花芽ぐむキルシュヴァッサー10
「いやぁ、久しぶりに見たねぇ」
キルシュヴァッサーの目元をそっと指先でなでながら、ウルリッヒ団長は嬉しそうに目を細めた。
「ええ、本当に……。また目を開けてくれるなんて、思いもしませんでした」
同意するフロリアンさんの声は震えていた。
彼は赤い目を見つめながら、キルシュヴァッサーの頭を何度もなでていた。
しばらくして、フロリアンさんは何かに気づいたらしく、私を見上げて訊ねた。
「意識は戻っているんでしょうか?」
その期待の眼差しを見て、胸の奥がズキンと傷んだ。
私はゆっくりと首を横に振った。
「残念ながら、目は開いていますが、意識は戻っていません」
「そうですか……」
フロリアンさんは落胆したようにうつむいた。
キルシュヴァッサーの目は、私たちの動きを追うこともなく、ただぼんやりと治療室を見つめるだけだった。
シャーロット先生は、その場の空気を変えるように口を開いた。
「私としては、キルシュヴァッサーが目を開けたことだけでも驚きです。今まで何をやっても反応がなかったのですから。これは大きな一歩だと思います」
力強く言って、私に視線を向けた。
「フィルナ様だからこそ、ここまでたどり着けたのだと思います。このまま治療を継続していただければ、意識が戻るかもしれません」
「シャーロット先生がここまで言うなんてね」
ウルリッヒ様が驚いたように言うと、シャーロット先生の表情に影が落ちた。
何だか思い詰めているように見えた。
「では、フィルナ様。引きつづき、キルシュヴァッサーの治療を頼めますか?」
「もちろんです。ですが、私ひとりではできません。シャーロット先生、あなたの力を貸していただけませんか?」
「え……」
シャーロット先生は意外そうな顔をして、私を見上げた。
そして、悲しげに眉を寄せて、深くうつむいた。
「もちろん、私にできることなら何でもお手伝いします。でも私の知識では、何ひとつお役に立てないと思います」
「そんなことはありません! シャーロット先生なら、私とは違う角度から物事を見て、知識を補っていただけるはずです」
「フィルナ様……ありがとうございます」
本心を告げたつもりだけれど、シャーロット先生は寂しげに微笑むだけだった。
◇◇◇
「キルシュヴァッサーが目を開けたんだって!」
「その話、本当だったんだ! フィルナ様が治療を始めて、まだそんなに日にちが経ってないのに、すごいね」
「私たちにとっては雲の上の存在なのに、いつも一生懸命なお方だし、優しいし、好感が持てるよね! 今度、竜のお世話のコツを教えてもらおうかなぁ」
「抜け駆けずるいぞ。というか、お忙しいんだから邪魔しちゃダメでしょ!」
竜舎に入った途端、補助竜医師たちの称賛が聞こえて、思わず足が止まった。
誰かに褒められるのは嬉しいけど、噂話をされている時はどんな顔をすればいいのか、いまだにわからない。
すると、先ほどまで一緒に昼食をとっていたシーラが、「うふふふ!」と嬉しそうに笑った。
「聞きました? 奥様の話題がこの竜舎中に広がっているんですよ!」
「私というより、キルシュヴァッサーの回復を喜んでいるのでしょうね。わかるわ、私だって目を開けたあの瞬間を忘れることができないもの!」
「うーん、竜優先の奥様らしい発想です」
シーラはうんうんとうなずいて、それからぱっと笑顔を弾けさせた。
「もちろん、キルシュヴァッサーのことも嬉しいと思いますが、奥様がすごい人だって、みんながちゃんと認識したってことです! 私はそれが嬉しくて、誇らしくて!」
「シーラ……本当にありがとう。あなたが喜んでくれるから、私も自分を褒めてあげられるの」
自分のことのように喜んでくれるシーラに、どれほど救われてきただろう。
心からの感謝を伝えると、彼女は驚いたように目を見張って、照れくさそうに頬を染めた。
「えへへ……奥様にそう言っていただけて光栄です。私、奥様がすごい人なんだって、世界中の人に知ってもらいたいのです。今回のこともライン様に知らせましたよ。きっと今頃、ヘリアス様にも伝わっているはずです!」
シーラの優しい笑顔を見て、「気を遣わせてしまったな」と内心で反省した。
(エアルにもヘリアス様にも会えなくなって、寂しいって思っていたこと……シーラにはお見通しだったのね)
彼女の心遣いに感謝しないと。いつまでも沈んではいられない。
そう気合いを入れ直そうとしたその時、遠くでガシャンッと何かが割れる音がして、反射的に音のした方に視線を向けた。
「す、すみません!」
シャーロット先生が近くにいた補助竜医師にそう謝罪して、慌てて床にしゃがみこんだ。
そのまま素手で割れた薬瓶を拾おうとしたので、私はとっさに声を上げた。
「触れてはいけません!」
シャーロット先生はびくりと身体を震わせて、顔を上げた。
「素手で触ると怪我をしますし、薬剤も付着しますよ」
「そ、そうでした。すみません」
彼女はひどく落ちこんだ顔で、謝罪した。
シャーロット先生らしからぬ迂闊さだ。
「奥様、私は掃除道具を持ってきますね!」
「お願い、シーラ」
私はシーラの背中を見送ってから、あせった様子のシャーロット先生に視線を向けた。
「ここは片付けておきますので、シャーロット先生は竜たちのもとへ行ってください」
「そ、そんな! フィルナ様にこんなことをさせるわけには――」
「ここにいる私は公爵夫人ではなく、ただの竜医師です。困っている時はお互い様でしょう。今は竜たちのもとへ行ってあげてください。シャーロット先生を待っていますよ」
「でも……!」
「保護されたばかりの竜の治療があるんですよね。ここは私に任せてください」
そう背中を押すと、シャーロット先生は少し迷った末に、恐縮したように「申し訳ありません、フィルナ様。よろしくお願いします」と言って、足早に去っていった。
入れ替わりにシーラが戻ってきて、私たちはその場にいた補助竜医師と協力して割れた薬瓶を片付けた。
なぜか、その補助竜医師に尊敬の眼差しで見られたけれど……。
「そんなに掃除しない人に見えたのかしら」
「掃除しない人というか、奥様は公爵夫人ですから。普通は使用人がやることですよ」
「……竜房の藁や糞の回収にも慣れているのに」
ちょっとだけ拗ねたような口調になる。もちろん、補助竜医師に悪気はなかったと思う。
でも、公爵夫人だからといって何もできないと思われたくなかった。いざとなれば、身分関係なく頼ってもらいたいから。
もっと率先して掃除をしよう! そう心の中で決意すると、シーラが嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ふふ、公爵夫人が糞を掃除するだけじゃなくて、その中身まで確認するなんて知ったら、驚きすぎて倒れちゃうかもしれませんね!」
「そんなに驚くことかしら? だって、糞を見れば竜の体調がわかるのよ。シーラもどう?」
「う……奥様のためなら!」
シーラは何かに耐えるように険しい顔をしていたけれど、ふと不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、シャーロット先生ってあんな感じの人でしたっけ? もっとこう、『私はここの代表竜医師です!』って感じで、自信に満ちあふれたイメージでしたが」
「そうね。今日は朝から様子がおかしいのよ」
今朝も、シャーロット先生は私に「イネスの処置はこれで大丈夫でしょうか?」と、不安そうに訊ねてきたし、補助竜医師への指示にも、どこか迷いのようなものを感じた。
(竜の処置や補助竜医師への指示は何も間違っていないのに、一体どうしたのかしら……)
その後、シーラと別れた私は、シャーロット先生の様子を気にしながらも、キルシュヴァッサーの治療を行っていた。
気がつくと、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。
「シャーロット先生、遅いわね」
途中からキルシュヴァッサーの治療を手伝ってくれる約束だったけれど、竜の治療が立てこんでいるのかもしれない。
治療室から出ると、近くに補助竜医師たちがいて、彼女たちの視線の先には足早に去っていくシャーロット先生の後ろ姿が見えた。
(シャーロット先生、近くまで来ていたのね。急用かしら?)
すると、補助竜医師たちが顔を見合わせて、そのうちのひとりが気まずそうに言った。
「ねえ、さっきの悪口、聞かれたんじゃない?」
「悪口じゃなくて事実でしょ。だってあの人、竜を溺死させたんだから」




