人喰い竜21
冷静を装うなど、久方ぶりの感覚であった。
フィルナが行方不明となったと、侍女のシーラから話を聞いた時、一瞬、時が止まったようにも感じた。
涙と汗で顔をぐちゃぐちゃにした彼女は、身体中傷だらけだった。
領主の追跡から逃れながらも、フィルナを必死に探していたのだろう。
私はすぐに、彼女に適切な治療を受けさせるよう指示を出した。
これからすぐに、フィルナの捜索に向かう。
「大丈夫ですか」
ラインの左目に気遣いの色が浮かんでいた。
「問題ない」とうなずく。
瞑想から覚めたかのような気分だ。
身体は無意識に戦闘の準備を進めていたが、話しかけられるまで、フィルナのことを考えつづけていた。
「彼女は強い人だ」
まるで言い聞かせるような響きに、自嘲気味に笑う。
「ええ、もちろん。ですが、信じるのと同じくらい、心配していたっていいでしょう」
「必要ない。心配や不安などは侍女がしているだろう。私はただ、彼女を信じればいい」
「あきれましたね。誰よりも心配しているくせに」
否定はしない。
私とラインはこれから、フィルナを捕らえた可能性のある領主の屋敷に乗りこむ。
あの男がフィルナの髪に触れる光景を想像してしまい、剣の柄をにぎる手に力がこもる。
(領主は殺す)
宿屋の扉を荒々しく開いて外に出る。
近くにいた島民たちが私を見て顔を青ざめさせたが、構っていられない。
その時、「領主様」と呼びかける声が聞こえた。
そちらに視線を向けると、どこかあせりをにじませた領主が、部下の男たち三人を連れてこちらに向かってくるのが見えた。
「領主様! 魔物が押し寄せてくるんです!」
「この島はどうなるのですか!?」
不安そうにする島民たちに囲まれた領主は、穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫。アネシドラー様に祈れば、すべて解決してくれますよ」
「ですが……!」
「申し訳ありませんが、今は急いでおりますので」
そう言って、彼は私をにらみながら近づいてきた。本性を隠す余裕すらないらしい。
それはこちらも同じことだが。
「これは領主様。ようやく会えましたね。この混乱のさなか、随分と長い間お祈りを捧げておられたようですが」
そう言って領主を出迎えると、彼は苛立ったように頬を引きつらせた。すぐに作り笑いを浮かべる。
「……フィリス先生とお話がしたいのですが」
その発言で、フィルナが捕まっていないことが判明し、内心で安堵する。
島民たちが不安そうに見守る中、私は商人の顔をして答えた。
「彼女は体調を崩し、今は眠っております」
「そうですか。ですが、どうしても聞きたいことがありまして」
「私が代わりにお聞きいたしましょう」
「いいえ、直接話がしたい」
相手は観光客だからと、随分と強気な態度だ。
(検死官を殺害したところを目撃されたからと、堂々と口封じをしに来るとは)
領主の権限があれば、女ひとりどうとでもできると、そう言わんばかりだ。
私は素早くラインに目配せした。
ラインは「心得た」とうなずき、さり気なく領主の視界から外れる。
「領主様、妻から伝言がございます」
「な、何ですか」
食いついた。素直な男だ。
「宿屋の周辺から、大量の石が見つかったのだと」
そう言って、近くにある荷車の方に視線を向ければ、領主はわかりやすく反応を示した。
荷車には布が被せられているが、布を押し上げるようにゴツゴツとした輪郭が見える。
そのそばにはラインが立っていて、にこにこと上機嫌に微笑んでいる。
「これは、すごい量ですね」
領主の声には喜色がにじんでいる。
先ほどまでの殺気はどこへいったのか。今はただ、目の前の蜜に夢中だった。
「妻は、この石が魔物を呼び寄せていると考え、海へ捨てるべきだと言っているのです」
「はあ!?」
最早、取り繕うことをやめたのか、領主は「正気か?」と言いたげな顔をした。
「待ちなさい! そんなことをしなくとも、アネシドラー様に祈りを捧げれば解決する話です!」
「祈りを?」
「ええ、そうです。フレデリックさんたちもご一緒にどうぞ。私の屋敷の地下に、アネシドラー様の神殿がございます。そうですね……」
領主はぐるりと島民たちの顔を見回し、ひとりひとり名を呼んだ。
「今呼んだ五人は、アネシドラー様の加護が与えられた者たちです。そしてフレデリックさん、そしてヴィクトルさん。あなたたちも一緒について来ていただけますか? アネシドラー様の加護を授け、魔物からお守りしましょう」
「呼吸をするように嘘をつくのだな。詐欺師としては一流だ」
何を言われたのかと、領主は一瞬言葉を失い、それから怒りに顔をゆがませた。
「さ、詐欺師だと!? このアネシドラー様の代弁者たる私を愚弄するのですか!? 神への冒涜だ!!」
「魔物を神と崇める趣味はない。そこの選ばれし五人と違って、私たちは魔物への生贄となるつもりはないぞ」
その瞬間、島民たちがショックを受けたようにどよめいた。
「生贄って……」
「領主様、俺たちを魔物の生贄にするつもりなのですか?」
島民のひとりが問いかけると、領主は明らかに動揺を浮かべた。
「まさか! そんなことをするはずがありません。アネシドラー様の代弁者である私よりも、外から来た商人の言葉を信じるというのですか?」
島民たちは顔を見合わせ、そして少し申し訳なさそうな表情で領主を見た。
「だってなぁ……海から魔物が来た時も、助けてくれたのは旦那だし」
「領主様の屋敷に行っても、どこにもおられないし……」
島民たちは次第に怪しむような目つきで、領主を見た。
「フィリス先生が石を捨てろって言うなら、捨てた方がいいだろ」
島民のひとりが荷車に近づこうとした瞬間、領主がかっと目を血走らせて怒鳴った。
「その結晶はアネシドラー様の恵みだ! 触るな!」
島民たちは領主の豹変に、ぎょっとしたように硬直した。
「紫色の結晶は神からの恵みです! 捨てると天罰が下りますよ!」
「そうか、そんなに欲しければくれてやる。神の恵みとやらをな」
私がラインに視線を向けると、彼はこくりとうなずき、荷車の布を取り払った。
そこには切り出した木材が積んであり、領主はぽかんと目と口を開いた。
「紫色の結晶と言ったな」
領主がはっと我に返り、私を見た。
「私は『石が見つかった』と言っただけだ。さすがは神の代弁者、それが光り輝く結晶に見えたのなら、素晴らしい想像力だ」
「き、貴様……!!」
「ほ、本当に旦那が言った通りなのか? 領主様がその結晶のために人間を、生贄に捧げてるって」
島民たちは化け物でも見るような目で、領主を見た。
「な、なぜそのような目で見るのですか?」
領主は突然、狼の群れに放りこまれたかのように、慌てふためき、頬を引きつらせた。
「彼らには現在の状況と、貴様の行いのすべてを伝えてある。私の言葉を裏付けてくれたことを、心から感謝しよう」
領主は一瞬、私に激しい殺意の目を向けたが、すぐに微笑みを浮かべ、島民たちを見回した。
「何を吹きこまれたのかは知りませんが、騙されてはなりません。高貴な生まれであるこの私を貶めれば金になるとでも考えたのでしょう。島の外から流れてきた薄汚い商人の男が考えそうなことです。いいですか? 私は誰よりもあなた方のことを考え、この島を守って――」
「素直に認めれば、これを返してやれたのに」
私が例の木箱を見せると、領主は顔色を変えた。
まるでそれ以外のものなど眼中にないというように、瞳孔がわずかに開いている。
私はその木箱を、近くの焚き火に放り投げた。
「あぁぁぁ!? エブリン!!」
領主は駆け出し、手を伸ばしたが、その指先が木箱に届くことはなかった。
木箱を取り込んだ炎は、歓喜するように激しく燃え上がった。
領主は炎に包まれる木箱を呆然と見つめ、それから顔を真っ赤にして怒声を爆発させた。
「貴様! よくも私のエブリンを! あの髪がどれほど私の慰めとなったのか、貴様は知らないのだろう!」
「ただの髪が何の慰めになる」
わざと煽るように言ってやれば、領主の目が血色に濁った。つばを飛ばしながら、私を責め立てる。
「あの女の絶叫がどれほど価値あるものだと思っている! あの髪さえあれば、私はいつだってあの女の死に際の悲鳴を思い出せるというのに! 貴様は万死に値する!」
「気色悪い男だな。とにかく落ち着け、本物はこっちだ」
私が本物の木箱を取り出すと、怒りにゆがんだ顔が、一瞬で青ざめた。
「一度ならず二度までも……貴様、私をはめたか」
「黙れ、勝手に自滅したようなものだろう。執着に振り回されるとは、詐欺師としても三流だったか。もう言い逃れはできまい」
島民たちの領主に向ける目には、最早畏れも敬意もなかった。
「エブリンを殺したってのも本当だったのか……!」
「人喰い竜の仕業だと言って、そうやって人を殺してきたんだろ!」
「嫌だ……本当に気持ち悪い!!」
「何がアネシドラー様の代弁者だよ、ただの殺人鬼じゃねぇか!」
かつて信者として支配される側だった彼らの目に宿るのは、激しい憎悪と軽蔑だった。
領主は彼らの態度に自分への敬意が失われたことを悟ったのか、今度は彼らを小馬鹿にするように笑った。
「傷ついた私の心を慰めるのは信仰か? 田舎の島ならではの奥深い雰囲気か? 違う……あの女の絶望した表情と悲鳴だよ。あの髪を口に含むたびに、その光景が思い浮かぶ……まるで極上の酒で喉を焼かれるかのような快感がほとばしるのさ」
女たちは悲鳴を上げて後退りし、男たちは得体の知れないものを見るように目を見開いた。
ラインも「うへぇ」と顔をゆがめていた。
領主は開き直ったように高慢な笑みを浮かべ、ゆっくりと手を上げた。
すると、領主の後ろに控えていた男たち三人が、一斉に銃を構えた。
島民たちが悲鳴を上げ、逃げようとするのを、「動くと撃つぞ!」と領主が脅す。
「いいか、よく聞け。貴様ら全員、魔物の餌にしてやる。助かりたかったら精一杯の命乞いをしろ。抵抗するなら……問答無用で撃ち殺す」
それを聞いた部下の男たちが、にやにやと不気味な笑みを浮かべた。
「俺は女を狙うぞ。逃げ回りながら悲鳴を上げるその背中に撃ちこむのが最高なんだよな!」
「俺は誰でもいいや。とにかくいつもみたいに殺していいんだろ?」
「こっちの商人は俺に任せろよ。楽には死なせねぇからよ!」
領主は満足げに微笑み、私を見て、勝ち誇った顔をして言った。
「所詮は下賤の者。金のために這いつくばって生きている虫けら風情が、この私に刃向うからこんな目に遭うのだ。貴様ら虫けらが二匹死んだところで、誰も気づきはしない。どれ、死ぬ前に正しい口の利き方を教えてやるとするか」
「結晶と女の髪に執着するだけの寄生虫に、教養があるとは思えんが」
「き、貴様! やはり貴様から撃ち殺してやる! こいつを殺せ!」
三人の男たちが「待ってました!」と言わんばかりに銃口をこちらに向けた。
「向けたな」
そうつぶやき、近くにいた男ふたりに肉薄した。
男たちは慌てて引き金を引く。銃声が上がる代わりに男たちの絶叫が響き、その場に転がった。
銃とともに、手首が地面に転がり落ちていた。
「おやおや、避難してきた子供たちの教育に悪いですよ」
ラインはそう言いながら、近くにいた男の腕を斬りつけ、地面に転がった銃を蹴り飛ばした。
「安心しろ。とっくに夢を見ている時間だ」
私は剣についた血を振り落とし、領主に視線を向けた。
領主は肩を小刻みに震わせながら、後退りした。