様子がおかしい
「そういえば」とラインが、今思い出したという体で切り出した。
「近頃の奥様、何だか雰囲気が柔らかくなりましたね。ヘリアス様と一緒にいる時は特に」
「……そうか」
書類の上を滑るペンが一瞬止まった。それを悟られないように素早く、何事もなかったかのようにサインをする。
しかし、長年そばにいた侍従を騙せるはずもなく、ラインは机の前にあるソファーに腰掛けたまま「おや」とわざとらしい声を上げた。
「奥様の話題が出るだけで、ずいぶんと嬉しそうになさる。何かありましたか?」
からかう調子なのは気に食わないが、それでも反論する気にならないのは、自分でも驚くほどに機嫌がいいからだろう。
フィルナの前で何度も醜態を晒してしまったのは恥でしかないが、それでも夜空の下で笑い合ったあの記憶を消し去りたいとまでは思わない。
抱きしめてくれた時の体温の心地良さ。恥ずかしそうに震えていた華奢な身体。竜医師としての経験と努力が刻まれた細い指。
フィルナを形作るすべてが美しかった。
「何かあったといえば、そうだな」
「何です、もったいぶらないで教えてくださいよ」
「告白した」
「はい? え? ヘリアス様が? いつ!?」
「ドゥルキスの上で。ずっと一緒にいられたらいいと、そう告げた」
ラインは愕然として、それから急に真面目な顔になって、
「契約結婚云々の話はどうなったんです。撤回したのですか?」
「……していない」
その瞬間、ラインが「はぁぁぁぁ……」とあまりにも深いため息をついたので、さすがにむっとする。
「何だその態度は」
「何だ、ですって? ヘリアス様、僭越ながら申し上げます。あなたの気持ちは何ひとつ伝わっておりませんよ」
「伝わっていないだと?」
「当たり前でしょう? どうして突然ポンコツになるんです?」
「誰がポンコツだ」
ラインは無視してつづけた。
「奥様は以前、離縁を言い渡され、心に深い傷を負っておられるのですよ。新しい恋には慎重になるはずです。そして、契約結婚した相手に『ずっと一緒にいたい』と――」
「違う。ずっと一緒にいられたらいい、だ」
「どっちでもいいんですよ! いいですか? 契約結婚を撤回していない状態でそんなことを言われても、奥様は言葉通りに受け止めるべきか悩まれるはずです」
「それは、そうだな……」
「つまり、ヘリアス様の気持ちは、正しく伝わっていない!」
「何だと!?」
自分としては一世一代の告白をしたつもりだった。思えばあの時、契約結婚であることをなぜ意識しなかったのだろう。
恋に浮かれて肝心なことを伝え忘れるとは、あまりにも情けなくて頭を抱えたくなる。
体調不良など言い訳にもならない。完全に自分の落ち度である。
額を覆ってため息をつく私の落ちこみように、さすがのラインも同情的な声で言った。
「きちんと契約関係を解除して、もう一度告白すれば、奥様だってわかってくれますよ」
「そう、だな。うん、誠心誠意伝えよう」
励ましを素直に受け取ると、ラインは少し目を見開いてから、ふっと口元を綻ばせた。
「俺としては、あなたが恋を自覚していることに驚きましたけど」
「お前の中の私は子供か?」
「いいえ。でも、竜の乗り方を教えたのは俺ですから、いつまでも小さな弟のように思えて……」
ラインは懐かしむように目を細めた。私はペンを置き、真っ直ぐにラインを見つめる。失われた彼の右目を、私は今でもしっかりと思い出せる。
「私も、お前を兄のように思っている」
「そう思うのなら、もっと兄を労わってくださいよ」
茶化された。ラインなりに照れているのだろう。
ラインは、私が心から信頼できる存在だと断言できる。
五年前の戦いでも、ラインは身を挺して私を守り、その右目と右耳を失った。この命があるのは、ラインのおかげだった。
優しさと気恥ずかしさが入り交じるこの空気の中に、控えめなノック音が響いた。
入るように声をかける。扉の向こうから顔を覗かせたのはフィルナだった。
ブルネットの髪が揺れて、理知的な青い瞳が私を見る。たったそれだけで、私の心臓が存在を主張し始める。
ここまで感情を揺り動かされる経験は初めてで、厄介だと思いつつも、厭わしいとまでは思わなかった。
私は椅子から立ち上がり、フィルナを出迎えた。
「おはよう」
「おはようございます」
朝の挨拶と共に綻ぶ笑顔。密かな楽しみであったはずのそれが、なぜかよそよそしい。
どうした? と訊ねる前に、竜たちの報告書を差し出され、思わず受け取ってしまった。
「特に大きな問題もありませんでした。詳細は報告書をご覧ください」
「そうか、ありがとう」
今日の彼女は何かおかしい。
いつも通りに見えるが、その顔はわずかに強張っていて、目も合わない。
あまりに事務的で淡々とした報告に、私は困惑して、思考が遅れてしまった。
「それでは失礼いたします」
その声にはっと我に返る。彼女は何かから逃れるように、足早に扉に向かっていた。
「待ってくれ」
一拍遅れた制止の言葉は、バタンッと閉じる扉の音にかき消された。
伸ばした手をそのままに、ちらっとラインに視線を向けると、私と同じく困惑した顔をして、私を見た。
「避けられていませんか?」
ガンッと頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じ、全身から力が抜けた。後ろに倒れかかった身体は、運良く椅子に受け止められる。
言葉は時として暴力となる。私は身をもって知った。




