妻が働きすぎる
「失礼します」
「どうした」
「はい、実はアンカーが深夜に発熱し、奥様が対応されたようです。その報告書の提出に参りました」
「熱だと? 状況は」
アンカーとは水属性の竜の名前だった。
私が思わず身を乗り出すと、補助竜医師は驚いたように後ろにのけ反りながら、「問題ありません」と慌ててつづけた。
「熱は下がって体調も安定しています。奥さまの迅速な処置のおかげです」
「そうか……。それで、彼女は今どこにいる」
それを訊ねると、補助竜医師は気まずそうに視線をそらした。
「竜舎の掃除後に、竜たちを散歩に連れていきました。今も外に……」
「一度も部屋に戻らずに?」
「はい」
「つまり、また徹夜をしたということか?」
「お止めしたのですが……申し訳ありません」
私の深いため息に、補助竜医師は申し訳なさそうに身を縮める。
彼を責めているわけではない。怒っているわけでもない。ただ、困り果てているだけだ。
元婚約者を働かない令嬢とするならば、フィルナ・キントバージェは働きすぎる令嬢だった。
(誰がそこまでしろと……)
私は報告書の山から視線をそらし、気分転換も兼ねて腰を上げた。
◇◇◇
竜舎に向かう私の姿を見て、擦れ違う使用人たちがぎょっとしている。
恐らく、ラインが言っていた「怖い顔」になっているのだろう。
その理由が、「新しい妻が働きすぎて困っている」だなんて、少し前の私が聞けば鼻で笑われる話だ。
少し前、まだリスティーと婚約していた頃。
私は彼女に、「アルトリーゼ家に来たからには、竜医師としての義務を果たせ」と言ったことがある。あの女は「そんな言い方はひどいわ! 言われたことはきちんとやっています! 竜舎に行かないのは、その、臭いがひどくて頭痛がするからです!」と、とても竜医師とは思えない言い訳をした。
だからこそ、まともに竜に近づけず、意思疎通すらできないリスティーがウタヒメに覚醒した、という話がいまだに納得できない。
そんな元婚約者と違って、今の妻はとにかく働きすぎだった。
契約結婚初日には、「竜を観察するため」という理由で、竜舎の冷たい床の上に布を敷いて眠っていた。それに気づいた部下が慌てて私に報告しにきた時は、何事かと思った。
竜への献身が度を越しているようにも思えるが、竜と向き合う姿勢には好感が持てるし、竜医師としての腕前も申し分ない。
竜にかまけて女主人としての仕事をおろそかにしているわけでもなく、経験が浅いなりにもしっかりと使用人たちを管理しているようだった。
しかし、気づけば竜舎にいるところを目撃されていて、その頻度の多さから「いつ眠っているのかわからない」と侍女から報告を受けたため、「身体を大切にしろ」とわざわざ注意したくらいだ。
彼女はきょとんとした顔をして、
「ご心配おかけして申し訳ありません。でも、あと少しだけ……この子たちの寝顔を見ていたいのです」
と微笑まれた時は、何も言えなくなってしまった。
まさに、私が望んだ竜優先の竜医師だ。不満などない。
そのはずなのに、私は彼女が自分自身を蔑ろにすることに、ひどく苛立っている自覚がある。
「今度こそ部屋で寝てもらうぞ」
私は竜舎を通り過ぎて、第一放牧場へと向かった。
爽やかな風が追い風となって、私の背中を押す。
その風に乗って空に飛び立つ竜と竜騎士の姿があちこちで見受けられた。
それ以外の竜は、のんびりと草の上で寝転がっている。
第一放牧場へ近づくにつれて、馴染みのある音色が聞こえてきた。
「竜の歌?」
竜のそばで、竜の歌が歌われることは珍しくない。その旋律は時に竜を癒し、鼓舞するためのものだからだ。
しかし、聞こえてくる竜の歌は、弦楽器特有の音色をしていた。
音色に誘われるように放牧場の柵を越えると、お目当ての人物がすぐ目の前にいた。
彼女は、自分のあとについて来る水属性の竜を見上げながら、竪琴を弾いていた。
リスティーの甲高いだけの歌声は煩わしいとすら感じていたのに、不思議と彼女の竪琴は心地良く響いた。
(だが、なぜ歌ではなく竪琴を?)
疑問には思ったが、邪魔をするつもりはないので、私は無言で彼女の姿を眺めていた。
彼女は水色の竜を見上げて、ふっと目を細める。春の日差しのような、柔らかな微笑みだった。
「もう少し遊ぶ?」
竜は甘えるような高い声で鳴いて、ごろごろと草の上を転がり始めた。彼女は「そっか、楽しいね」と甘やかすように笑った。
微笑ましい光景だった。竪琴の音色が途切れてしまったのは、少し残念だったが。
「もっと聴いていたかった」
「本人に言えばよろしいのでは?」
独り言に返答があった。そういえば、ラインがいることを忘れていた。




