人喰い竜14
「これでとりあえず、トーマスの死体と合わせてふたり分の供物は捧げたが、まだ足りないだろう。近頃は要求してくる供物の数が増えたからな……くそっ、面倒だな」
バトラール様が悪態をついてこちらを向いた。
一瞬胸の奥がヒヤッとしたけど、見つかったわけじゃないみたい。
(あの口ぶりだと、エマさんは捕まってなさそうね)
内心安堵する。
すると、嫌がらせをしていた男性のうちひとりが、おずおずと口を開いた。
「領主様、まだ供物が必要なのでしょうか?」
「当然だ。供物を与えないと、アネシドラー様は勝手に人間を襲い始めるからな。島の人間に見られるわけにはいかない」
バトラール様はしばらく黙考し、にやりと口角を上げた。
「よし、お前たち。今すぐあの宿屋に向かってフィリスを攫ってこい」
突然私の名前が飛び出して、ドッと心臓が嫌な音を立てた。
シーラが「ふざけないでくださいよ!」と小声で怒りを露わにしている。
「で、でも、あの女のそばには、腕の立つ男がふたりもいまして……」
「何のために銃を渡したと思っている。それであの生意気な商人の男を撃ち殺せ! そして、旦那の死体の前で、あの女を辱めてやる。領主であるこの私の女になれるのだから、これほど名誉なことはないだろう?」
そう言って、バトラール様は邪悪な笑みを浮かべていた。
一瞬、頭の奥がかっと熱くなったけれど、すぐに冷静になれた。
ヘリアス様が、こんな人たちに負けるわけがない。
ただ、私が人質になれば、彼の足を引っ張ってしまう。それだけは避けなければ。
長い銃身を持った男性がにやにやと笑っている。銃を持っているのは彼だけだと思う。
「さあ、好きなだけ暴れてこい。なぁに、また『人喰い竜が出た』と言えば、馬鹿な島の人間は信じるさ! アハハ!」
私はシーラと目配せをして、ゆっくりと後ろに下がる。
その時、目の前に顔と同じくらいの大きさの蛾が舞い上がった。思わず悲鳴を上げそうになったけど、私もシーラもとっさに口を押さえた。
だけど、あまりにも大きな虫の存在に、男性たちの視線がこちらへと向いてしまった。
「だ、誰だ!?」
まずい。そう思った瞬間、パンッと発砲音が響き渡り、一瞬目を閉じてしまった。
身を隠していた木のずっと上の方に弾が命中したらしく、抉れた破片がわずかに降り注いでくる。
「フィリスは殺すな! 一緒にいるやつは殺せ!」
バトラール様が嬉々とした表情でそう命令すると、男性たちはナイフを持って突進してきた。
その後ろで、唯一銃を持っていた男性が、銃口から火薬を入れようとしているのが見えた。
(前装式の歩兵銃。装填に時間がかかるはず)
私は背負っていた騎兵銃を構え、雄叫びを上げて迫ってくる男性の左足を撃った。
突然悲鳴を上げて崩れ落ちた男性に足をとられ、別の男性が転倒する。
次の弾丸を装填しながら、私は叫んだ。
「シーラ、走って!」
「はい!」
つづけて発砲する。弾丸を装填しようとしていた男性は悲鳴を上げて、右肩を押さえた。
二連続の命中は彼らを怯ませたらしく、一瞬足が止まった。
足止めできたことを確認し、私もシーラの後につづいて走った。
「お、おのれ! 必ずお前を捕らえて、この私が直々に天罰を下してやるからな!」
背後でバトラール様の怒声が響く。
私は振り返らず、シーラの後につづいて草をかき分け、必死に走った。
早くこのことをヘリアス様にお伝えしなければ……!
山道を駆け下りていると、地面が大きく揺れ始めた。
(地震!? 魔物が移動し始めた!?)
シーラが私を呼んでいるけれど、地響きがそれをかき消してしまう。
「私はいいから、早くヘリアス様のもとへ!」
声が届いたのかわからない。
とにかく走らないと……! そう思って前に一歩踏み出した瞬間、ぼろっと足元が崩れ、宙に浮くような感覚がした。
「え……」
草が地面ごとごっそりと落ちていく様子が目に入った。
どれほどの穴が空いたのかわからないけれど、私は暗闇の中へと落下し始めた。
全身を襲う浮遊感と、この先で待ち構えているであろう魔物を想像して、自然と悲鳴が喉からあふれる。
このまま魔物の口の中に落ちてしまうの? 恐怖に思考が支配されそうになったその瞬間、何か硬いものに背中から叩きつけられ、息が詰まった。
木の板だろうか。背中の下からバキッと嫌な音がした。
(私の骨じゃないよね……)
全身を襲う衝撃と激痛のせいで、その判別はできない。
とりあえず、落下は止まった。
どうやら魔物の口の中じゃないみたい……とほっとしたのも束の間、バキバキと音を立てて木の板が砕け、私の身体はさらに闇の底へと落下した。
落下途中でガンッと硬い何かにお尻がぶつかり、「痛い」とかじゃなく、「うわっ!?」と叫び声を上げてしまった。
バンッと硬い板の上にうつ伏せで叩きつけられ、今度こそ落下は止まった。
「痛い……」
痛くない場所を探すのが難しいくらい、全身が痛みを訴えている。
何度か深呼吸をして呼吸を整え、痛みをこらえながら身体を起こす。
ひどい獣臭が漂い、思わずむせてしまった。
「ここ、どこ?」
暗くて何も見えない。
天を仰ぐと、私が落ちてきたと思われる穴が薄っすらと見えた。
他にわかることと言えば、足元が木の板であるということくらい。
私は痛みに呻きながらゆっくり立ち上がり、両手を前に伸ばしてよたよたと歩いた。
すると、手の平に冷たいものが触れた。
「鉄格子?」
私がそうつぶやくと同時に、生温かい息が首筋にかかり、無意識に呼吸を止めた。
耳元で獣の唸り声が聞こえる。
後ろに何かがいる。とても大きな生き物が……。
動けば殺される――そう思ってきつく目を閉じたけれど、私の身体に歯が突き立てられることはなかった。
(魔物じゃない?)
そこで私は、小さな筒型の照明器具を持っていたことを思い出した。
相手を刺激してしまう可能性もあるけれど、いつまでも置物のふりはしていられない。
私は照明をつけ、後ろを振り返った。床から天井に向かって、少しずつ照らしていく。
まず目に入ったのは、鎖が絡まった大きな足、そして大きな身体。鳥のように羽根の生えた翼。槍のように鋭い、特徴的な二本の角。
「竜だ……」
私はつぶやき、自然と笑みをこぼした。
普段目にしている竜とは姿が異なっているけれど、間違いない。
(信じられない……こんなところで出会えるなんて!)
私が竜の顔を照らすと、その竜はまぶしそうに目を細め、威嚇するように牙を見せた。
その体表は漆黒。亡国の竜――
「……黒竜!」
次回更新は10/2です。