小さなわがまま
手燭の小さな明かりを頼りに、竜舎の扉をそっと押し開く。
竜舎内は完全な暗闇というわけではなく、壁に取りつけられた夜光石のおかげで浅瀬の海のように淡く照らされている。
この夜光石は竜の角を加工した石で、照明代わりに使用されている。竜の角は生え替わる回数も少なく貴重なため、実際に使用されているのは竜舎や貴族の家などに限られていた。
ヘリアス様は慣れた足取りで、ドゥルキスの竜房の前に立った。
ドゥルキスは眠たそうに頭をもたげ、じっとヘリアス様を見つめている。「無事でよかった」と思っているかもしれないし、「しっかりしろ」と励ましているのかもしれない。
しばらく無言でドゥルキスと見つめ合っていたヘリアス様は、満足したように私の隣に戻ってきた。
「なぜここに?」
そう問いかけるヘリアス様の顔色はあまり良くないけれど、気分は落ち着いているようだった。
「私は、竜騎士や竜を慰める歌も、言葉もかけられません。でも、相棒であるドゥルキスなら、ヘリアス様の心を慰めることができると思いましたから」
「そうか。あなたの判断は正しかったな」
ヘリアス様の顔に薄らと笑顔が戻る。
(いい気分転換になったみたい)
このまま部屋に戻って、もう一度休んでもらった方がいいかもしれない。
でも、ヘリアス様はまだ帰る気になれないらしく、何か言いたげに私を見つめている。
「どうしました?」と訊ねると、彼は躊躇いがちに口を開いた。
「フィルナ」
「はい」
「あなたの竪琴が聴きたい」
ささやかな願いに、私は頬を緩ませる。
「喜んで」
そう答えて、私は綺麗な藁の上に布を敷いて、ヘリアス様と一緒に並んで座った。
ふたりでドゥルキスを見つめながら、私は竪琴の弦を弾いた。ドゥルキスは興味を失ったように横になっている。
薄暗い竜舎の中で、竜たちの寝息と調和するように、ゆったりとした竜の歌が響く。
「思い出したことがある」
ぽつりと、ヘリアス様がつぶやいた。
私は控えめに音色を奏でながら、ヘリアス様の声に耳を傾ける。
「父が……私に竪琴を教えてくれたことがあった。下手くそな演奏を『さすが私の息子だ』と褒めてくれた」
「きっと、お父様も嬉しかったのでしょうね」
「嬉しい? そうだろうか。あの時はまだ、そう思ってくれたのかもしれないな」
ヘリアス様は半信半疑といった様子だったけど、否定はしなかった。
「こんなこと、今の今まで忘れていた。いや、忘れようと必死だったのかもしれない」
「また聞かせてください。憎い相手だったとしても、大切だと思った過去すべてを否定する必要はないと思います」
「うん」
少し幼さを感じさせる声に、竪琴の音色が重なる。
「不思議だ。あなたと話していると、あんなにも憎くて仕方がない父のことを、なぜか口にしてしまう。できてしまう。許すつもりなどないというのに……」
それ以上は言葉にならず、宝石のような瞳からぽつりとしずくがこぼれ落ちた。その美しさに、はっと息を飲む。震える唇が、「フィルナ」と呼んだ。
私は衝動的に、ヘリアス様の頭をそっと抱きしめていた。ヘリアス様の両腕が、すがるように背中に回る。
「フィルナ」
「はい、ここに」
「フィルナ、フィルナ……」
何度も呼ばれて、何度も返事をした。
ヘリアス様は強い人だ。困難を乗り越える力を持っていて、決して歩みを止めない人。
でも本当は、ずっとひとりで傷を抱えて苦しんでいた。ついには限界を迎え、自らを奮い立たせるための勇気も底を尽きてしまった。
私は、ヘリアス様のために何ができるだろう。
すがるように丸められた大きな背中が、過去に取り残された幼子のように見えて、私はその背を優しくなでた。
しばらくして、ヘリアス様がそっと身体を離した。その顔に涙の気配はなく、その名残で目に血の色を浮かべているだけだった。
「情けない姿を見せてしまったな」
「ヘリアス様が情けないなんて思ったことはありません。だってヘリアス様はいつだって、私の心を救ってくださいましたから」
「本当か?」
私の左手が大きな手に包まれて、ドキッと心臓が脈打った。
「情けない竜騎士と思われていないか?」
「そんなこと、思っていません」
重なった手に落としていた視線をぱっと上げると、目の前にヘリアス様の顔があった。少し身を乗り出せば、鼻先が触れ合う距離の近さに、心臓がばくばくと暴れ出す。
ヘリアス様は「ああ、よかった」と熱っぽい吐息を吐いて、嬉しそうに目を細めた。そんな顔をされたら、期待してしまう。
(何を? 何を期待するの?)
湧き上がる喜びを阻むように、背筋に何か冷たいものが這い上がってくる。恐怖が、それ以上考えるな、と私に警告している。
「他人にどう評価されようがどうでもいいが……あなたにだけは、失望されなくてよかった」
ヘリアス様は私の左手を顔の高さまで持ち上げると、人差し指に軽く唇を押し当てた。
その柔らかさに、頭の中が真っ白に染まった。彼の吐息の熱さが移って、全身の熱が上がる。
「震えている。私が怖いか?」
「ちがっ、その、ヘリアス様は怖くありません! これは緊張です!」
誤解を解きたくて全力で否定すると、ヘリアス様は安心したようにふっと微笑んだ。
緊張して気づかなかったけど、私に触れるヘリアス様の手も、かすかに震えていた。
「ヘリアス様も、震えています」
「そうだ。あなたと同じだ。緊張しているのかもしれない」
どうして? 声にならなかった問いかけを、ヘリアス様は察したらしく、少し困ったような顔をした。
何事もはっきりと口にするヘリアス様には珍しい表情だった。
「フィルナ。もう少しだけ、私のわがままに付き合ってくれるか?」
私への返答の代わりに、ヘリアス様はささやかな「わがまま」を口にした。




