あなたのウタヒメとお幸せに
必要なものだけを鞄に詰めこんで、急いで屋敷の外に出る。
擦れ違った使用人が私の様子を見て怪訝そうな顔をしたけれど、呼び止められるようなことはなかった。一週間ぶりに帰還した主人と、その客人をもてなすのに忙しいらしい。
どこへ行くのかと説明を求められても上手く答えられる気がしないので、今はその方が気が楽だった。
玄関から外に出て、私は急いで竜舎の方へと向かった。
「エアル……!」
私の一番大切な赤い竜。春の生まれの好奇心旺盛な女の子。
五年間、ずっと一緒にいた私の家族。
せめて最後に、あの子に触れたい。
そう思い竜舎に近づいた私は、竜舎の扉の前で佇む人影に気づいてはっと息を飲んだ。思わず足を止める。
「やはりここに来たか」
そこには、険しい顔をしたウィル様が立っていた。
その隣に並ぶ補助竜医師の青年が、困惑した様子で私とウィル様の顔を交互に見ている。
「悪いが、きみとエアルを会わせるわけにはいかない。きみに連れて帰られては困るからな。わかっていると思うが、エアルは俺のものだぞ」
「わかっています。ですが、ひと目だけでも会わせてください。すぐに出ていきますから」
「だめだ。馬車は出してやるから、ここには近づくな」
ウィル様は冷たく私の要求をはねつけた。扉の前から退く様子もない。
ずいぶんと信用がないんですね、と言い返せる気力もなかった。
(この扉の向こうにエアルがいるのに、もう会えないの?)
胸が押し潰されたように息苦しくて、あえぐように口から呼吸をした。エアル、と呼ぶ声さえ掠れて音にならない。
私は、開くことのない扉を無言で見つめながら、心の中で何度も「ごめんね」と謝りつづけた。
(エアル……これからも無事でありますように。あなたが幸せでありますように)
私は最後に祈りを捧げてから、心配そうにこちらを見つめる補助竜医師に向き直った。
「どうか、エアルたちを、よろしくお願いします」
私がここを去ることを理解した補助竜医師は瞠目し、それから真剣な顔をして、「お任せください」とうなずいた。
この人がいれば安心だ。きっと竜たちを大切にしてくれる。
これが本当に最後だと思うと、今までこらえていた涙がぽろっとこぼれ落ちてしまった。
(しまった!)
慌てて袖で拭ったけど、ウィル様に見られてしまったかもしれない。
こんな弱った姿、この人にだけは見られたくなかったのに。
「フィルナ、泣いているのか?」
ウィル様は目を丸くして、哀れむような、同情するような顔をして近づいてきた。私はその態度に嫌悪感を覚えて、後退りする。
「そうか、やはりきみはまだ俺を愛しているんだね。すまない……その想いには応えられないが、この家の補助竜医師になることを考え直してはくれないか? きみもエアルと離れたくないだろう?」
「な……」
かっと頭の奥が熱くなって、悔しさのあまり涙がこみ上げてきた。
この人は、どれだけ私の心を踏みにじれば気が済むのだろう。
私の捨てた恋心を気まぐれに拾い上げては踏み潰し、エアルを人質にして私を揺さぶる。
私は唇を噛みしめ、きっとウィル様をにらんだ。
「私はあなたが嫌いです」
「え? は?」
「だから、あなたから何を言われようとも、この心が揺れることはありません。短い間でしたがお世話になりました」
ウィル様は面食らった様子で、私を凝視した。
そんなはずはない、と言いたげな態度に、私はあえて語気を強めて言った。
「では、私はこれで……どうぞ、あなたのウタヒメとお幸せに」