花芽ぐむキルシュヴァッサー2
鮮やかな緑の野がどこまでも広がっている。
様々な属性の竜たちが湖に集まって水を飲み、白いウサギたちが森の中を駆け回っている。
私の足元には、小さな花をつける貴重な植物も生えていた。
ここは王国安全調査団のアウデンティア支部が管理する自然保護区だ。
「初めて来たけれど、とても綺麗な場所ね」
私が周囲を見渡しながらつぶやくと、シーラも目を輝かせながらうなずいた。
「そうですね! 正直、ここに来るまでは嫌な印象しかありませんでしたけど、自然保護区はきちんと管理されているみたいですね」
「そうね。竜と自然を保全するための場所とは聞いていたけれど、竜ものびのびとしているし、貴重な植物も多いわ」
事情聴取という目的で呼ばれていなかったら、もっと心から楽しめたのに……。
思わず、ふうっとため息がこぼれた。
この緑あふれる自然の中にエアルの姿はないかと、何度も探してしまう。
「エアルはここにいた方が幸せだと思いますよ」
声のした方へ視線を向けると、フロリアンさんがこちらに近づいてくるのが見えた。
彼は相変わらず、好意的とは言えない目で私たちを見ている。
シーラが「出ましたね」と、警戒したようにつぶやいた。
「王国安全調査団が管理する自然保護区へようこそ。ここではあなたも、調査団の規則に従ってもらいますよ」
「わかりました。あの、エアルは大丈夫ですか? ご飯を食べなくなったとか、そういうことはありませんか?」
「ご心配なく。むしろここに来てから、前より元気になったくらいですよ」
「よかった」
私はほっと息をついた。
保護されている竜たちの健康状態も良さそうだし、フロリアンさんが嘘を言っているとは思えない。
竜医師たちがしっかり管理しているのだろう。
私の返答を聞いたフロリアンさんは眉を寄せ、苛立った口調で言った。
「保護区には貴重な竜だけでなく、人間に傷つけられて保護された竜もいます。くれぐれも勝手な行動は慎んでください。いいですね?」
念を押され、私はうなずいた。
「よろしい。では施設の方に案内します。ついて来てください」
私たちは、フロリアンさんのあとにつづいて歩き出した。
シーラはむっとした顔をして、小声で言った。
「あの人、嫌味しか言えないんですかね? あんな人とは絶対結婚したくありません!」
「聞こえるわよ、シーラ」
「だって、奥様にひどいことばかり言うんですもの。許せないです」
そう言って、シーラは頬をぷくりと膨らませた。
どう宥めようかしら、と考えていると、森の向こうに見える山から、甲高い竜の鳴き声が響き渡った。
竜たちが喧嘩をしているのかもしれない。
すると今度は、湖の方から女性の悲鳴が上がった。
「だめ、だめ! どうしよう!」
混乱した様子で声を上げている女性は、服装からして補助竜医師のようだ。
彼女の前には土属性の竜がいて、自分の尻尾に噛みついて低く唸っている。
噛みついた部分から、血がにじんでいるのが見えた。
「おい! 早くやめさせろ!」
フロリアンさんの怒声が飛ぶ。
女性は必死に竜笛を吹くけれど、彼女の動揺が音として伝わったのか、竜はよりいっそう興奮したように呼吸を荒くした。
フロリアンさんは舌打ちをした。
「くそっ! 竜医師は何をしているんだ!」
私は竜笛を咥えながら駆け出そうとしたけれど、行く手を阻むようにフロリアンさんが腕を広げた。
「勝手な行動はするなと言ったはずです!」
「竜医師が必要なんですよね。私に任せてください」
「余計なことはしないでください! アルトリーゼ家の竜医師を信用できるはずがないでしょう!」
「余計なこと? このまま竜が尻尾を噛みちぎるのを黙って見ていろと、あなたはそう言うのですね!」
「そ、そういうわけでは……」
フロリアンさんが怯んだ隙に、私は竜のもとへ向かった。
背後から「止まれ!」と制止の声が聞こえたけれど、足を止めるつもりはない。
竜に駆け寄りながら竜笛を吹くと、竜は尻尾に噛みついたまま、ちらりとこちらを見た。
何かに助けを求めるように瞳を揺らし、身体をぎゅっと小さく丸めようとする。
(怯えてる……。さっきの竜の声でパニックになっているんだ)
私は息が震えないように、慎重に竜笛を吹いた。
竜笛さえあれば竜を操れると思っている人は多いけれど、これは竜の声を真似て仲間だと思わせているようなものだ。音が震えていれば、吹く者の恐怖と動揺が伝わってしまう。
だから、「どんな状況であろうと堂々と、自分が竜になった気持ちで力強く吹け」と教えられる。
竜笛を吹きながら徐々に距離を詰めると、竜はびくりと身体を震わせた。
「大丈夫だよ。もう怖くないから。えっと……この子の名前は何ですか?」
「え?」
声をかけられた女性は一瞬ぽかんとして、それから慌てて答えた。
「イネスです!」
「イネスですね。イネス、もう怖くないよ。自分を傷つけなくていいんだよ」
名前を呼んで優しく語りかけると、ようやくイネスと目が合った。
それでもまだ、イネスは尻尾に噛みついたままだ。強い恐怖の感情を紛らわせようと必死なのかもしれない。
(それほど、強い心の傷が刻まれているということ……)
この子の過去を思うと、胸が痛くなる。
竜笛だけで落ち着かせるのは難しそうだ。
(ドゥルキスはいないし、共鳴反応は望めないけれど……)
私は深く息を吸いこんでから、吐き出す息に音を乗せた。
かすかな水音や小鳥たちのさえずりに重なるように、私の竜の歌が風に乗って流れる。
イネスは歌い出した私を警戒していたけれど、それが耳馴染みのある歌だとわかったのか、荒くなった呼吸が次第に落ち着きを取り戻していく。
やがて、イネスは尻尾から口を離し、血がにじむ傷口を優しく舐め始めた。
それを見た補助竜医師の女性は頬を染め、感嘆の声を上げた。
「す、すごい。あのイネスが、こんなに早く落ち着くなんて……!」
私は歌うのをやめて、女性に視線を向けた。
「イネスは私が見ていますので、ガーゼと薬の用意をお願いしてもいいですか?」
「は、はい! すぐに持ってきます!」
女性はほっとした顔をして、竜舎と思われる建物の方へ走っていった。
竜医師の指示をもらえて、彼女自身もようやく冷静になれたのだろう。
尻尾を舐めつづけるイネスを見つめていると、シーラがそっと近づいてきた。
「奥様、さすがです! 興奮状態の竜をあっという間に落ち着かせるなんて!」
「ありがとう、シーラ。麻酔銃を使う前に鎮められてよかったわ」
「本当にかっこよかったですよ! それに見てください。補助竜医師のみなさんも、奥様のことを尊敬の眼差しで見ていますよ!」
「尊敬、なのかしら?」
私は苦笑を漏らした。
補助竜医師たちの視線は感じるけれど、好意的かどうかはわからなかった。
(イネスを守るためとはいえ、少し目立ちすぎたかな……)
フロリアンさんにものすごく怒られそう。
そう思っていると、荒々しく草を踏みしめる音が近づいてきた。
フロリアンさんが激しい剣幕でこちらをにらんでいる。
「勝手な行動はするなと言いましたよね? 聞こえなかったのですか?」
「竜も人も危険な状況でした。放置することはできません」
「ここにいる竜は調査団の竜医師によって適切に管理されているのです。エアルを虐待した疑惑のある竜医師に手を出されては困るのですよ。いいですか、今後は私の指示と調査団の規則に従って行動してください」
「ですが――」
「フィルナ様」
フロリアンさんは抑えきれない怒りをその目ににじませ、すべてを拒絶するように言い放った。
「もう何もしないでいただきたい。我々に、あなたの力は必要ない」




