紹介しよう
ヘリアス様と一緒にドゥルキスの背に乗ったあの夜以降、ヘリアス様はずいぶんと落ち着いたらしく、体調も戻ってきた。
とても喜ばしいことだ。なのに、あの夜の出来事を思い出すたび、私は嬉しさと恥ずかしさで叫び出しそうになる。
今でも気を抜くと、あの時の体温とにおいを思い出して、ちょっとした混乱状態に陥ってしまう。
(わ、私、何を考えてるの!?)
頭を切り替えるために、ぱしんっと両手で頬を叩く。
今は竜の世話をしている最中だ。
(私の不注意で竜に何かあれば、竜と竜騎士のどちらにも迷惑がかかってしまう)
気合いを入れ直し、私は竜房の掃除にとりかかった。
柄の長いフォーク状の掃除道具を手にとり、排泄物で湿った藁などを交換し、竜房内を掃除する。補助竜医師たちと協力すれば、すべての竜房の掃除はあっという間に終わってしまった。
作業中は余計なことを考えないで済むけど、作業を終えると、そのちょっとした時間にヘリアス様のことを考えてしまう。
『あなたとずっと、一緒にいられたらいい』
汚れた手袋を脱ぎながら、ヘリアス様の言葉を反芻する。
すると、獣のにおいに包まれた作業場が、あの夜の星空に塗り替えられていく。
嬉しいのに切なくなるあの瞬間を、私は飽きることなく繰り返していた。
(あの言葉は、竜医師としての私に向けられた信頼。そうよね?)
胸の奥が期待するようにうずくので、私は何度も、何度も自分に言い聞かせる。
(だって、ヘリアス様は最初に言ったもの。愛を期待するな、と)
浮かれる自分の心に爪を立てるように現実を突きつければ、しゅんっと空気が抜けるように心が萎んでいく。
感情の浮き沈みが極端で、疲労が日に日に蓄積されていく気がする。
一体私はどうしてしまったのだろう。
「恋をしているみたいですね」
「へえ!?」
誰かに心を言い当てられて、私は思わず叫んでしまった。私の声に驚いたのか、背後で補助竜医師たちの悲鳴が上がる。
お互いに振り返り、一拍置いて、補助竜医師のひとりが困惑した表情で訊ねた。
「あの、いかがなさいましたか?」
「あ、いえ! 何でもないんです! 驚かせてすみません、誰かの恋愛話をしているのかと思って!」
慌てて誤魔化すと、補助竜医師たちは顔を見合わせて笑った。
「ああ、違います、竜たちのことを話していたんですよ」
「そ、そうですよね! はは……」
あまりに恥ずかしくて居た堪れない気持ちになり、私は顔の熱を冷ますために竜舎の外へ飛び出した。
自分がなぜ、彼らの会話にあれほど過剰に反応してしまったのか。私は自覚してしまった。
「恋を? 私が?」
違う、と反射的に否定しようとした私を止めたのは、優しく細められたエメラルド色の瞳であり、私の人差し指に押し当てられた唇の感触だった。
「うそ……」
心臓がドキドキして、ふわふわと足元から浮かび上がってしまいそうな、そんな高揚感を覚える。
感情が入り乱れ、その場から動けなくなった私のそばを、もこもことした白い塊が通り過ぎていった。
羊だ。
慌てて周囲を見回す。放牧場とは反対の方向にある丘の方に来てしまったらしく、周囲は羊だらけだ。
すると、丘の上から羊たちが次々と駆け下りてきた。
「この慌てよう……丘の上に竜が来たのかしら?」
私は草を踏みしめ、丘の上まで駆け上がる。
この丘周辺は羊がいるため、竜を散歩させることはない。誰かが迷いこんだのかもしれない。
そろりと身を屈めながら丘の上の様子を窺うと、緑色の体表を持つ竜の頭が見えた。風属性の竜だ。
風に乗って、誰かの話し声が聞こえてくる。それが意外にも和やかな雰囲気だったので、私の警戒は少しずつ薄れていく。
「この声は、ヘリアス様?」
声の主に気づいた私はそっと身を乗り出し、そこに広がる光景に絶句した。
ヘリアス様は、見知らぬ女性と話していた。
長い金髪を後ろで三つ編みにした、陶器の人形のように美しい女性。その横顔からは、貴族特有の高貴さが漂っている。
その女性と向かい合うヘリアス様は、見たことがないほど穏やかな様子だった。
語り合うふたりの姿が絵画のように美しく、私は眩暈を覚えた。
話題が一区切りしたのか、ヘリアス様の視線がこちらに向いて、少し見開かれた。
「フィルナ? ああ、丁度いい、こちらへ」
「は、はい」
ヘリアス様に手招きされた私は、重い足を引きずるようにして、ふたりに歩み寄った。
その女性は、見れば見るほど美しい人だった。
その姿に、ウィル様が連れて帰ってきたリスティーの姿が重なって見えて、背筋にすぅっと冷たい恐怖が流れる。
ヘリアス様は、そんな私の状態に気づいた様子もなく、「紹介しよう」と彼女に視線を向けた。
(嫌だ、聞きたくない。お願い……っ)
記憶の中のウィル様の声が、耳の奥でこだまする。「俺はリスティーと結婚する」とリスティーに捧げた甘い声が。
今すぐ耳を塞いでしまいたい。そんな衝動を、コートをにぎりしめることで必死に耐えた。
ヘリアス様が口を開いた。
「母方の従姉のオリビアだ」
「い、従姉?」
緊張で張りつめた糸がプツリと切れて、私を苛んでいた幻聴が遠ざかる。風の音が戻ってきた。




