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いつかムネモシュネに口づけを8


 シセラ様が侍女を連れて城を去っていくのを見届け、私はほっと息をついた。


「竜医師」


 ヘリアス様に名を呼ばれ、はっと顔を上げる。

 その表情に凄みのようなものを感じて、内心ひやりとした。


「あの男に何を言われた」


 一瞬言葉に詰まりながら、私はゆっくりと口を開く。


「……ヘリアス卿のことで、何かお困りごとがあるのでは、と」

「まさか!」


 ラインさんが「信じられない」と目を見張った。

 ヘリアス様は眉を顰めた。


「ルイス様は、ヘリアス様に何かが起きていると勘付いていらっしゃるようです」

「嘘でしょう、あのやりとりだけで見抜けるものですか? よりによってあの人に……」


 ラインさんが嫌そうに顔をゆがめた。

 失敗してしまったかと、何となく沈んだ声になる。

 

「申し訳ありません。私のやり方がよくなかったのかもしれません」

「そんなことはありません! むしろナイスフォローでしたよ。これは侍従である俺に責任があります。彼の情報をヘリアス様に伝えていれば……」

「誰の責任でもない。それに、あなたの判断に助けられた。感謝する」

「あ、ありがとうございます!」


 真っ直ぐに感謝の言葉を伝えられて、頬が熱くなる。

 もっとヘリアス様のお役に立てればよかったのに、という悔しさもあるけれど、あの時はあれが精一杯だった。


「しかし、あの男、普通じゃないな」


 ヘリアス様はルイス様が去った方向に視線を向けた。


「まったく感情の揺れを感じない。厄介な竜騎士だ」

「竜騎士なのですか?」

「歩き方を見ればわかる」


 私にはその違いはわからないから、素直に感心してしまう。

 それにしても、先ほどのルイス様の発言が気にかかる。


 もし、ヘリアス様のかすかな表情の変化に気づけたとして、彼に何らかの異変が起きていると見抜けるものだろうか。

 ルイス様とは、何者なのだろう。


 ヘリアス様もわざと威圧的に接して、相手の出方を探っていたはずだ。それでも底を見せなかったルイス様の異様さに、不快そうに眉を寄せている。


「ルイスの動きに注意し、報告しろ。竜品評会や教会の巡察を口実に、こちらの状況を探っているはずだ」

「かしこまりました」


 ラインさんに指示を出しているヘリアス様の姿を眺めながら、私は先ほどのシセラ様とヘリアス様のやりとりをぼんやりと思い出していた。


 シセラ様の手袋に包まれた細い指が、ヘリアス様に触れる。

 その光景が頭から離れなくて、激しい不快感を覚える。

 それに、「お兄様に求婚された」という言葉も、ずっと胸に引っかかっている。


(本当に、ヘリアス様が求婚したのかしら)


 何だか疑わしい話だったけれど、一年以上前のこととなると、今のヘリアス様には記憶がないから確かめようがない。

 でも、ラインさんなら知っているかもしれない。今は忙しいと思うから、あとで聞いてみよう。


 それまでは……心に根付いてしまったこの小さな不安の種を、芽吹かせないようにしないと。


(シセラ様からの情報だけを鵜呑みにするのは危険すぎる)


 冷静にならなきゃ……。気づけば、ヘリアス様に触れられた左肩に手を添えていた。

 あの熱を思い出すとじわりと心が癒され、自然と口元が緩んだ。

 ルイス様から庇ってくれただけで、それ以上の深い意味はなかったと思う。


(それでも、あの方の熱を感じられたのは、嬉しかった。たとえ、私への気持ちがなかったとしても)


 そう心を慰めていると、こちらを見つめるヘリアス様と目が合った。

 左肩に触れたまま、にやにやしているところを見られてしまった。

 さあっと顔から血の気が引いていくのを感じる。慌てて肩から手を離したけれど、もう遅い。


(み、見られた……! この女、気持ち悪いって思われた!?)


 ヘリアス様は、露骨に不快を示しているわけではなかったけれど、どこか怒っているような表情をしていた。

 ああ、どうしよう。胸が締めつけられるような痛みが走る。


(せっかく竜医師として認めてもらえそうだったのに)


 「夫婦生活を求められても困る」と言われたばかりだ。

 いきなり好意を向けられて、「気持ち悪い」「不快だ」と思われるのは仕方がない。

 それでも、ヘリアス様への恋心を否定されるのは、やっぱり怖かった。


「申し訳ありません」

「なぜ謝る」

「私の行動のせいで、あなたを不快にさせてしまったのかと。気をつけます」


 言い訳も思いつかず、そもそもこの方に隠しごとをするつもりもなかったから、正直に謝罪する。

 謝罪を受けたヘリアス様は、少し面食らったような表情をしていた。


「そんなことは思っていないが」

「本当ですか?」

「ああ。ただ、気になっただけだ。あなたは笑っていた」

「そ、それは……」


 まるで尋問を受けているような気分になって、額に変な汗が噴き出す。


「いいことでもあったか」

「はい……」


 私にとっては間違いなく──。そう思ってうなずくと、ヘリアス様の視線が鋭さを増した。

 かと思えば、ふっと口元に笑みを浮かべた。


「なるほどな」


 そうつぶやく声は、どこか寂しげだった。その理由がわからず、妙な罪悪感に襲われる。


「竜医師、あなたは……」

「はい」

「いや……先にティロを治療するといい」


 ヘリアス様は急に気を変えたように、私の腕の中のティロを見て言った。

 私は不思議に思いながらも、「わかりました」とうなずく。


「では、私は簡易治療室に向かいます。のちほど、報告書を提出します」

「いや、あとで簡易治療室に立ち寄る」

「わかりました。では報告書はその時に」

「ああ。では竜医師――」


 突然右手を取られ、ぐっと強く引き寄せられた。

 間近に迫ったエメラルド色の瞳には、怒りにも悲しみにも似た色が渦巻き、夜空の星のようにぎらぎらと瞬いていた。

 場違いにも、綺麗だと見惚れてしまう。ドクンドクンと鼓動が高鳴る。


「あなたに聞きたいことがある。また、あとで」


 強くにぎられた手は、意外なほどあっさりと離された。

 彼はそれだけ言い残すと、こちらに背を向けて去っていった。


 私はしばらく呆然と立ち尽くしていたけれど、はっと我に返り、「ピィピィ」と鳴くティロを両腕で抱え直した。


「聞きたいことって、何かしら?」


 というか、あのヘリアス様の複雑な表情。やっぱり怒っていたのかしら。


「私、何を言われるの?」

「ピィ!」


 声をかけられたと思ったのか、腕の中のティロが私を見上げながら鳴いた。

 芽生えた不安には見ないふりをして、私はティロを見下ろして微笑んだ。


「あなたのベッド、作ってあげるからね」



 

次回更新は11/8です。

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― 新着の感想 ―
ヘリアス様記憶喪失になって招かれざる客が複数人来てと不安が募りそうなところでしたが、ヘリアス様の初恋がだいぶダダ漏れなのとフィルナさんが聡明で片方だけの情報で断定しないのとでとても安心して読み進められ…
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