花芽ぐむキルシュヴァッサー15
アルトリーゼ家の城を見上げる。何だかずいぶんと久しぶりに帰ってきたように感じる。
扉が開かれると、侍女長のフェリシアやメイドたちが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました。留守を預かってくれて助かりました、フェリシア」
「お役に立てて光栄でございます。奥様、ご無理はなさっていませんか?」
フェリシアがまずは体調を気にするのは、私が竜の治療で無理をすることを知っているからだ。
心配をかけてしまったことを申し訳なく思いながら、「大丈夫よ」と答える。
「大丈夫ですよ! 私がそばにいるのですから!」
シーラが胸を張って答えた。
フェリシアはにこやかに微笑みながら言った。
「あなたは奥様の言うことを受け入れすぎますからね。奥様が徹夜をすると言えば、あなたは止めるどころか付き合うタイプです」
「うぐ!」
シーラがぎくりとする。
こういう時のフェリシアは怖いので、私はさり気なく視線をそらした。
すると、そらした先にはラインさんがいて、にこやかに一礼した。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま戻りました。留守の間、何かありましたか?」
「いえ、平和すぎるくらいですよ。ヘリアス様に働けと叱られそうです」
ラインさんは肩をすくめて言った。
彼らと話していると、本当に帰ってきたのだと実感できて、心が落ち着く。
エアルだけを残して帰ってきたのが心苦しいけれど、エアルのそばにはシャーロット先生がいるから、少しは安心できた。
「手紙にも書いてありましたが、ジンに会うのですね」
「はい」
ジン・グレンカイト。メルキオールに騎乗していた竜騎士であり、ヘリアス様のお父様であるオリアス様の部下だった人だ。
元は反乱軍としてヘリアス様たちと戦っていたけれど、途中から討伐軍に加わり、大きな功績を上げたと聞いている。
けれど、一度は反乱軍に身を置いたという理由もあって、現在は死刑囚として監獄に収容されている。
「できれば、ラインさんも一緒に来ていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろん、ご一緒します。あの人に聞きたいこともありますから。これからすぐに向かいますか?」
「はい。キルシュヴァッサーのこともありますから」
「わかりました。準備してきます。その間、ヘリアス様にお会いになってはいかがでしょう。きっと寂しがっておられますよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
私は彼の気遣いに感謝しつつ、ヘリアス様の部屋へと向かった。
扉を開けるだけで、かすかに緊張を覚える。
「大丈夫」
そう言い聞かせて、ゆっくりと扉を開く。
「失礼します」
返事はない。
カーテンが開けてあるのか、思ったより部屋が明るかった。
私は寝室の扉を開き、ベッドに横たわるヘリアス様に視線を向けた。
心臓がドクンと強く鼓動を刻むのを、深呼吸で落ち着かせる。
静かにベッドへ近づき、寝顔を覗きこむ。
眠っているヘリアス様は、彫像のような冷たい美しさを帯びていた。
その胸がかすかに上下しているのを見て、安堵の息をつく。同時に小さな落胆を覚えた。
「まだ一度もお目覚めになっていないのね」
身体の横に置かれているヘリアス様の右手に触れるけれど、にぎり返してくれることはなかった。
「ヘリアス様。ただいま戻りました」
◇◇◇
ラインさん曰く、稽古中ならまだしも、それ以外でヘリアス様が血を流しているところは見たことがないという。もちろん、戦場でも。
そのヘリアス様が、真っ赤な血を流している。
その日、私はいつものようにヘリアス様の執務室を訪れていた。
「ヘリアス様、報告書を提出しに参りました」
彼はかすかに目を細めて、わざわざ椅子から立ち上がった。
「ああ。いつもありがとう」
そう言って伸ばされた彼の右手の指先が赤く染まっていた。紙で切るなんて珍しい。
「ヘリアス様、指を――」
指を怪我されたのではと問いかけようとしたその瞬間、ヘリアス様は鼻を押さえた。
その手の隙間から夥しい量の血があふれて、書類を真っ赤に汚していく。
何が起きたのか、一瞬理解が遅れた。
はっと我に返り、ようやく声が出た。
「ヘリアス様!」
「竜の声が、聞こえる……っ!」
彼は血で汚れた手で耳を塞いだ。目を見開き、額には大粒の汗が浮いていた。
尋常ではない様子に、私はほとんど無意識にラインさんを呼んで、お医者様の手配をお願いした。
その間ずっと、私はヘリアス様の背中に触れ、必死に呼びかけていた。
やがて、お医者様が到着した。急いで診察してもらったけれど、結局原因はわからなかった。
ただ、記憶が混乱しているらしく、激しいストレスが原因ではないかということだった。
ヘリアス様は少し落ち着いたのか、ベッドに腰かけた状態で額を押さえていた。
鎮痛薬を服用しても、頭痛がひどいらしい。
その姿に胸が痛くなる。
ヘリアス様を見つめながら、ラインさんが口を開いた。
「記憶関係といえば、古代竜とエマさんによる記憶消去ですよね。竜師長ルイスは、ヘリアス様の身体に異変が起きるなどとは言ってなかったはずですよね」
「ええ。もしかしたら、彼にとっても予想外の出来事なのかもしれません」
「……どのみち、例の竜笛を使うしかないだろう」
ヘリアス様が顔を上げた。
顔は青白く、この半日でひどくやつれたように見えた。
「頭痛だけではない。竜の咆哮が、耳の奥でこだましている。古代竜の声だろうな」
「そんな……」
「フィルナ」
ヘリアス様は強い意志を宿したエメラルド色の瞳で、真っ直ぐに私を見つめた。
それだけで、彼が何を求めているのか理解できて、私はコートのポケットに入れていた竜笛に触れた。
二度と目覚めないかもしれない。そのリスクを恐れている場合ではなくなってしまった。
わずかにうつむくと、ヘリアス様の手が、私の左手を取った。
怯える私の心を包みこんでくれるかのような、大きくて温かい手だ。
「フィルナ。あなたにもう一度誓おう。私は必ずあなたのもとへ戻ると」
「はい……」
寂しくて、つらくて……返事をする声が掠れてしまった。
ヘリアス様が困ったように小さく笑う気配がした。私の手をにぎる彼の手に、かすかに力がこもる。
「あなたに頼みたい。やってくれるか?」
「はい……もちろんです」
ヘリアス様が私を頼ってくれている。その気持ちに応えたい。
私は彼の目を見てうなずいた。
「ライン」
ヘリアス様が名を呼ぶと、ラインさんがヘリアス様のそばに近づいて、片膝をついた。
恐らく、今後の仕事の指示を出しているのだと思う。
ラインさんは一度目を閉じてから、ゆっくりと立ち上がった。
「早く戻ってきてくださいよ。誤魔化すのだって大変なんですから」
「善処する」
ふたりは小さく笑みを交わし、それからラインさんは静かに部屋を出ていった。
部屋には、私とヘリアス様のふたりだけが残った。
「すまない、待たせたな」
「いえ……。ラインさんとは、あれだけでよろしいのですか?」
「ああ、あいつなら問題ない。何かあれば、目覚めてから文句を言ってやるさ」
「ふふ」
冗談ですら精彩を欠いている。切なく思いながら、それでも私は笑った。
ヘリアス様はベッドに横たわり、ふうっと息を吐き出した。
私はベッドのそばに椅子を寄せて座った。
平然と話しているけれど、今も激しい頭痛に襲われているはずだ。
彼の痛みを、私が肩代わりできればいいのに。
「フィルナ。私が眠ったら、あなたは竜医師としての使命を果たしてほしい。この家にいる竜たちのことも頼む。あなたは救う人だから」
「自分のことは気にせず、竜のもとへ行け」と、そう言っている。
きっと、私の心を寂しさで埋めないようにと気遣ってくださっているのだろう。
もしくは、何か予期せぬ事態に陥った時、後を追わないようにという予防線の意味もあるのかもしれない。
「ラインさんにも同じようなことを言ったのですか?」
隠しても仕方ないと思ったのか、ヘリアス様はふっと笑った。
「私に何かあれば、あなたを命懸けで守れと、そう言ってある」
ラインさんはきっと、その命令に死ぬまで従うだろう。
それが彼にとって幸せなのか、私にはわからないけれど。
ヘリアス様は天井を見つめて、再び口を開いた。
「初めてあなたと出会った時、妻だと名乗るあなたを、私は否定してしまった。すまなかった」
「それは……」
私は、ヘリアス様と初めて出会った時のことを思い出した。
最初に浮かんだのは、「戦ばかりが達者になって、口が上手くない」と言いながら紅茶をすすめてくれた時のことだ。
たしか、ドゥルキスの食欲不振の件で初めて顔を合わせた時だったはず。
目の前のヘリアス様にその記憶はない。
そう考えれば私は、二度もヘリアス様と出会ったということになる。
「そのことはすでに謝罪していただきましたし、私にとっては良い思い出です」
「……今すぐやり直したい」
「私は嫌です。ヘリアス様と過ごした時間は、どれも大切な記憶ですから」
「フィルナ」
ヘリアス様はゆっくりと身を起こすと、私の唇に触れるだけのキスをしてくれた。
たまらなく嬉しいのに、どうしようもなく泣きたくなる。
泣きそうな顔をしている私を見て、ヘリアス様は愛おしそうに目を細めた。
「泣かないでくれ」
「ごめんなさい。本当はこんな顔、あなたに見せたくなかった。心配させたくなかったのに……」
「どんな顔でも隠さなくていい。あなたと過ごした時間は、どれも大切な記憶だ。そうだろう?」
「ヘリアス様……」
彼はもう一度ベッドに身体を沈めて、私に右手を伸ばした。
私は慌ててその手を取って、強くにぎった。
「また会おう」
「はい、必ずまた会いましょう。約束ですよ?」
「ああ、約束だ。今度は、二度と忘れない」
ヘリアス様は私を見上げて、小さくうなずいた。
私はかすかに震える手で、コートのポケットから竜笛を取り出して咥えた。
覚悟を決めて、ふっと息を吹きこむ。
息がつづく限り吹きつづけると、ヘリアス様のまぶたがゆっくりと閉じていくのが見えた。
完全に閉じきるその瞬間、ヘリアス様の唇が震えた。
「フィルナ、ありがとう。愛している」
「……っ!」
私は口から竜笛を離し、ヘリアス様の手をにぎり返して叫んだ。
「私もです! 私もずっとヘリアス様のことを愛しております!」
ヘリアス様は口元に笑みを浮かべて、静かにまぶたを閉じた。
ぽつぽつと、彼の頬に私の涙が落ちる。
彼の頬を濡らす涙を拭いながら、私はそっと声をかけた。
「おやすみなさい、ヘリアス様。良い夢を……」
目覚めたら、今度は私からキスを贈ります。
次回更新は3/11です。




