公爵様の理想の相手
リスティーがウタヒメとして覚醒し、その日の内にエルンテ騎士団の騎士団長、ウィル・フィーニスと結婚した。
それを日の出と共に聞かされた私、ヘリアス・アルトリーゼは、肩の荷が下りた気持ちでペンをとり、婚約破棄を承諾する書類にサインした。
ウタヒメとは、竜を使役することができたと言われる謎の種族で、キントバージェ家はその末裔である、と教会が認めている。
とはいえ、何百年という時間の中で血は薄まり、すでに失われた能力のはずだった。
ただ今回の件は、「先祖返りとしてその能力が発現した」ということらしい。
一度ペンを置くと、それを見計らって、湯気を立てるティーカップが置かれた。顔を上げると、こちらを気遣うように微笑む侍従の左目と目が合った。下品にならない程度にセットされた無造作な黒髪が、しっかりと右目を覆い隠している。
「お疲れですね、ヘリアス様。貴婦人たちを虜にする赤髪の美男子が台無しです」
「うるさい」
侍従の軽口を雑にあしらいながら、教会から寄越された書類にさっと目を通す。
ウタヒメという存在は竜の力を解放し、戦力を高める存在のため、国外に流出する前に竜騎士との婚姻が推奨される。王もそれを危惧して、この結婚を了承せざるを得なかったということか。
「なるほど、ウタヒメとは考えたな」
私は椅子に深く腰かけながら、「元」婚約者の行動に対し、嘲るような笑みを浮かべていた。
騎士団長殿とリスティーが、私に隠れて逢瀬を重ねていたことは把握している。
だが、彼女はウタヒメに認定されて、イーリス教会の保護対象となった。
そうなると、「ウタヒメに認定される以前の姦淫の罪」は、貴重なウタヒメの存在の方が優先され、罰せられることはない。
それに関してはどうでもいいが……と、私は今後のことを考えて、ため息をついた。
「どちらにしろ、面倒なことになった」
リスティー・キントバージェ。家柄と竜医師の資格を持つという理由で選んだ婚約者は、アルトリーゼ家の平穏を引っ掻き回してくれた。
リスティーは婚約者という立場ではあったが、すでにアルトリーゼ家の城に押しかけて、女主人のように振る舞っていた。
竜騎士の家では珍しくない光景のため、そのことについて私が口出しすることはなかったが、竜騎士の家の女主人ともなれば、竜を優先するのは当然のことだ。
しかし、リスティーは常に自分優先でなければ気が済まず、竜相手に激しく嫉妬した。
「なぜ私を愛してくれないの!? 私じゃなくて竜が好きなの!?」
と散々泣き喚き、誰もが自分を愛し、仕事すら放棄して優先されるべきだと信じて疑わなかった。
私はその態度に辟易していたし、婚約が決まっても、私は彼女に指一本すら触れなかった。
事情を知らない貴族の男たちは、「絶世の美姫が王の剣のものになった」と嘆き、恨みにも似た羨望の眼差しを向けてきた。「安心しろ、触れてすらいない」と笑ってやりたかった。
リスティーの癇癪と周囲の声にうんざりしていた私に追い討ちをかけたのが、彼女の竜の歌だ。
竜の歌とは、「竜たちを癒し、時には彼らの士気を高めるための歌」だが、リスティーは頑なに、竜のために歌おうとはしなかった。
理由は単純で、竜に近づけばドレスが汚れるからだ。
「汚い、臭い」と文句を言って竜舎には一切近づかず、竜の世話はすべて補助竜医師に任せて、夫人たちに披露するための竜の歌をせっせと磨いていた。
竜騎士の家の竜医師が竜を忌避し、竜のために歌わないなどと前代未聞である。
私は一度、「その歌は誰のための歌なのか理解しているのか?」と訊ねたことがある。リスティーは顔を真っ赤にして、「私はいつだって竜のために努力をしているのに! あなたはいつだって私を責めるのね!?」と泣き喚くので、宥めるのに苦労した。
ここ一ヶ月ほどの苦痛の日々がよみがえり、かすかな疲労感と、婚約破棄という開放感にほっと息をつく。
すると、この件を報告してきた侍従が言った。
「婚約破棄になりましたが、どうされます」
金色の瞳が物騒に細められる。家名に傷痕を残された報復を? と問われている。
「王がお許しになった。どうもしない」
どうもしないが、しかし、領主である自分が独り身になるのは厄介だ。
五年前のとある事件があってから、私と結婚したいと望む令嬢は限られているが、それでもこの地位を狙う令嬢や貴族は存在する。そういう者たちに限って、元婚約者並みに厄介な性質を持っているだろうが。
私の心情を察してか、侍従が苦笑し、「うーん」と頭を悩ませている。
「ヘリアス様の理想を叶える未婚の令嬢となると、また難易度が高いですね」
「竜を優先し、私のドゥルキスを任せられる一流の竜医師でなければ結婚しない」
「そんな令嬢がどこにいるのですか?」
「それを探すのがお前の仕事だ」
「無茶振りですよ」
侍従が困ったような顔で笑う。実際困っているだろうが、こちらとしても妥協できない。
竜騎士の妻は、夫の不在時に竜に乗り、兵を指揮することもある。
そのため、貴族の令嬢は竜医師の資格を持つことが必須となるが、近頃は軽く勉強をしただけで、結婚後は全て補助竜医師に任せるという令嬢も増えているそうだ。リスティーはその典型だろう。
「嘆かわしいことだな」とつぶやく。
「それほど平和になったということでは?」
「はっ、五年前のことを忘れたか。暢気なものだ」
リスティーのように竜を貶し、蔑ろにするような令嬢を娶るくらいなら、いない方がマシだ。だが、そうも言っていられない。
(なるべく希望に合う女性がいるといいが……)
そこでふと、ある噂を思い出した。あのキントバージェ家にはもうひとり娘がいて、それが腕の良い竜医師だと聞いたことがある。
「ライン」
「はい」
侍従のラインが返事をして、姿勢を正す。
「キントバージェ家に竜医師の娘がもうひとりいるのか?」
「ああ、それは、元フィーニス夫人のことですね。可哀想に、結婚して早々に離縁を言い渡され、実家に戻ったそうですよ」
「そうか、彼女が……名は何と言った?」
「フィルナ・キントバージェです」