Episode 028: 静かなるパンデミック
廉価ポーション開発の成功から数日が経った朝、グライフブルクの診療所には珍しく穏やかな空気が流れていた。医療関連ギルドとの政治闘争の話で頭を悩ませることもなく、ケンタは久しぶりに純粋な医療に集中できる時間を味わっていた。
「健太様、今日の患者様の予約表です」
フローラが差し出した羊皮紙を見ながら、ケンタは軽く頷いた。いつものように、朝から数名の患者が診療を求めて待っている。
「ありがとう、フローラ。今日は忙しくなりそうだな」
診療所の奥からアウレオルスが現れ、三人で朝の準備を始めた。薬草の整理、ポーションの在庫確認、診療器具の点検。日常の作業に没頭していると、先の廉価ポーション騒動で味わった政治的な重圧が嘘のように感じられる。
「ケンタ殿、特許料の件で薬屋ギルドからの連絡が入っております」
「後で確認する。まずは目の前の患者を診てからだ」
最初の患者は中年の男性で、後頭部の軽い擦過傷。簡単な触診と問診で、創部を消毒し、適切なポーションを処方した。次の患者は若い女性で、肩こりの相談。こちらも日常的な症状で、特に心配はない。
しかし、三人目の患者が入ってきた時、ケンタの表情が少し変わった。
「先生、最近咳が止まらないんです」
四十代の職人風の男性が、乾いた咳を何度かした。熱を測ってみると、わずかに高い。37.5度といったところか。
「いつ頃からですか?」
「三日前くらいから。最初は軽かったんですが、段々ひどくなってきて」
ケンタは胸の音を聞き、のどを確認した。特に異常は見当たらないが、何か引っかかるものを感じる。
「とりあえず、安静にしてしっかり水分と滋養のあるものを摂ってください。解熱作用のある薬草を処方しておきます。三日後にもう一度来てください」
患者を送り出した後、ケンタは考え込んだ。続いて来た患者も、似たような症状を訴えていた。乾いた咳、微熱、軽い倦怠感。
「風邪の季節だからかな」
口では言ったものの、何か違和感を覚えていた。現状をもう少し詳しく把握すべきかもしれない。
(でも、これまで大きな疫病なんて経験したことないし、きっと大丈夫だろう)
ケンタの楽観的な性格が、事態の深刻さを軽視してしまっていた。
午後、ケンタとフローラは下層街に向かった。朝の患者たちがみな下層街に近い住居に住む平民だったからだ。
「健太様、何か気になることでも?」
「ちょっと確認したいことがあるんだ」
歩いて10分ほどで、ケンタはもう息が上がり始めていた。
「はぁ、はぁ...最近運動不足だな」
「健太様、大丈夫ですか?」フローラが心配そうに声をかける。
石畳の道を歩きながら、ケンタは周囲を観察した。下層街は相変わらず活気に満ちているが、よく見ると咳をしている人が目立つ。道端には物乞いの姿もあり、彼らもまた激しく咳き込んでいた。
「すみません、最近体調を崩されている方が多いようですが」
路地裏で荷物を運んでいた日雇い労働者に声をかけると、男は警戒心を露わにした。
「なんだ、あんた。医者ってか?金持ちの旦那方は、こんなとこに用はないだろう」
男は痰を吐き捨てながら、疑わしそうにケンタを見上げた。
「いえ、ただ心配で」
「心配?はっ、今更何を言ってやがる。俺らが病気になったって、どうせ誰も構いやしねえ」
「廉価版ポーションというものを最近作ったんですよ。通常の五分の一の価格で」
ケンタが説明しようとすると、男の表情が少し和らいだ。
「あんた、あの噂の医者か。確かに聞いたことがある。でも、どうせ俺らには関係ねえ話だろ」
「いえ、もし本当に疫病が広がっているなら、誰もが治療を受けられるようにしたいんです」
男は半信半疑の表情を浮かべながらも、症状について詳しく話し始めた。
「三日前から咳が止まらねえ。熱もある。でも仕事休んだら、その日の飯も食えねえからな」
男は激しく咳き込んだ。
フローラが聞き取りをメモする間、ケンタは街の様子を見回した。路地裏の共同井戸の周りに人が集まっており、多くが咳をしている。住環境の劣悪さと病気の広がりには関連がありそうだった。
そんな二人の様子を、遠くから密かに見つめる影があった。
レオノーラ・フォン・ブリュッヒャーは、辺境伯直属の女騎士として、この外来医師の動向を監視する任務を帯びていた。
「辺境伯様からの命で監視しているが、この医師は何を調べているのか」
建物の影に身を隠しながら、ケンタの行動を観察する。最初は単純な任務だった。辺境伯様から『最近入ってきた外来者の動向を調べてくれ』と命じられただけ。
「ただの薬師にしては行動が突飛すぎる。何かを企んでいるのだろうか」
しかし、実際に目の当たりにしたケンタの行動は、レオノーラの予想とは異なっていた。住民に丁寧に聞き取り調査を行う様子を見ながら、彼女は眉をひそめた。
「怪しい行動には見えない。むしろ、真摯に住民の健康を気遣っているように見える」
レオノーラは困惑した。辺境伯様の言葉からは、もっと疑わしい人物を想像していた。
「よく分からないな。もう少し様子を見てみよう」
ケンタの調査を少し離れた場所で見守っていたレオノーラは、首をかしげた。住民への聞き取りは丁寧だが、時々方向音痴なのか、同じ路地を何度も通っているのを見かけた。
「あの人、真面目なのはわかるけど、少し抜けているところもあるのね」
レオノーラは小さくつぶやきながら、継続して観察することにした。任務への真面目な取り組みが、彼女の特徴だった。
夕方、診療所に戻った三人は、奥の部屋で調査結果をまとめていた。
「間違いない。呼吸器感染症の可能性が高い」
ケンタは羊皮紙に症状をまとめながら言った。
「パターンが通常の風邪とは違う。感染者の分布も特定の地域に集中している」
アウレオルスが資料を整理しながら意見を述べる。
「既存のポーションでは流行り病は効果が薄い。新しいアプローチが必要かもしれません」
「私も下層の住民の方々から詳しくお話を伺いましたが、皆さん似たような症状を訴えていらっしゃいます」
フローラが聞き取りの結果を報告した。
「まずは詳しい症状の記録と、感染経路の特定が必要ですね」
窓の外では、レオノーラが会話を盗み聞きしようとしていたが、内容までは聞き取れない。ただ、真剣な話し合いが行われていることだけは分かった。
「明日から本格的な疫学調査を開始する」
ケンタの決意の言葉が部屋に響いた。
深夜、一日の調査と会議で疲労困憊のケンタは、肩こりと頭痛を訴えていた。
「健太様、最近お疲れのご様子で...」
フローラが心配そうに声をかける。
「ああ、ちょっと気になることがあってな」
ケンタは肩を回しながら答えた。
「入浴されませんか?背中を流してさしあげます」
フローラの提案に、ケンタは少し驚いた。
「いや、それは...」
「いつも皆のために頑張ってくださって。せめて疲れを癒やしてさしあげたいんです」
フローラの真摯な申し出に、ケンタは心の奥で温かいものが広がるのを感じた。この世界に来てから、いつも独りで闘っているような気持ちだったが、フローラの存在がどれだけ大きな支えになっているかを改めて実感した。
浴室で、フローラがケンタの背中を丁寧に洗った。温かい湯と彼女の優しい手つきに、ケンタは理性と本能の間で揺れ動いた。
「こんな時に邪なことを考えるなんて...でも、フローラの手が...」
彼女の素直な愛情に心を動かされながら、ケンタは自分の中に湧き上がる男としての欲望を押し隠そうとした。しかし、彼女の優しい手つきが、ケンタの理性を少しずつ溶かしていく。
「健太様、いつも皆のために頑張ってくださって。お慕いしています。」
フローラの素朴な愛情表現に、ケンタの心は温かくなった。この世界での疲労やストレスが、彼女の一言で沈めていくようだった。
「フローラ、ありがとう。君がいてくれるから頑張れるんだ」
二人の絆の深さを確認した夜だった。ケンタにとってフローラは、この異世界での頑張りを支えるかけがえのない存在であることを、改めて実感した。
同じ頃、辺境伯邸の一室で、レオノーラは一日の監視結果を整理していた。
「ミッテルフェルト殿は下層街で何らかの調査を実施。医療関連と思われるが詳細不明」
羊皮紙に報告書を記しながら、レオノーラは今日の観察を振り返った。ただの医師にしては行動が組織的だが、悪意は感じられない。むしろ、住民のことを真剣に心配しているように見えた。
「辺境伯様の警戒ももっともだが、この人の行動は...」
ペンを止め、レオノーラは思考を整理しようとした。客観的な報告書を書かなければいけないのに、不思議と主観的な印象が混じってしまう。
「明日も監視を続けよう。もっと詳しく観察すれば、何か分かるかもしれない」
レオノーラは決意を新たにした。任務に対する真面目な姿勢と、彼女の心に芽生え始めた小さな疑問が、今後の観察の方向性を決めていた。
その時、窓の外から微かに咳の音が聞こえた。どこか遠くから、いくつもの咳が重なって響いている。
まるで、静かなる悪夢の前触れのように。
どうも、ケンタです。
今回は、新たな疫病の発生という最悪の事態に直面しました。せっかく廉価ポーションで医療格差の解消に成功したと思ったのに、今度は感染症ですか……。
誰かに監視されている気がしますが、フローラが一緒にいてくれるから心強いです。あの甘い時間は、正直ドキドキしました。え?お楽しみ?できるわけないじゃないですか。こう見えてヘタレですから。
それよりこの疫病、絶対に解決してみせます。次回は、原因の究明に本格的に取り組みます。
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