1.
ふと、小さい頃に両親に連れられて行った古臭い雑貨屋を思い出した。初めて行った、自分の村とは違う華々しい王都だというのに、未だ鮮明に記憶に残るのはそんな雑貨屋にあったマリオネットただひとつ。見ようによっては不気味にも思えるそれは、幼い自分の目にはあの街に生きる誰よりも活き活きとしていたように見えた。
太陽はまだ登りきってない。朝露に濡れた落ち葉で滑ってしまわぬように、しっかりと歩を進める。
目が覚めてまずやることといったら井戸の水を汲んで家まで運ぶことだけだ。比較的早くに起きなければ、小さな歩幅で歩く姿は人々に滑稽だと思われるかもしれない。いや、実際のところは知らないが。
膝に着いた土を払い、目的地である井戸まで着く。力いっぱいに縄を引きながら、今日は何をしようかと考える。朝早くに起きるものの、家の仕事はだいたい両親のものなので、基本的に自分はやることがない。この狭く人口の少ない村では、できることは随分と限られてしまう。
太陽はまだ低い。
起きてきた、すれ違う村人たちと挨拶を交わす。誰もが自分を名前で呼び、こちらの返事を待ってくれる。この村において自分は浮いていない。むしろ、きちんと地面に立っている。
丘の上で昼を迎えるころ、森の匂いが変わった。甘く、湿り、鉄のように重い。空が音もなく歪み、境目が剥がれる。
現れた「ソレ」は、かろうじて服装で女だということはわかったが、人の形をしていなかった。肢の本数も配置も定まらず、外側は揺れる膜に包まれている。複数の眼が、それぞれ違う速度で開閉し、村全体を測るように動いていた。それが一歩進むたび、村は削られた。
村の端にあった家の壁が、内側から削り取られるように消えた。木材が砕ける音もなく、ただ存在していた量だけが失われる。屋根が落ちる前に、支えていた柱がなくなり、形を保てなくなった家が、遅れて潰れた。
畑の土が沈む。
耕した跡ごと、畝の形を保ったまま、下へ引きずり込まれていく。作物は引き抜かれることなく、途中で途切れ、切断面を晒した。
人の声が聞こえた。
悲鳴の途中で、音が欠ける。叫びが終わる前に、声を出していた喉そのものが無くなったように、唐突に途切れる。
誰かの名前を呼ぼうとする。
口は開く。息も出る。
だが、音にならない。声帯が震える前に、言葉が失われている。
恐怖よりも先に、理解が遅れている。何が起きているのかを、頭が追いつけていない。
光が溢れた。視界が白く塗りつぶされ、次に瞬きをしたとき、すべてが終わっていた。
村は無かった。
いや、正確には、在った痕跡だけが残っている。焼け焦げた柱、崩れた石、土に混じった灰。さっきまで誰かが立っていた場所に、人はいない。耳鳴りだけが続き、世界が遠くにある。
歩こうとして、瓦礫につまずいた。
前のめりに転び、反射的に手をつく。
掌に、細い糸が絡みついた。透明で、冷たい。肌に触れているはずなのに、感触だけが一瞬遅れて伝わる。
引くと、森の奥から、かすかな抵抗が返ってきた。
周囲を見渡す。知っている家の位置、井戸の場所、丘への道。配置は合っているのに、意味が欠けている。声をかける相手がいない。返事が来ないという事実だけが、遅れて胸に落ちてくる。
気づけば、空が暗くなっていた。いつの間に、夕方を越えたのか分からない。身体は疲れていないのに、意識だけが重い。
気がつくと、横になっていた。
なぜ寝ているのか、分からなかった。どこに横になったのかも、はっきりしない。地面は硬く、背中に小石が当たっている。空を見上げると、星が出ている。
混乱が遅れてやってくる。寝る理由がない。家がない。それでも、目を閉じていた時間があるという事実だけが残っている。
身体を起こす。夜の冷えが、皮膚の表面だけを撫でる。村のあった場所は暗く、静かで、あまりにも整っている。まるで、最初から何も無かった場所のようだ。
夢を見た記憶が、かすかに残っている。王都の雑貨屋。歪なマリオネットが、棚の上で揺れていた。糸は天井からではなく、自分の胸から伸びている。
立ち上がると、足元で糸が森の方向へ張った。引かれているわけではない。ただ、向きが決まっている。
(……朝になったら、探そう)
そう思ったが、なぜか朝というものが、もう来ないような気がした。
夜の森が、かすかに脈打つ。村人たちの声は思い出せる。名前も、笑い方も。それなのに、今ここに必要なのは弔いではない、と理解している。
確かめる必要がある。あれが何で、自分がなぜ残り、なぜ糸が切れていないのか。
理由が分からないまま眠り、目覚めているこの状況そのものが、すでに答えに近い気がした。だから、森へ向かう。灰を踏み、夜を渡り、糸の先へ。




