契約上は夫婦なのだから
「なぜ、ここにいる」と隣に立っているラインをにらむと、ラインはあきれたように笑った。
「侍従に対してその発言は理不尽すぎでしょう。俺は職務をまっとうしているだけなのに。そんなトゲトゲしていると、奥様が苦労なさいますよ」
「やかましい」
ラインが肩をすくめる。そのまま離れようとする気配がして、私はとっさに口を開いていた。
「言えば、喜ぶか?」
ラインはぱちぱちと目を瞬かせた。
ラインに訊ねたのは間違いだったかもしれない。後悔が脳裏を掠めるが、正直彼以上に信頼を置く部下もいないため、仕方なくだ。
落ち着かない気持ちで返答を待っていると、ラインはからかうわけでもなく、意外なほどあっさりとした態度で「もちろんですよ」とうなずいた。
「では、近くにいますので」
そう言って、ラインは去っていった。私の姿が見える場所には控えているだろうが。
私はもう一度、彼女の方へと視線を戻した。まだ私に気づいていない。
(言えばいい。契約上は夫婦なのだから、少しくらい夫婦らしくするべきだろう)
思ったことを伝えるだけで、なぜこんなにも言い訳じみたことを考えるのだろう。
妙に落ち着かない気分になりながら、私は彼女の方へ歩み寄った。
すると、彼女の青い瞳がこちらを向いた。その瞬間、大きく見開かれる。怯えにも似たその表情に、すっと胸の奥が冷えていく。
(そうだ……忘れていた。誰もが私を恐れる)
この人も他の令嬢と同じだ。
私を見て、まるで化け物でも見たような顔をする。
事実、化け物と相違ないと自覚しているため、普段は他人からの視線など気にしたことがなかった。
だが、今日はなぜか、彼女の視線がチクリと胸を刺して、失望にも似た気持ちが湧き上がる。
彼女が口を開く前に立ち去ってしまおう。
「すまない。邪魔をするつもりは――」
「寝ます!」
「は?」
思わず間抜けな声が漏れた。
彼女はあせった様子で、もう一度叫んだ。
「ちゃんと寝ます!!」
「あ、ああ……どうした突然」
「ヘリアス様が何度も休めと声をかけてくださったというのに、私が休息をとらないので怒っていらっしゃるかと……。申し訳ありません、ここでの仕事が楽しくてつい! この子の散歩を終えたら、すぐに寝ますから!」
「そうか。べつに怒ってはいない」
「そ、そうでしたか」
そうだ、私は怒っていない。
私の感情を誤解されるのは、何となく不快だった。
彼女はほっと安心した顔をして、首を傾げた。
「もしかして、他に何かご用でもありましたか?」
その顔に恐れの色は見当たらない。生まれたばかりの無垢な竜にも似た大きな瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
私は彼女の変わらない態度に、内心安堵していた。
「竪琴を……」
「あ、はい。竜たちも気に入ってくれているみたいで、散歩や竜舎の中で弾いています」
「そうか。美しい音色だった。また、聴かせてくれないか?」
なぜだか、こんな要望ですら言葉に詰まりそうになる。この時ばかりは、口下手な己が恨めしい。
ちらっと彼女に視線を向けると、その白い目元が淡く染まっていて、ドクンッと鼓動が高鳴った。
「ありがとうございます。ヘリアス様が望まれるなら、いつでも……」
そう言って目を伏せる。照れているようだった。
あまりじっと見つめるのも失礼な気がして、私は視線をそらしながら、「頼む」と短く返事をして踵を返した。
(断られなかったな)
忙しいことを口実にして断るような人ではない。それに、私に恐怖し、脅されたようにうなずいたわけでもない。彼女の意思で承諾してくれたのは、気分が良かった。
無意識に誰かの視線を気にして、私は思わず口元を覆い隠していた。
「彼女は、私を恐れないのか……」
さくさく、と草を踏みしめていた足が止まる。
頭の中で午後の予定を確認する。
「少しくらい、時間はあるな」
再び歩き出す。
まるで、初めて武芸試合に勝った時のような高揚感を覚え、らしくもなく笑みが浮かんでいた。




