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人喰い竜10

「この人は私の妻だ」


 「触るな」と、ヘリアス様は低い声を響かせた。

 バトラール様はわずかに目を見開き、謝罪を示すように胸に手を当てた。


「これは失礼いたしました。未婚の女性だと思っておりました」


 その発言に、背筋がぞくりとした。

 ヘリアス様は鼻で笑って言った。


「未婚の女性なら、同意なく触れても構わないと?」

「いえ、それは誤解です」


 バトラール様は困った顔をして笑った。


「お詫びと言ってはなんですが、ぜひ我が屋敷にも遊びに来てください。歓迎いたしますよ」


 彼はそう言って、ヘリアス様ではなくこちらに視線を向けた。目が合わないので、また髪を見ているらしい。


「ええ、また……」


 そう答えるのがやっとだ。

 観光客を装っていることもあり、強く拒否するのも躊躇われる。

 すると、ヘリアス様が探るような目をして訊ねた。


「先ほど、店主が拘束されていたな。先日も彼女は複数の男たちから嫌がらせを受けていた。この宿屋は何者かに狙われているらしいが、領主であるあなたは把握しておられるのか?」


 バトラール様は驚いたように目を見開き、それから悲しそうに目を伏せた。


「そうだったのですか……。何か力になれればよいのですが」


 『まったく知らなかった』という態度が逆に怪しさを強めていく。

 噂があっという間に広がる島の中で、領主であるバトラール様が何も把握していないなんて逆に不自然だ。

 ヘリアス様も同じことを考えたのか、その視線がいっそう鋭くなる。


「それともうひとつ。こちらは注意喚起だが、森の中を歩いていると、突然地面に穴が空いて驚いた」


 地面に穴が? 私は素早くヘリアス様の姿を確認する。怪我をしている様子はない。無事でよかった……。


「おや、そんなことがあったのですか? 申し訳ありません、すぐに確認させます」


 彼はヘリアス様から穴が空いた場所を聞き取ると、私たちに別れの挨拶を告げて去っていった。

 私とは違って、穴が空いたと聞いても、あまり驚いていない気がした。


「得体の知れない気持ち悪さを感じましたね」


 そう言って、シーラがぶるりと身体を震わせる。

 ラインさんも同意するようにうなずき、軽蔑するような笑みを浮かべた。


「死体のすぐそばで人妻を口説いて、髪を触ろうとするやつが領主様とは……笑えませんね」

「あなたは、あいつに近づかない方がいい」


 真剣な顔をして忠告をするヘリアス様に、私は返事をしながら大きくうなずいた。

 できれば、あんな目で髪を見てくる人には近づきたくない。

 バトラール様に指示をされた警吏たちが、トーマスさんの遺体を担架に乗せて運び始めた。

 それを見ていた島民たちが不審そうにつぶやいた。


「結局、トーマスは何で死んだんだ?」

「犯人はまだ見つかってないのに、やけにあっさり終わったわね。これからどうするつもりかしら?」


 そう、謎はまだ残ったままだ。

 トーマスさんが殺された理由も、その犯人もわからない。

 怯えていた検死官や警吏たちは、何か知っていると思うけれど。


「フィリスさん!」


 その時、アイラさんが目に涙を浮かべながら駆け寄ってきた。


「助けてくださり、本当にありがとうございました! あそこでフィリスさんに庇ってもらわなかったら、あのまま逮捕されているところでした!」

「私の知識が少しでもお役に立てて、本当によかったです」


 アイラさんは私の手を取って、嬉しそうに微笑んだ。


「あなたは恩人です。ぜひ、お礼をさせてください。宿泊代も食事代も、全部無料でいいです!」

「いえ、それはちゃんと払いますから」

「恩を返したいのです! どうかこの気持ちを受け取ってもらえませんか?」

「……わかりました。そのお気持ち、ありがたく受け取りますね」


 そう答えると、アイラさんは心の底から安堵したように、顔を綻ばせた。

 その笑顔を見ていると、彼女を助けられた自分が誇らしくなる。

 すると、島民たちが申し訳なさそうな顔をしながら声をかけてきた。


「アイラちゃん、本当にすまなかった。疑って悪かったね」

「いえ……宿の近くに遺体があれば、誰だって私を疑うと思います」


 アイラさんは少し悲しげな表情を浮かべつつ、それでも柔らかく笑って答えた。

 その笑顔に、島民たちの顔もほっとしたように緩んだ。

 場の雰囲気が少し和らいだ頃合いに、オリバーさんがにこにこと笑いながら言った。

 

「しかし、フィリス先生、まさかこういう事件でも活躍するなんてなぁ! 獣医さんって何でも知ってるんだねぇ!」


 それに賛同するように他の人たちも褒めてくれて、嬉しかったけれど、亡くなったトーマスさんを思うと、完全には喜べない。


(彼はなぜ殺されたのだろう……)


 トーマスさんの遺体が運ばれていくと、興味を失った島民たちは次々に帰っていった。

 そのうち数人は、「アイラちゃんに申し訳ないから」と宿屋の食堂へ向かうという。

 アイラさんは私に何度も感謝を告げてから、急いで宿屋に戻っていった。


 私たちも一度部屋に戻り、お互いの情報を共有することにした。

 先頭を歩くヘリアス様やラインさんにつづいて宿屋に入ろうとすると、誰かに服の裾をつかまれた。足を止めて振り返る。


「あなたは、エマさん?」


 そこには、アイラさんの友人の娘であるエマさんが立っていた。宿屋ではあまり見かけなかったし、話したこともなかったので、少し驚く。

 こうして近くで見ると、エマさんは五、六歳くらいに見えた。

 フードを被っているため、その表情はほとんどうかがえない。


 彼女は無言で、何かを差し出した。

 その小さな手には、木製の四角い箱があった。


「これは?」

「どうぞ」


 私は促されるままに手に取った。角が丸く加工されたその箱には、女性の名前が刻まれていた。


「エブリン? これは、エマさんのものですか?」


 彼女は首を横に振り、先ほどまでトーマスさんが横たわっていた場所を指差した。


「トーマスさんのもの?」


 こくりとうなずく。


「早朝、海辺を散歩していたら、トーマスさんに渡されました」

「トーマスさんに会ったのですか!?」


 再びうなずく。


「あせっていたようです。『これを持って、とにかく逃げてくれ。これは領主様のものだ』と言っていました」

「領主様のもの……」


 彼はバトラール様の箱を持って逃げていた。

 何気なく箱の裏を見ると、そこにはバトラール様の服にあった紋章と同じものが刻まれていた。


「あとは、よろしくお願いします」


 抑揚のない平坦な声でそう言って、エマさんは宿屋の中に入っていった。

 すると、ころりと彼女の足元に、きれいな石が転がった。


「あ、エマさん! この石を落としましたよ」


 後を追いかけて手渡そうとすると、エマさんは不思議そうに首を傾げた。

 

「私のものではありません。そこら辺の石でしょう」


 そう言って、階段を上っていった。

 私は手元の小さな石を眺めた。

 まるでアメジストのように美しい、紫色の結晶だった。

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