私の愛しいエアル
祝福と別れを告げて、私は奥にある厩舎の方へ駆け出した。
ちょっとした移動のためにと、竜騎士の家でも馬は飼っている。馬車はいらないから、その内の一頭を借りて帰ろうと思った。
「待て、フィルナ!」
ウィル様が喚きながら私の後を追ってくる。なぜ放っておいてくれないのだろう。
「わかっているのか! 誰もお前を愛さないし、お前のような女を妻になんてしないぞ! どうせ行き場を失ってここに戻ってくるんだ!!」
無防備な背中に、ウィル様の言葉がザクザクと突き刺さる。
私は立ち止まらないように必死に走った。
(誰も私を愛さなくていい! もう、放っておいて!!)
私の感情が高ぶったのと同時に、背後にある竜舎の方でドンッと何かが破裂するような音がした。私は反射的に振り返っていた。
竜舎の屋根が吹き飛び、そこから一頭の竜が飛び出したのが見えた。
炎が揺らめいている。そう見えたのは、頭部に生えた立派な二本の角だ。背後にある月の光が、鋭い爪と牙の輪郭を浮かび上がらせる。
地上最強の名に相応しい威風を漂わせたその生物は、赤い瞳を爛々と輝かせて、ぎろっとウィル様をにらんだ。
この竜舎で、最も大きな体躯に、燃えるような赤い身体をしている竜は一頭しかいない。
「エアル……!?」
コウモリに似た翼をバサリと羽ばたかせたエアルに、ウィル様は悲鳴を上げて、その場に尻餅を着いた。
エアルは興奮した様子で、滞空しながら何度か雄叫びを上げる。
(ウィル様の怒鳴り声に反応して、興奮しているんだわ!)
討伐戦帰りというのもあって、まだ戦闘状態が抜け切っていないのかもしれない。
ウィル様はエアルを警戒しながらゆっくりと立ち上がり、刺激しないように慎重に声をかけた。
「お、落ち着けエアル……さあ、ゆっくり降りてこい」
エアルはウィル様に反抗するように「ギャア!」と短く叫び返し、ウィル様は「ひい!?」と情けない悲鳴を上げて後退りした。
竜騎士の命令を聞かない竜に対抗する術は限られる。神聖な竜を攻撃するのは教会の許可がいるため、鎮静薬を撒くか、麻酔銃で眠らせるか、または他の竜の力を借りて竜舎へと誘導するしかない。
(最上級竜であるエアルを止められる竜なんてここにはいない。竜笛を吹いて、こっちに意識を向けさせないと!)
私は首にかけていた、細い筒状の笛を咥えようとした。
そこへ、リスティーが慌てた様子で、使用人たちを連れて姿を現した。
「ウィル! 何があったの? どうしてエアルが飛んでいるの!?」
「よくわからないが興奮しているんだ! きみのウタヒメの力で落ち着かせてくれ!」
「え?」
リスティーは何故か視線を泳がせた。そして歯切れ悪く、「えっと、やってみるわね」と答えて、すうっと空気を吸いこんだ。夜空に美しい竜の歌が響き渡る。
けれど、エアルは煩わしいとばかりに、その歌声を叫び声でさえぎってしまった。
「きゃあ!?」
エアルから激しい敵意を向けられたリスティーは、両手で頭を庇うようにしてその場に蹲ってしまった。
私は竜笛を持ったまま、エアルの状態を慎重に観察した。
(ウタヒメの歌が効かなかった? どうして?)
エアルは興奮状態にあり、主人であるウィル様にもウタヒメにも従わない。けれど、人間に攻撃を加える様子はない。どこか冷静だった。
すると、エアルは突然高度を下げて私の前に降り立った。頭を下げて、無防備に背中を見せる。大きな丸い瞳が、じっと私を見つめていた。
乗って、という合図だ。
私はほとんど反射的に、エアルの背中に飛び乗った。頭絡もなければ手綱もない不安定な状態だけど、こんなことは子供の頃から慣れっこだ。
左腕でしっかりとエアルの首にしがみつき、右手で鞄を持ち直す。
「いいよ、エアル」
ささやくと、エアルは勢いよく空へと舞い上がった。ふわりとした浮遊感に、ちょっとした命の危機と、冒険へと旅立つような高揚を覚える。私はどこへだって行けるのだと、そう思わせてくれる。
「あ……フィルナ!?」
呆然としていたウィル様が我に返った。
「待て、待て待て待て! それは俺の竜だぞ! 戻ってこい、エアル!!」
エアルは主人であるウィル様の命令を無視して、どんどん高度を上げた。
ウィル様たちの姿は豆粒のように小さく遠ざかり、必死な声も聞こえなくなる。聞こえるのは、風を切る音だけ。
暗く沈んだ緑豊かな大地と薄い雲。まぶしい星空。慣れ親しんだ落ち着く場所。
赤い鱗に覆われた温かい肌をそっとなでる。
「連れ出してくれてありがとう、エアル。うるさくしちゃってごめんね」
「バフッ」
エアルが鼻を鳴らした。
気にしないで、と言っているようで、その優しさにはらはらと涙がこぼれ落ちた。
「ねえ、エアル、あのね……ごめんね……」
言いたいことはたくさんあったはずなのに、気づけば謝罪ばかりを繰り返している。
あなたをあの家に残して、私は立ち去ってしまうのだと。
それでもエアルは私を振り落としたりはしないし、罵りもしない。時折、私を慰めるように喉を鳴らす。
賢いエアルは別れを察して、うんと甘えようとしている。ぼろぼろと涙がこぼれる。
「可愛い、可愛いエアル……私のエアル! ああ、嫌だ、どうしてっ」
寂しくて、悔しくて、私はエアルの首にすがりつきながら嗚咽を漏らしていた。
ウィル様に裏切られた。リスティーに奪われた。そして、エアルも奪われていく。
皓皓と輝く月に見守られながら、邪魔の入らない空の上で、私は声を上げて泣いた。
◇◇◇
泣き疲れ、しばらく眠っていたらしい。すっかり頬の涙が乾き切った頃、私は見覚えのある丘の上にいた。といっても、まだエアルの背中の上にいるのだけど。
この丘は、エアルの飛行練習のために使っていた場所だ。
この近くにある村に、キントバージェ家の屋敷がある。
私は少し怠さを感じる身体を滑らせて、地面に降り立った。足裏がまだ浮遊感を覚えていて変な感じ。
重い鞄を地面に置いて、じっと私を見つめているエアルの頭を抱きしめた。
「可愛い子」
額をそっとなでると、エアルは気持ち良さそうに目を閉じる。
さっきまで散々泣いていたのに、また涙が浮かんでくる。
空が紺色から黄金色に変化していくのを見て、いよいよ別れの時だと、私はそっと身体を離した。
名残惜しそうに見つめるエアルに、折角固めた決意が容易く崩れそうになる。鼻をすすり、首を横に振る。
「さあ、ウィル様の元に戻って。大丈夫、みんなあなたを大切にしてくれるから」
大丈夫、大丈夫。エアルだけじゃなくて、自分自身にも言い聞かせるようにつぶやいて、私は笑顔を貼りつけた。
強がっていることくらい、エアルにもバレていると思うけど。
「さあ、飛んで」
エアルは巨大な翼を広げて、ふわりと空へ舞い上がった。
しばらくそのまま滞空していたかと思うと、こちらを見下ろして、「キュウ……」と寂しげに鳴いた。ぴくりと、私の右腕が動く。
(だめ!!)
私は左手で右手首をつかんで、痕がつくくらいにぎりしめた。
本当は行かせたくない。だけど、私がエアルを奪取したことで、エアルまで罪を背負って処分を受けるなんて許せない。
私はエアルを見上げて、大きくうなずいた。
「エアル、私なら大丈夫。どうか幸せに生きて。ずっと、ずっと大好きよ」
「キュウ……」
「さあ、帰りなさい」
エアルは大きく鳴いて、それから何度か振り返りながら、飛び去っていった。
その姿が、地平線から顔を出した太陽と重なって見えなくなった頃、私の唇からぽつりと本音がこぼれ落ちた。
「嫌だ……行かないで……」
両膝からがくりと崩れ落ち、地面にすがりつくようにして咽び泣く。にぎりしめた草から滴る朝露の輝きが、残酷なまでに美しかった。
こうして、憧れの結婚生活は呆気なく終わりを告げて、私は愛しい竜を失った。




