さようなら
「え?」
ウィル様は目を丸くして、一拍置いてから「それは困る!」と顔色を変えて立ち上がった。
「きみはさっき、うちの竜医師になることを了承してくれたじゃないか! 勝手に実家に戻られたら困るよ!」
「了承した覚えはありません。それに、あなたは自分勝手に私との結婚を破棄した。そんな相手の元に滞在できるはずがありません」
従順だった私が反抗するとは思わなかったのか、ウィル様はひどく狼狽えている。
生まれて初めての反抗はひどく緊張した。平静を装っていても、膝の上でにぎった拳はぶるぶると震えている。
「自分勝手などと、人聞きの悪い言い方をするな!」
ウィル様の怒声が飛んでくる。私が実家に戻ることより、「勝手に結婚を破棄した」という発言が気に入らなかったらしい。
「ウタヒメが現れたら、そのウタヒメと竜騎士が結婚するのは法で定められているんだぞ!」
「権利がある、そして婚約が推奨されている、というだけで、強制力などありません。しかもこの話は独身前提の話ですよ」
ウィル様はぐっと言いよどんだ。
黙って聞いていたリスティーは不満そうに眉を上げたが、すぐに悲しげな顔をして、「申し訳ありません、お姉様」と胸の前で両手を組んだ。
「私がウタヒメとして覚醒してしまったばかりに、お姉様を混乱させてしまったのね?」
「私が、混乱?」
「ええそうよ。ねえ、よく考えてみて? あなたはまだウィルのことがお好きでしょう?」
ひゅっと息を飲む。まるで、心を踏み荒らされたかのような感覚だった。
リスティーはそんな私に気づいた様子もなく、ぺらぺらとしゃべりつづける。
「それにエアルのことも愛しているはずよ。実の妹である私も、これからここで一緒に暮らすんだもの、無理に実家に帰らなくてもいいじゃない。お姉様はエアルの世話ができて、好きな人のそばにいられる。あ、片想いになるけど、それはごめんね?」
「ね? いいでしょう?」とリスティーは甘えるように首を傾げてみせた。
何を言っているのだろう。あまりに理解ができなくて、一瞬視界が真っ赤に染まる。
恋心を暴かれ、踏みにじられて、恥をかかされただけではなく、何より大切な家族であるエアルを引き合いに出してきた。
思考が怒りと屈辱で埋め尽くされる。私はとっさに、手の甲に爪を立てた。皮膚を裂く痛みが、怒りを紛らわせてくれた。
(結局、私はここを離れられない。リスティーはそう考えているのね)
本当は今すぐにでもエアルを連れて帰りたかったけど、ウィル様はすでにリスティーとの結婚を国王に報告してしまっている。
ウタヒメが最初に覚醒させたエアルを、私が勝手に連れ出すことはできない。それがわかっているから、リスティーはこんなにも強気なのだろう。
そして、このリスティーの口ぶりで確信した。
ウィル様が私の恋心に気づいて、それをリスティーに話したこと。ふたりで私を哀れみ、嗤ったことも。ふたりにとって私は、「死ぬまで働く都合のいいオモチャ」という認識らしい。
そんなことに気づきもしなかった自分が恥ずかしい。ふたりを詰る気にもなれなかった。
そこで私はふと大事なことを思い出して、ウィル様に訊ねた。
「アルトリーゼ公爵はこのことをご存じで?」
その瞬間、ふたりは頬を引きつらせた。
ヘリアス・アルトリーゼ公爵
燃えるような赤い髪に、緑の瞳を持つ美しい竜騎士。リスティーの婚約者であり、王が最も信頼を置く、最強の竜騎士と言われている。
王への忠義と、敵には容赦をしない苛烈な性格から、「王の剣」という二つ名を持っている。
先ほどまでの尊大な態度が嘘のように、ウィル様は視線を泳がせて言った。
「その、リスティーにウタヒメの力が発現したことは、先に報告だけ……」
「では、向こうの婚約も破棄されていない状態なのですか? そんな状態で王に結婚の報告を?」
とても信じられなかったけど、口を閉ざすウィル様と、怯えたようにウィル様に抱きつくリスティーを見て、それが真実なのだと知った。
屈辱や怒りを通り越して、あきれてしまった。
「なるほど、よくわかりました。今回の討伐戦にアルトリーゼ公爵は出陣していないのにリスティーが同行し、私の同行が許されなかった理由も、何となく」
私の言葉に、ウィル様が一瞬たじろいだ。
「討伐戦が始まるずっと前から、おふたりは関係を持っていた。だからウィル様は、最初からリスティーを連れていくつもりだった。そして偶然、リスティーがウタヒメの力を発現させたので、これ幸いとリスティーと結婚した」
「そ、それは!」
ウィル様は動揺したけど、否定はしなかった。
私を妻として見ていなかったのも当然だ。彼には最初からリスティーがいたのだから。
「私も騙されましたが、よくもまあ、婚約者のアルトリーゼ公爵まで騙しましたね」
リスティーがぎょっと息を飲んだ。
アルトリーゼ公爵との仲は知らないけれど、彼女はウィル様との結婚にやけに積極的だから、この結婚を公爵から逃げる口実にしようとしていたのかもしれない。
(理由なんてもう、私にはどうでもいいけれど)
その時、ウィル様がダンッとテーブルに拳を叩きつけた。興奮したように目を血走らせて、今にも剣で襲いかかってきそうだった。
「もういい! さっさとサインして出ていくといい! フィーニス家に居座りたいからと、さっきから未練がましい女だな!」
「私の勘違いでしょうか? 私を竜医師として引き留めようとしていたのはウィル様の方では?」
「は!?」
ウィル様は怒りに顔を紅潮させ、リスティーは不満そうにウィル様を見上げてから、私をにらんだ。
怒りとかすかな嫉妬の視線を浴びながら、私は離婚状にサインをして立ち上がった。
「では、私はこれで失礼いたします。新たに夫婦となるおふたりに、女神イーリスのご加護があらんことを」
女神の名を出して表面上だけの祝福を唱えると、ふたりは恐怖に顔を引きつらせた。
生まれた時から罪を背負っている私たちは、天へと導かれるために、いくつもの戒めを守っていかなければならない。
そのひとつ、「姦淫をしてはならない」という掟を破った自覚はあるらしい。
彼らはこれから弱者救済などにお金を寄付し、必死に罪を贖おうとするだろう。
(だったら最初からしなければいいのに)
そう笑いたかったけど、涙をこらえていた私は、ふたりに顔を見られないように部屋を出るのが精一杯だった。
「さようなら」
背を向けたまま別れの言葉を告げて、扉を閉める。私は荷物をまとめるために、足早に自分の部屋へと向かった。
一秒でも早く、この屋敷から出ていきたかった。