開かず、あの襖から朝の光が射した時だけ、開けて宜しい。
一日、一晩、たったの数時間、我慢すれば、いいのだと。
「針を、動かしていれば、」
いつもだって、朝が来るまで夢中で針を動かしているのだし、今日が特別に不思議な日という訳でも、ない。裁縫箱に残り三本の針が入っているのを確認して、少しだけ意気込む。
「あっという間だわ」
母曰く『私達は一生を衣服の世話になっているのです。衣服だけでなく、布団や畳、帽子から、足袋もそうですね。
ですから、それに感謝し丁寧に扱わねばなりません』
物には心が宿ることも、あるのだと聞く。
だからせめて、針も、服も丁寧に縫ってあげたい。私というのはとんだぐずだけれど、それくらいは出来るのだから。
母が若い頃、その頃は未だ和装をすることが多く、余計に針仕事が多かったのだと云う。
おくるみに、おむつ、着流し、足袋――その全てに針仕事が必要で、だから母の針を動かす手は早く正確だった。
母の横に座って、若い母の姿を思い返す。
日の当たる縁側、痛んだ母の手、裁縫箱は半分開いていて、その中に残り三本の針。広げられた着流しの横に、こんにゃくの載った皿が置いてあって――それに、一本の針が刺さっている。それがある日は決まってこんにゃくとふろふき大根が出る。
あの人は嫌っているけれど、私は、好きだ。
「あれは――なんだったのかしら」
あの、こんにゃくに刺さった、針、
『柔らかいものに刺すのです』
微かに記憶した、母の言葉。
――ちりん
遠くで、音が鳴る、
何の、音かしら。
未だ、戸の隙間は暗く。風もない。
母は、ははが、
「嗚呼、いやだわ」
考え事をしていたからか、ようやくその時、針が一本足らないのだと気が付いた。母から頂いた針は確かに五本あったのに――。この場には四本しか、
「ヲイ」
戸の向こう、声がした。
「あなた、」
丁度良かった。
針が、母の大切な針が見当たらないの。
けれど先ずは急いで、立ち上がって、お出迎えをしなくては。叱られてしまう。
今日は、帰ってきてくれたのだもの。私、何事も上手く出来ないけれど、少しばかり服を繕ったから、一寸はお給金が貰えると思うの。
これで、少しは――。
「おかえりなさい」
女が戸を開けると、そこで男が死んでいた。
頭には針、手には針が、足には針を、胴にも針が無数に刺さる。その数およそ――千本。
女はその中から、折れた針を見つけると、ほっと胸をなで下ろして
「あははははは!」
そう笑った。




