エピソード1 異世界への漂流
しばらくは連日連載する予定です。
広大な森の奥深く、木々の間から差し込む陽光が、まだ湿り気を帯びた地面に斑模様を描いていた。鳥のさえずりが響き渡り、遠くで獣の鳴き声が聞こえる。どこまでも続く緑の海の中、ぽつりと開けた空間に、古びた石造りの神殿がひっそりと佇んでいた。湿った土の匂いが鼻腔をくすぐり、遠くからは聞き慣れない鳥の鳴き声が響く。足元には見たことのない植物が茂り、頭上には巨大な木々が天を覆い尽くすようにそびえ立っていた。まるで絵本の中の世界に迷い込んだかのような、しかし同時に現実離れした異様な光景に、田中健太はただ呆然と立ち尽くしていた。
「……は? なんで俺、こんなところにいるんだ?」
田中健太は、自分の状況が理解できず、思わず独り言を漏らした。数時間前まで、彼は日本の病院で脳外科医として働いていたはずだ。徹夜明けの疲労感はあったものの、まさかこんな場所にいるとは夢にも思わなかった。それが今、見慣れない森の真ん中にいる。
「確か、当直明けのテンションで帰り道に小道を散策に出て、偶然見つけた古びた鳥居をくぐったら……」
記憶を辿るが、その先が曖昧だ。視界が歪み、全身を奇妙な浮遊感が襲ったことだけは覚えている。目を開けたら、この森の中だった。
「疲れているのかな。幻覚でも見てるのか?」
健太は、目の前にそびえる異国風の神殿と、その隣に立つ奇妙なゲートを見つめた。ゲートは、まるで空間そのものが歪んだかのように、黒い靄を纏い、その奥には漆黒の闇が広がっていた。吸い込まれるような不気味さに、一瞬躊躇する。しかし、この非現実的な状況から逃れたい一心で、彼は意を決してゲートをくぐった。目を閉じ、次に目を開けた時、そこは日本の自宅近くにある、見慣れた古びた鳥居の前だった。アスファルトの匂い、遠くで聞こえる車の音、そして見慣れたコンビニの看板。全てが現実に戻ったことを告げていた。
「ふう、やっぱり疲れているんだな。あんな夢を見るなんて」
安堵のため息をつき、自宅まで直帰する。途中、健太は空腹を満たすためにコンビニへと向かった。久しぶりの日本の食事に舌鼓を打ち、風呂に入り、歯磨きをしていた、その時だった。突然、視界が歪み、体が宙に浮くような感覚に襲われた。まるで胃の腑がひっくり返るような、強烈な浮遊感。次の瞬間、健太は異世界の森の中、あのゲートの前に立っていた。冷たい夜風がパジャマの薄い生地を通り抜け、肌を粟立たせる。手には、先ほどまで使っていた歯ブラシと歯磨き粉が握られている。その現実離れした光景に、彼はただ呆然と立ち尽くした。
「は……? なんで……? またここに戻ってきてる!?」
呆然とする健太の頭に、一つの恐ろしい可能性がよぎった。現実世界で過ごした時間を計算する。コンビニで夕食を買い、食べて、風呂に入り、歯磨きをするまで、およそ2時間。
「まさか……転移? しかも、数時間で強制的に戻されるってことか? いやいや、そんなゲームみたいな設定、あるわけないだろ!」
オタクな知識が頭をよぎるが、現実離れしすぎていて信じられない。彼はもう一度ゲートを通ろうとしたが、何も起きない。何度試しても、ゲートは沈黙したままだ。
「嘘だろ……。一度こっちに来たら、戻れないってことか? まさか、永久に……?」
絶望的な推測が、健太の心を支配した。パジャマ姿に歯ブラシと歯磨き粉を握りしめたまま、健太は見知らぬゲートの近くで一夜を過ごすことになった。
夜の森は、想像以上に恐ろしかった。漆黒の闇が全てを覆い尽くし、木々のざわめきがまるで獣の唸り声のように聞こえる。不安が胃を締め付け、心臓が不規則なリズムで脈打つ。遠くで聞こえる獣の鳴き声は、野犬や狼のような獰猛な生き物が潜んでいるのではないかという恐怖を煽った。現代社会の安全に慣れきった健太にとって、この剥き出しの自然はあまりにも過酷だった。パジャマ姿に歯ブラシと歯磨き粉という、あまりにも無力な装備。医者としての知識も、現代の文明も、この状況では何の役にも立たない。冷静でいようと努めるが、理不尽な状況に直面し、感情が揺さぶられる。インドア派の代表ともいえる健太には、パジャマで歯ブラシと歯磨き粉を武器に見知らぬ森でサバイバルはレベルが高すぎる。こんな装備では大丈夫ではない。無理ゲーだ。
「俺、どうなっちゃうんだよ……。このまま野垂れ死ぬのか? いや、そんなの冗談じゃない! 俺はまだ、やるべきエロゲーがたくさんあるんだ!」
震える体で、健太は異国風の神殿の奥へと身を潜めた。冷たい石の床に座り込み、夜が明けるのをただひたすら待った。
翌朝、ようやく夜が明け、森に朝の光が差し込んだ。健太は、ゲートから続く細い道を辿っていくことにした。どれくらい歩いただろうか、木々が徐々にまばらになり、隙間から煮炊きの煙が見える。人里のようだ。どっと安堵する。
「やった! 人がいる!」
小走りで里にたどり着き、入口にいる村人に話しかける。健太は、英語、スペイン語、ドイツ語と、知っている限りの言語で話しかけたが、村人は首を傾げるばかりで、全く言葉が通じない。彼らの服装は、まるで中世ヨーロッパの絵画から抜け出してきたかのように古風で、健太の知るどの文化とも異なっていた。周囲を見渡せば、見慣れない植物、見たことのない鳥、そして遠くに見える巨大な山脈。そして、何よりも言葉が通じないという決定的な事実。健太の頭の中で、一つの恐ろしい仮説が形を成していく。もしかして、これって……異世界転移……? オタクな知識から導き出された答えに、健太は驚愕する。しかし、そう考えると、これまでの不可解な現象が全て説明できる。マジかよ……。俺、本当に異世界に来ちゃったのか……
健太はなんとか身振りで敵意がないことをアピールした。村人たちは健太の言葉を理解できないようだったが、彼の困惑した様子を見て、一人の村人が手招きをした。村長らしきその村人は、丁寧に健太になにかしら話しかけた。
「私は旅の医者だ、やましいものはない」
健太も必死に身振りと日本語で訴える。その時、ふと、健太の脳裏に一つのアイデアが閃いた。異世界にいるのだから、いっそ新しい名前を名乗ってみてはどうだろう? 現実世界のしがらみから解放され、新たな人生を歩む。そんな思いが、彼の心をよぎった。ドイツ語で「田中、真ん中の畑」を意味する「ミッテルフェルト」という響きが、気に入っていた。医者として、患者の命を救うという使命感は変わらない。だが、この世界では、もっと自由に、もっと理想的な医療を追求できるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、彼は自分の名前をドイツ語風にもじって、「ケンタ・ミッテルフェルト」と名乗ることにした。
村長はハッとして急に態度を変え、頭を低くしだした。健太を村の奥へと誘導し、今度は必死な形相で何かを訴え始めた。言葉は通じないものの、その切羽詰まった様子から、何か重大な問題が起きていることは理解できた。
「あいわかった。」健太はさも重々しく頷いた。とりあえず、話を聞く姿勢を見せることが重要だと考えた。
案内されると、そこには痩せた娘が臥床していた。娘の顔色は土気色で、唇はひび割れ、見るからに衰弱している。元気であればさぞ美しい娘であったろう。呼吸は浅く、かすかな呻き声が漏れる。健太は、目の前の光景に息を呑んだ。これは、ヤバい状態だ。放置すれば命に関わる。医者としての本能が、彼を突き動かした。この世界に転移してきた意味があるとするならば、それは目の前の命を救うことではないのか。現実世界ではほとんど諦めていた、理不尽に苦しんでいる患者を救うという理想。今、目の前にまさに、まだ生を謳歌すべきなのに、死に瀕している娘がいるのだ。
「これは……放っておけない。俺にできることがあるはずだ!」
実は村長は、健太に姓があるのを聞いて、貴族のお忍びだと解釈していた。もちろん、健太はその辺の事情はよくわかっていない。
健太は、この異世界で、医者として、そして一人の人間として、どう生きていくのか。そして、目の前の病弱な娘を救うことができるのか。次話にご期待ください!
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