エピソード2 病弱な村娘と医療の現実
しばらくは連日連載する予定です。
朝焼けが村の茅葺き屋根を淡く染め上げ、遠くの森からは鳥のさえずりが聞こえてくる。村はまだ静寂に包まれており、朝露に濡れた草木が、微かな風に揺れていた。その中で、村長の家の窓から外を眺める一人の男がいた。田中健太、30歳。彼は自分がどこにいて、なぜここにいるのかを、ようやく理解し始めていた。
「まさか、本当に異世界転移……か。ラノベでよくあるやつだな。昨日の今日で、こんな状況に陥るとは。しかも、パジャマに歯ブラシ片手に異世界で一夜を明かす羽目になるとは、誰が想像しただろうか」
健太は独りごちた。昨夜の出来事を思い出し、思わず身を震わせる。空腹と寒さ、そして野犬の遠吠えに怯えながら過ごした夜は、まさに地獄だった。しかし、そのおかげで、自分が本当に「異世界」にいるのだと、嫌でも自覚させられた。
村長に案内され、健太が目にしたのは、痩せ細った一人の娘だった。フローラと名乗るその少女は、ベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返していた。その姿は痛々しかった。顔色は土気色で、唇はひび割れ、見るからに衰弱している。腕や足には、原因不明の発疹が広がり、熱で体が熱くなっていた。
「これは……ひどいな。重度の脱水症状に栄養失調。それに、この発疹は……」
健太は思わず息を呑んだ。現代医療の知識が警鐘を鳴らす。このままでは、命に関わる。
「まずは清潔な水と、栄養が必要だ。点滴ができれば一番だが、そんなものはない。経口補水液と、消化の良いものを少しずつ……」
健太は、現代医療の知識を総動員して治療法を考える。しかし、この村には、点滴も、まともな栄養剤もない。あるのは、薬草と、祈祷師の祈りだけ。
「まさか、ここまでとは……」
健太は、この村の医療レベルの低さに愕然とした。衛生概念も乏しく、感染症が蔓延しやすい環境だ。これでは、ちょっとした病気でも容易に命を落としかねない。
健太は村長に、塩と砂糖、そして清潔な水を用意するように身振り手振りで頼んだ。村長は訝しげな顔をしたが、健太の真剣な眼差しに、言われた通りに準備を始めた。健太は、うろ覚えの知識を頼りに、それらを混ぜ合わせ、煮沸した。簡易的な経口補水液が完成した。彼はそれをフローラの口元に運び、一口ずつ慎重に飲ませた。フローラは弱々しくそれを受け入れた。フローラは苦しそうに顔を歪めたが、健太は根気強く飲ませ続けた。
数日後、村長の娘フローラの容態は、奇跡的に回復に向かっていた。熱は下がり、顔色も少しずつ良くなってきた。健太が簡易的な経口補水液を飲ませていると、フローラがかすれた声で何かを呟いた。
「……フローラ」
健太は驚いて聞き返した。
「フローラ? それが、君の名前かい?」
フローラは小さく頷き、はにかんだように微笑んだ。その笑顔は、病に苦しんでいた数日前とは見違えるほどだった。
「ケンタ。僕の名前はケンタだ」
健太は指をさして自分の名前を繰り返した。
「ケンタ……」
今度は、健太の自称を真似て、フローラが彼の名前を呼んだ。健太は嬉しくなり、思わずフローラの頭を優しく撫でた。フローラは驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。その小さな仕草が、健太の心を温めた。
フローラは健太の言葉をゆっくりと繰り返した。健太は、この機会を逃すまいと、身振り手振りを交えながら、フローラから簡単な異世界語の単語を学び始めた。フローラもまた、健太の熱意に応えるように、知っている限りの言葉を教えてくれた。その一つ一つが、健太にとっては希望の光だった。
「フローラ、ここは、なんていう村なんだい?」
健太は、村の名前を尋ねてみた。
「ノイシュタルト村、だよ」
フローラは、たどたどしいながらも、はっきりと答えた。
「ノイシュタルト村……。なるほど、ドイツ語っぽい響きだな。ファンタジー世界ではよくあるパターンだ」
健太は、その響きを心の中で繰り返した。言葉が通じる喜びは、想像以上に大きかった。
「水、食べ物、ありがとう、大丈夫」
健太は根気強くフローラの言葉に耳を傾け、フローラの発語の意味を理解できるように努めた。フローラもまた、真摯に健太に異世界語の単語を教え、健太はそれを懸命に覚えていった。二人の間には、言葉の壁を越えた、温かい交流が生まれ始めていた。
「ケンタ、ありがとう。私、だいぶよくなったよ」
フローラがはにかみながら言うと、健太は優しく微笑んだ。
「フローラが自分で乗り越えたんだよ。がんばったね」
健太の言葉に、フローラは嬉しそうに目を輝かせた。
「ケンタは、本当に不思議な人だね。私を助けてくれて、まるで、神様みたいだよ」
「神様なんて、とんでもない。僕はただの医者だよ」
健太は照れくさそうに頭を掻いた。フローラの純粋な言葉が、彼の心に深く響いた。
「私も、いつかケンタみたいに、困っている人を助けられるようになりたいな」
フローラの真っ直ぐな瞳に、健太は決意を新たにした。この村の医療を、少しでも良くしたい。自分なりにできることをやってみようか。フローラの笑顔が、彼の原動力となっていた。
健太は、フローラの澄んだ瞳に見つめられるたび、胸の奥が温かくなるのを感じていた。フローラもまた、健太の真剣な眼差しに、頬を染めることが増えた。二人の間には、淡い恋心が芽生え始めていた。それは、異世界での過酷な現実の中、互いを支え合う小さな光となった。
1月ほど経っただろうか。村にも少しずつ慣れ、日常会話もカタコトながら、ある程度通じるようになってきた。健太は、村長に改めて挨拶に訪れた。
「村長さん、お忙しいところ申し訳ありません。少し、お話が……」
「おお、ミッテルフェルト様。何か困りごとでも?」
村長は健太を気遣うように言った。健太は、少し緊張しながらも、これまでの経緯を話し始めた。
「実は、僕は遠い異国から来た医者でして……娘さんの経過観察も必要ですし、僕自身がこの世界の常識には疎いものですから、もしよろしければ、もう少しこの村に滞在させていただきたいのですが……」
健太の言葉に、村長は大きく頷いた。
「ミッテルフェルト様は、あなた様は娘の恩人です。どうぞ、ごゆっくり滞在なさってください」
村長の温かい言葉に、健太は安堵した。フローラの治療成功は、村長からの信頼を確固たるものにしたのだ。
フローラの治療が一段落した後、健太は再び現実世界に戻ることを試みた。ゲートをくぐり、見慣れた日本の鳥居の前に立った時、彼は安堵のため息をついた。しかし、その安堵も束の間、2時間後には再び異世界へと強制的に転移させられた。この現象は、何度試しても同じだった。現実世界で2時間過ごすと、自動的に異世界に戻される。この「2時間ルール」は、彼の異世界での生活を大きく左右する重要な制約となるだろう。
「よし、これで検証完了だ。異世界に持ち込めるものは『手に持てるものだけ(触っているだけのものは不可)』か。つまり、リュックサックは無理で、手提げカバンならOKということか。これは結構重要な制約だな。漫画やラノベを持ち込み放題というわけにはいかない。それでも、自分の生活の質を担保するくらいならできそうだ。医療器具も、厳選して持ち込めば……」
健太は大きく安堵した。しかし、その安堵の裏で、彼はまだ気づいていなかった。この異世界での生活が、彼の想像をはるかに超える過酷な現実を突きつけることになることを。そして、彼がこの世界で出会う人々が、彼の人生を大きく変えることになることを。
気になる異性がいると、言語の習得は早いらしいです。
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