人喰い竜15
アヴァリーサ王国が滅びたことで、そこに生息していた野生の黒竜は絶滅したと言われている。
けれど、その黒竜が今、私の目の前にいる。
感動を覚える一方で、その大きな体格に似合わず痩せ細っていることに気づき、胸が痛んだ。
(この子、いつからこんな暗い場所にいるんだろう……)
周囲を確認しようと床を照らすと、白い骨が無数に転がっていて、ぎょっと息を飲んだ。
目を凝らすと、それは人間の骨ではなさそうだった。
背後を照らすと、そこには鉄格子がある。
どうやら私は、竜房の中に落ちてしまったらしい。
「あなたが、人喰い竜と呼ばれていた竜なの?」
問いかけると、黒竜は口の端をわずかに引きつらせ、低く唸り声を上げた。
(こんな場所に閉じこめた人間を、信用できるはずがないよね)
黒竜からは、はっきりとした怒りを感じた。けれど、怒りに任せて私を食べようとはしなかった。
やはり、この竜は人喰い竜ではない。
実際に人間を捕食しているのは、この島の魔物の方で、本来ならそちらこそが「人喰い」と呼ばれるべきだ。なのに、その魔物がアネシドラー様と呼ばれ、神として崇められているなんて、ぞっとする。
(自分にとって価値ある結晶を生み出す存在こそが神だと、そう言いたいのかもしれない)
私は小さく息をつき、これ以上黒竜を刺激しないように気をつけながら、ゆっくりと照明器具の光を動かし、その大きな身体を観察した。
普段私たちがよく目にする竜と黒竜の大きな違いは、その翼の形状にある。
ほとんどの竜はコウモリの翼によく似たものを持っているのに対し、黒竜の翼は鳥のように羽根で覆われていた。
ふと、足元に大きな黒い羽根が落ちているのが目に入り、一瞬で高揚感に包まれる。
(このふわふわの羽根、持って帰りたい! 触りたい、観察したい!)
興奮していると、羽根のそばで何かがきらりと光った。黒竜の鱗だ。
ポツポツと落ちている鱗をたどるように光を動かし、黒竜の足元へ。そして、その鋭い爪も確認した。
(アイラさんの部屋から見つかった竜の爪や鱗は、この子のものだったんだわ。だから私、今まで見たことがなかったんだ)
そうなると、この子を閉じこめているのはバトラール様ということになる。
(そうか……本物の竜がいたから、この島には魔物が寄りつかなかったんだ。この島に棲む魔物も、竜の存在である程度行動が抑えられていたし、定期的な生贄があったから、島の人間すべてを襲うことはなかった……)
この島はアネシドラー様に守られているのではなく、竜によって守られている――その事実を隠すために、黒竜を地下に閉じこめていた。そういうことなのかもしれない。
謎が解けて胸に広がったのは達成感ではなく、怒りだった。
黒竜の力をただ利用するためだけに、こんな暗くて自由のない地下に閉じこめているなんて……。
「許せない……!」
黒竜を、ここから逃がす。
ただ、島の魔物が暴走するおそれもある。その対策は考えなければならない。
それでも、この子をこんな暗い場所に閉じこめておく理由はない。
その時、足の下で小さな骨がぱきりと折れる音がした。
反応した黒竜が、私に向かって激しく咆える。
風圧で前髪がめくれ上がり、鼓膜がビリビリと震える。思わず目を閉じそうになって、何とか耐えた。
人間を食べることはないと思うけれど、威嚇に怯んだ隙に攻撃される可能性はある。
私は黒竜から視線をそらさないよう注意しつつ、持ってきていた竜笛を吹いてみた。
黒竜は、一瞬だけ威嚇を止めた。
(この子、訓練を受けたことがあるんだ……!)
竜医師の訓練を受けたことがあるのか、または相棒がいたのかもしれない。
その時、黒竜がはっとしたように顔を上げた。
何だろう? そう思い、鉄格子の向こうを照らしながら耳を澄ますと、かすかに足音が聞こえた。間違いなく、こちらに近づいてきている。
(誰か来た!)
慌てて周囲を見回す。隠れる場所がない。
もしかすると、バトラール様の追っ手がここまで探しに来たのかもしれない。
私は照明器具を消し、ゆっくりと黒竜の背後へ回り込んだ。
幸い、黒竜の意識は足音の方に向いているらしく、私が移動しても気に留めていない。
近くに落ちていた騎兵銃を拾い、完全に黒竜の背後に隠れる。
足音が大きくなり、鉄格子の向こうがかすかに明るくなる。
すると、黒竜が鉄格子の方へ歩き出したので、私はあせりを覚えながらついて行く。
ついに、足音が鉄格子の前で止まった。
「おい」
男性の声が響き、心臓がドクンと跳ねる。
聞き覚えのある声だった。
(この声……ジャックさん?)
黒竜の背後から、そっと鉄格子の向こうをうかがうと、そこにはジャックさんと、あの狼の姿があった。
(どうしてジャックさんがここに?)
一瞬、助けを求めようかと考え、首を横に振る。
この黒竜は、間違いなくバトラール様によって地下に閉じこめられているはずだ。
考えたくはないけれど、彼がバトラール様と繋がっている可能性を、捨てきれない。
(もし仲間だったとしたら……アイラさんがバトラール様に狙われていたことを知りながら、黙認していたということにもなるけれど……)
彼の考えがわからない。私は息を潜め、気配を消した。
「この島に魔物が集まってる。お前が呼び寄せているのか?」
ジャックさんが鋭く問いかける。
黒竜は苛立ったように鉄格子に角をぶつけ、「ウー」と低く唸った。
「……ほらよ」
ジャックさんが鉄格子の隙間から何かを放り投げ、それが床の上に転がった。
解体された鹿の足だ。
黒竜はその鹿の足にかぶりつく。
狭い隙間から次々と解体された鹿の肉が放りこまれ、そのたびに尻尾が揺れて、ぶつかりそうになる。
食事の時間はあっという間に終わり、黒竜は物足りなさそうにジャックさんを見つめている。
食事量が少なすぎる。だから、ずっとお腹を空かせているんだわ。
「ん? どうした、ソル」
ジャックさんが相棒の狼に声をかけた。
ソルと呼ばれた狼が、こちらを見ている気がする。
(ど、どうしよう……においでバレちゃったのかも)
私は無意識に呼吸を止め、さりげなく騎兵銃に視線を落とす。
残りはあと五発。
(もし彼が、私を攻撃してきたら?)
撃てるの? アイラさんのお父様を……。
「また置いていくの?」
恨みとともに、どこかすがるような感情をにじませるアイラさんの声がよみがえる。
「人の生死を支配できると思い上がるな。武器を持つということは、殺す権利だけではなく、殺される権利を得るということだ」
騎兵銃の撃ち方を教えてもらった時の、ヘリアス様の言葉が頭の中に響く。彼は厳しい眼差しで、私を見つめていた。
この瞬間も、ジャックさんの矢が私を狙っているかもしれない。
私は必ずヘリアス様のもとへ帰る。そのためには……ここで殺されるわけにはいかない。
(お願い。何も起こらないで……!)
痛いくらいの沈黙が流れ、背中に冷たい汗が流れ落ちる。
その時、私の足元にネズミが走った。私の顔ほどの大きさがあり、思わず叫びそうになったけれど、必死にこらえる。
それを、黒竜が逃さずバクリと食べた。
「ネズミか」
ジャックさんはそうつぶやくと、ここでの役目を終えたのか、照明の明かりが遠ざかっていった。
完全に足音が消えたところで、はあっと深いため息をつく。
「よかった」
騎兵銃を持つ手は震え、汗でびっしょりと濡れていた。