騎士団長の謝罪
フィルナ・キントバージェ。彼女を話題に出したから、というわけではないが、例のウタヒメ騒動の当事者と顔を合わせることになったのは、その日の午後の話である。
インヴィディア王国の城に到着した私は、エルンテ騎士団との合同軍事訓練に参加するため、城内の訓練場に向かった。そこで、自分が受け持つ竜騎士たちと傭兵部隊の人数、訓練内容などを確認していると、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「アルトリーゼ公爵!」
確認していた書類から顔を上げると、例のウィル騎士団長が駆け寄ってくるのが見えた。
大方、謝罪でもしに来たのだろうが、その表情は妙に浮かれていて、足取りも弾むように軽い。
(暢気な男だな)
すると、ウィルの顔からさっと血の気が引いた。
どうやら、先ほどの感想が口から出ていたようだ。
私は特に気にするわけでもなく男に向き直り、訊ねた。
「私に何か用だろうか」
ウィルは一瞬ぎくっと身体を強張らせたが、すぐに姿勢を正して真剣な顔をして言った。
「このたびの不祥事につきましては、多大なご心配をおかけしたことを――」
「あなたの心配などしていない。迷惑だっただけだ」
ウィルははっとしたように慌てて謝罪した。
私の隣に並んでいたラインが密かにため息をついた。
「た、多大なるご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした! 私が至らぬばかりに、あなたの大切な婚約者を奪うような真似をしてしまい、お詫びしようもございません」
そう言ってウィルは沈痛な表情で謝罪した。
私が何かを言う前に、ラインが前に進み出た。
「アウデンティア公国領主であるヘリアス様の婚約者を略奪しておいて、このような場所で謝罪するなど、騎士団長ともあろうお方がずいぶんと無礼ではありませんか」
ラインが指摘した通り、ここは竜騎士の訓練場である。
この男は、雇われた傭兵や市民が自由に出入りする場所で、書類上は間違いなく私の婚約者――まともな婚約生活を行ってはいないが――だったリスティーを略奪したことへの謝罪を済ませようとしているのだ。
非常識にも程がある。本来ならアウデンティア公国にまで赴いて謝罪すべきことだ。
今更そのことに気づいたらしいウィルは、さらに顔を真っ青にして、額の汗を拭った。
「も、申し訳ない! そんなつもりはなかったんだ!」
「もういい、謝罪は受けた。話はこれで終わりだ」
私の領地に踏み入られても面倒だ。そういう意味で、今回だけは不問にしようと思っていたのに、ウィルは首を横に振った。
「待ってくれ、後日改めてアウデンティア公国に向かう。その時はリスティーも連れていく」
「必要ない」
「彼女は今体調不良でね。今回の討伐戦で、ウタヒメの力を覚醒させた反動だろう。可哀想なことをした」
ウィルは聞いてもいないことをべらべらと、切なげな顔をして語り始めた。
「彼女の体調が戻り次第、一緒に謝罪を――」
「必要ないと言った」
私が厳しくはねつけると、ウィルはようやく口をつぐんだ。
「あなた方の、謝罪と言う名の自己満足に付き合うほど暇ではない」
「なっ!? 自己満足などではない! これは俺の誠意だ!」
「ほう」
誠意という言葉を持ち出したウィルに、私は少しだけ興味が湧いた。
「では問おう。フィルナ・キントバージェ嬢には誠意をもって謝罪したのか?」
「え?」
「夫の帰りを健気に待っていた彼女は、新しい女を連れて戻ってきた夫に突然離婚を突きつけられて、さらに財産である火の竜まで奪われたのだぞ」
「それは!」
ウィルは反論するように一瞬声を荒げたが、怒りを鎮めるように深く息を吸いこんだ。
一応、自分が謝罪する立場であることを思い出したらしい。
彼は私の視線から逃れるように目をそらし、気まずそうな顔をして言った。
「彼女には、このような結果になってしまったことを心から謝罪しました。しかし……フィルナは俺のエアルをわざと興奮させ、エアルを奪うようにして実家に戻りました。短い間だったとはいえ、あれが夫に対する態度か!? 本当はあの時、リスティーを襲わせようとしていたのかもしれない! フィルナは卑劣な女だ、実の妹にあんな残酷なことをするなんて!」
段々と語気が荒くなり、ウィルは怒りに顔を紅潮させた。
(この男は何が言いたいのだ? フィルナ・キントバージェが卑劣な真似をしたから、自分の行いは悪くないと訴えているのか?)
わかっていたことだが、この男、謝罪とは上辺だけで、自分の行いを正当化したいだけである。
堂々と姦淫の掟を破って夫人を追い出した男の言う「誠意」とは何なのか。
聞きたくもないウィルの愚痴がつづく。
「せっかくこの俺が、その腕を見込んで補助竜医師として雇ってやると言ったのに、彼女はその提案を拒否した! 俺は今からキントバージェ家に抗議を――」
「しかし、竜は帰ってきたのだろう」
「え? あ、ああ」
ウィルは勢いを失くして、うなずいた。
その場の感情だけでものを言う男は、先ほどの自分の発言の意味をよく理解していないようだった。わざわざ説明してやる義理もないのだが、この男の自己満足に付き合わされたことへのささやかな意趣返しだ。
「竜は基本的に自分の主人を守ろうとする。火の竜があなたを主人と認めているのなら、あなたの指示を聞いたはずだ」
「そ、それは……!」
「しかし実際は、あなたの竜は夫人を守るためにあなたに反抗し、夫人を送り届けた。竜騎士の家の者なら、あなたの話を聞いてこう解釈するだろう。『誇り高き火の竜は、騎士団長殿を主人と認めていない』とな。これ以上恥の上塗りをしないためにも、抗議せずに黙っているのが得策だ」
「ぐっ!」
ウィルは悔しげに唸りながら、私の視線から逃れるようにうつむいた。
私は「失礼する」と一言告げて、怒りに震えている男に背を向けた。
◇◇◇
「ああ、お可哀想に」
ラインが竜舎の扉を押し開きながら言った。
「震えるほど悔しがっておられましたよ」
「夫人への言い分が不快だったのでな」
「ええ、本当におぞましい」
ラインの声は笑っている。咎めるつもりはない。お互い性格が悪いからだ。
竜舎に足を踏み入れると、むっと嗅ぎ慣れた獣の臭いがした。さらにその奥、ひと際大きな竜房には、大きな身体を小さく丸めて眠っている火の竜がいる。
太く頑丈な鉄格子の隙間から様子を窺い、隣に並び立った補助竜医師に訊ねる。
「ドゥルキスの調子はどうだ」
「はい、健康状態に問題はありません……が、今日も食べませんね」
「そうか」
竜房の中には、成人男性ひとりがすっぽりと入れそうなほど大きな餌桶が置いてあり、その中に肉や野菜などが山盛りに盛られているが、まったく口をつけていないようだ。
「二日前から食欲にムラがありますね」
と、ラインが困ったようにドゥルキスを見つめて言った。
食材を変え、調理法を変え、竜房の環境を整えてストレスを与えないように手を尽くしてはいるが、依然として食欲は戻らない。
その原因を取り除かなければ、このまま衰弱してしまうだろう。
(どうするべきか……)
私の脳内にはすでに、とある人物の名が浮かんでいた。
「フィルナ・キントバージェ嬢は優れた竜医師だそうだな?」
私が彼女の名を口にすると、ラインは少し驚いた顔をした。
「まあ、そういう噂です。気品ある美しい令嬢で、竜医師としてその界隈では有名だとか。しかも、彼女が最初に育てた火の竜は、リアン王に献上されたという実績もありますよ」
「ふむ……とはいえ、竜医師の資格を持つ令嬢の腕前など、たかが知れている、か」
「自分から聞いておいて」
ラインはあきれたように笑って、「まあ、そうですね」とうなずいた。
「彼女たちは基本的に書類上でしか竜の状態を判断しませんし、ほとんど補助竜医師に丸投げですからねぇ」
ラインのこの考えは、現在の竜騎士界における常識である。
元婚約者はまさにこのタイプの令嬢で、「竜舎は服が汚れるし臭いから」と決して近づかず、掃除も食事の世話も補助竜医師に任せきりだった。
そして、補助竜医師たちの報告を受けても、彼女は「私だって忙しいんだから、それくらい自分で適当に対処しなさいよ。でも、もし竜に何かあったら、あなたが責任をとって死になさいよ!」とすべての責任を押しつけていた。
(フィルナ・キントバージェはリスティーの実の姉だ。さて、この判断はどう転ぶか……)
私はしばらく黙考し、決断した。
「フィルナ・キントバージェを呼べ」
え? とラインが目を丸くした。
「キントバージェ家の令嬢を、招待するのですか?」
「そう言った」
「使用人たちが荒れますよ? リスティー様の傍若無人な振る舞いに彼らは毎日苦しめられてきたんですから」
「ドゥルキスをこのままにはしておけない。呼べ」
「……かしこまりました」
ラインはそれ以上食い下がることもなく、竜舎から去っていった。私が意見を変えないと、長い付き合いで理解しているのだろう。
私はフィルナという竜医師を信じたわけではない。
期待しているのは、火属性の竜を扱ったその経験と知識だ。
「その腕、試させてもらおう。フィルナ・キントバージェ」