祝福のエレスチャル7
窓の外は紺色に染まっていた。
ヘリアス様の部屋の窓際には夜光石の照明が置かれていて、その深い青空と鮮やかなレモンイエローの輝きの対比が美しかった。
「殺しておけばよかった」
絵画のような夜景を背景にして、ぽつりと物騒な言葉が発せられて、私は目を丸くする。
「あのふたりとの間に何があった」と問い詰められ、すべてを告白した瞬間のヘリアス様の発言だ。
「だめですよ! ヘリアス様が罪を背負う必要はありません!」
私は椅子から少し身を乗り出して言った。
「だが、あなたを傷つけた男だ。あなたも我慢する必要はないだろう」
向かいに座ったヘリアス様の目に、稲妻のような光が閃く。
自分のことのように腹を立てるその姿に、思わず笑みがこぼれる。
私の反応に、ヘリアス様は戸惑うように私を見た。
「なぜ笑う?」
「ヘリアス様が私の代わりに怒ってくださるから、嬉しくて。それに、ヘリアス様がエルヴィア様を殴った時、とてもスカッとしましたから!」
そう伝えると、ヘリアス様は少し照れくさそうな、困ったような複雑な笑みを浮かべた。
「少しでもあなたの心が晴れたのなら嬉しい。だが、あいつは許さん。あなたを貶めたシセラもな」
とはいえ、三年前のシセラ様の件については証拠がない。「嘘をつかれた」という私の証言だけでは罪を立証するのは難しい。
だけど、ヘリアス様だけは私の話を信じてくれた。
それだけで、三年前の孤独だった私が報われた気がした。
「そもそも、女性に手を上げるなど考えられん。あんな男が竜騎士を名乗っている上に副団長とはな。親は相当、教会に寄進したらしい」
ヘリアス様は「コネで得た地位だろうと」とあきれた表情でつぶやいた。
私も同じことを考えていた。じゃないと副団長でありながら、浄化施設を知らないなんてあり得ない気がする。
ふと、ヘリアス様が無言でこちらを見つめていることに気がついた。
「ヘリアス様? どうされましたか?」
「そんなことを言える立場ではないと思った。私はあなたをひどく傷つけてしまった。あの時は、本当にすまなかった」
「あの時」とは、記憶喪失になった直後のことだろう。
懺悔するような声に、彼がずっとあの時のことを気にしていたのだとわかって、胸がきゅうっと甘く締めつけられた。
「あれは傷つけたうちに入りませんよ」
「あまり私を甘やかさないでくれ。あなたを傷つけた自覚はある。気が済むまで殴っていいぞ」
「殴る!?」
「難しいなら、ラインに頼んで百発は殴っていい」
「絶対にだめです! ヘリアス様に傷なんてつけたくありませんし、そんなこと、私は望んでいません!」
「そ、そうか……」
「そうです。その謝罪だけでじゅうぶんですから」
それでもまだ納得していない様子に、愛しさがこみ上げる。
だって本当に、悲しい過去ですらない。
本気で相手を傷つけようとしてくる人の言動や行動は、誰よりも理解しているつもりだ。
「もうひとつ、謝罪させてほしい」
「何でしょうか?」
「あなたを愛せないと言ったのは嘘だ」
「え?」
「受け取ってくれるか」
そう言って、ヘリアス様は赤い小箱をテーブルの上に置いた。
「何でしょう? 中を見ても?」
「もちろんだ」
私は小箱を手に取り、そっと蓋を開いた。
中には、桃色の石で作られたひとつのイヤリングが収められていた。
ティロが飛び立つ瞬間に、ヘリアス様に残した愛の石だ。
「綺麗……」
この石に、ティロとヘリアス様の心が宿っている気がして、じわりと胸が温かくなる。
もうここにはいない愛しい竜の鳴き声を思い出し、自然と口元が綻び、ほんの少し涙がにじんだ。
「あなたが好きだ」
一瞬呼吸が止まり、まばたきさえ忘れてしまった。
心臓がバクバクと跳ねまわり、頬が火照ったように熱くなる。
「好きだ」という一言が、何度もぐるぐると頭の中を駆けめぐった。
「私ともう一度、恋をしてくれないか」
熱を宿した真剣な眼差し。その瞳に映った私の表情が、ひどく驚いているのがわかる。
私はようやく呼吸を思い出し、ゆっくりと身体の機能を取り戻した。
記憶がなくたって関係ない。彼は間違いなく、私の愛したヘリアス様だ。
高揚感に包まれ、世界で一番幸せだと言い触らしたい気分!
私は身を乗り出し、ヘリアス様の手に触れた。
「私もヘリアス様が好きです! 何度だって恋をしましょう!」
ヘリアス様はほっとしたように、そして嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう、フィルナ」
そう言って、私の手の上にヘリアス様の大きな手が重なる。
嬉しい、嬉しい! 何度だって嬉しい! 彼と再び心を繋げられたのがこんなにも幸せだなんて……。
ヘリアス様は小箱からイヤリングを取り出すと、丁寧な手つきで右耳につけてくれた。
桃色の石は、不思議と冷たさを感じなかった。
「似合っている。とても綺麗だ」
「ありがとうございます!」
褒め言葉を素直に受け取れた自分に「昔と変わったな」と、改めて思う。
それに、私に向けられた彼の言葉を、ひとつだって取りこぼしたくない。
「あの、ヘリアス様。あの首飾りを貸してもらえませんか?」
「構わないが、どうするんだ?」
「私が持っているティロの石を、その首飾りにつけようと思います。また受け取ってくださいますか?」
「もちろんだ。もう一度あなたから贈られると思うと、嬉しいよ。今度こそ忘れたりするものか」
ヘリアス様は嬉しそうに微笑んでいたけれど、記憶喪失になった自分を責めているようにも聞こえた。
「ヘリアス様。忘れていてもいいんですよ」
「……忘れられた側の気持ちはどうなる?」
ヘリアス様は沈痛な表情で言った。
やっぱり、この方の優しさは変わらない。大変な目に遭っているのはヘリアス様なのに。
「もちろん、同じ思い出を語り合えたら、とても素敵なことでしょう。でも、この瞬間をともに笑い合えたなら、それだけで幸せだと思います」
この気持ちに嘘はない。ヘリアス様の存在に、過去も現在もない。それが伝わればいいな。
「ヘリアス様。私は恋人という立場だけではなく、竜医師としても、あなたをお支えしたいのです。必ずお役に立って見せます。そして、あなたに認められるように頑張ります」
「そんな宣言をせずとも、私はあなたの実力を疑わない。あなたは最も優秀で情熱的な竜医師だと断言できる」
「え!?」
不意打ちのように真っ直ぐに信頼を示されて、再び顔が熱くなってしまった。
「真っ赤だ」
「だ、だって、嬉しくて……!」
「これを言えばもっと赤くなってしまうか?」
「え? ま、待ってください。心の準備が――」
「プロポーズの言葉も受け取ってくれるか? 私もあなたを支えたい。あなたの一番近くにいられる、その権利がほしい」
ヘリアス様は愛を誓うように、左胸に手を当てて言った。
「あなたが傷つけられた時は、怒りを行使できる立場でありたい。悲しんでいる時は、あなたの涙を拭う立場でありたい。嬉しい時は、あなたの笑顔に触れ、ともに喜べる立場でありたい」
私は思わず両手で顔を覆っていた。
いつまでも見ていたいのに、涙があふれて、私の世界を曖昧にぼかしてしまう。
「私はまだ、首飾りをお渡しできてないのに、貰ってばかりなんて……」
「では、返事は首飾りとともに待っていよう。その時に、つづぎを言おう」
「す、すみません……。ありがとう、ございます」
涙で顔はびしょびしょだし、頭もすっかり茹ってしまった。
「では、それまでは恋人同士か」
悪戯っぽく笑うヘリアス様の声が聞こえてくる。
嬉しさと恥ずかしさが交互に襲ってきて、「ううっ」と呻くことしかできなかった。
その時、かたりと椅子から立ち上がる音が聞こえたかと思うと、すぐにポロロンと心地よい音色が聞こえた。
驚いて顔を上げると、ヘリアス様の腕の中には立派な竪琴があった。彼の長い指が、弦の上で踊っている。
「竜の歌……素敵です!」
演奏が終わり、私は興奮気味に拍手をしながら言った。
彼は一礼し、微笑んだ。
「竪琴はいい。あなたの心をこうやって慰められるだけでなく、口下手な私でも、こうして――」
ポロロンと軽快な音が鳴り響く。
「間を持たせられる」
はっと息を飲んだ。その言葉は、私が彼に言った言葉だ。
『ほら、こうやって演奏していれば、間が持つ、気がします!』
たとえ記憶を失っても、その時の強い感情や言葉そのものが、彼の心に刻まれているのかもしれない。
忘れていてもいい。そうお伝えしたのは紛れもない本心だったけれど、憶えていてくださったことが、こんなにも嬉しい。
また涙をポロポロとこぼす私を見て、ヘリアス様はぎょっと目を見開いた。
「すまない、何かおかしかったか?」
「いえ……とても、嬉しくて……」
「嬉しいのか?」
「はい!」
彼を困らせたくなくて、笑顔で答える。
それでも心配そうにしているヘリアス様が、申し訳ないけれど可愛らしく見えた。
「ヘリアス様。もっと聴かせてくださいと言ったら、怒りますか?」
「まさか。だが、あなたを泣かせたくはない」
涙をそっと拭われ、その心地良さにほっと息をつく。
彼の手に、私の手を重ねる。
「……その時はまた、こうして拭ってくださいますか?」
少しわがままに、自分の気持ちに正直になって訊ねた。
「もちろんだ」
彼はふっと優しく微笑んで、私の目元に唇を寄せた。
「私の持てるすべてで、あなたを慰めよう」




