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奥様の竪琴があれば、きっと

 午後九時を知らせる鐘が鳴ってから、二時間ほど経っただろうか。星の明るい夜だった。

 ヘリアス様に竪琴を褒めてもらえた私は、いつか来るだろうその日に備えて、部屋で竪琴の練習をしていた。

 しばらく夢中になって演奏していると、控えめなノック音が響いた。演奏を止める。


「夜分遅くに申し訳ありません。ラインです」

「ラインさん?」


 椅子の背もたれに竪琴を立てかけて、私は急いで扉を開いた。

 扉の向こうには、申し訳なさそうな顔をしたラインさんが立っていた。


「何かありましたか?」

「ヘリアス様の件で、奥様のお力をお貸しいただけないかと」

「ヘリアス様に何か?」

「ええ、それが……寝つきが悪いらしくて」

「え?」


 ラインさんが悪戯っぽく笑った。身体から、がくっと力が抜ける。

 何かあったのかと、必要以上に警戒してしまったのがちょっと恥ずかしい。


「奥様の竪琴があれば、きっとヘリアス様もよく眠れるでしょう。ずっとあなたの竪琴を聴きたがっておりましたから」

「ヘリアス様が……」


 迷ったのは一瞬で、私はすぐに竪琴を持って、ヘリアス様のもとへ向かった。

 私の竪琴で寝つきが良くなる保障はないけれど、少しでもお役に立ちたかった。それに……。


(竜の歌を歌え、と言われるよりかは、ずっと気が楽だわ)


 私は密かにため息をつく。私は、竜の歌が歌えない。

 竜の歌は、古代文字を使用した竜の恋の歌。この世界の人間なら誰でも知っている、代表的な恋の歌だ。


(恋とつくものすべてを忌避しているわけじゃない、つもりなんだけど……)


 心までは騙せないらしい。私は、ウィル様に離縁されてから一度も、竜の歌を歌うことができなくなっていた。

 まだ気にしているのか、と思われるのが嫌で、就寝前にこっそりと歌う練習をしている。今のところ、練習の成果は発揮できていない。


「奥様」


 私の前を歩いていたラインさんが立ち止まり、なぜかヘリアス様の執務室の扉を開いた。

 ヘリアス様の部屋に案内されるかと思っていた私は、疑問に思いながら部屋に入る。

 執務室は無人で、ろうそくの明かりだけが薄暗い室内をぼんやりと照らしている。

 ラインさんは、執務室の隣にある部屋の扉を少しだけ開いた。


「ここの仮眠室で寝ているんですよ」

「え? 自分の部屋で寝ないのですか?」

「仕事人間ですから、起きてすぐ執務室の椅子に座らないと気が済まないらしくて」

「本当ですか?」

「いえ、冗談です」

「じょ、冗談ですか」


 ラインさんは悪びれる様子もなく笑っていた。

 でも、その冗談のおかげで、強張っていた身体から力が抜けた。

 ラインさんは扉の隙間から中の様子を窺いながら言った。


「近頃は、部屋に戻っても夢見が悪いからとギリギリまで仕事をして、仮眠室で寝てしまうそうです」

「頻繁に悪夢を見てしまうなら、お医者様に相談した方が……」

「一度診てもらったのですが、中々改善されなくて。ヘリアス様は奥様の竪琴を気に入っていらっしゃるので、きっと心が落ち着くはずですよ」


 そう言って、ラインさんは仮眠室の扉の前に椅子を置いた。


「寝ている姿をあなたに見られるのは恥ずかしい、とかごちゃごちゃ言いそうですからねぇ。申し訳ありませんが、ここで弾いていただいてもよろしいですか?」


 ラインさんの顔には、私への気遣いの色が浮かんでいた。

 キントバージェ家の娘を警戒している、というよりも、私がヘリアス様とふたりきりになって緊張しないようにと気遣ってくれたのだと思う。

 ラインさんは「近くにいますので」と言い残して部屋から出ていった。

 彼の気遣いに感謝して、私は椅子に座った。小さく息を吐いて、吸って……弦を弾く。

 扉の隙間から、時折獣が唸るような声が漏れ聞こえる。

 今も悪夢を見ているらしい。


(ヘリアス様を苦しめる夢って、もしかして五年前の……?)


 深い思考の海に沈みそうになって、その考えを振り払うように首を横に振る。 

 過去を探られることを、ヘリアス様は望まないから。

 せめてこの音色が慰めとなりますように。それだけを願い、私は無心で竪琴を奏でた。

 けれど、どれだけ無心でいようとしても、考え事は泡のように浮かんでくる。


(エアル。あなたもこの歌が好きだったね)


 愛しい火の竜の声が聞こえない。あの声を忘れてしまいそうで怖かった。

 元気だろうか。甘えん坊なところがあるから、寂しがっていないかな。

 ヘリアス様のための音色は、いつしか切なげな音の粒となって部屋を満たしていた。


「あなたか」


 私は声なき悲鳴を上げて、椅子に座ったまま飛び上がった。

 鼓動が早くなり、じわっと全身に汗が噴き出す。


「お、起こしてしまいましたか?」

「いや、元々眠りは浅かった。よければこちらへ来てくれないか」


 冷厳さを帯びた声が、いつもより穏やかに響いた。疲れて力が抜けているのかもしれない。

 私はひとつ深呼吸をしてから、仮眠室の扉を開いた。


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