人喰い竜9
「領主様」
検死官が同じく両手を組みながら、彼をそう呼んだ。
(この人が、この島の領主?)
領主様と呼ばれた男性は、二度ほどうなずいてから、「みなさま、頭を上げてください」と声をかけた。
「寛大なお心に、感謝いたします」
島民たちは感謝を告げて、祈りをやめる。
この島独自の文化に圧倒されていると、シーラが私に近づいて、こそっと耳打ちした。
「領主様は、アネシドラー様の代弁者と言われているそうですよ。小冊子に書いてありました!」
「なるほど……島民たちが彼を神のように崇めているのは、そういうことなのね」
すると、領主様はトーマスさんのそばに膝をついて、ひどく悲しげな顔をして声をかけた。
「ああ、トーマス……あなたの魂は、アネシドラー様のもとへ還るでしょう」
彼はしばらく祈りを捧げてから、ゆっくりと立ち上がり、私に向けてにこりと微笑んだ。
「ご紹介が遅れました。私はこの島の領主、バトラールと申します。どうぞよろしく」
「初めまして。フィリスです」
そう名乗り、握手を交わす。
「たしか、あなたは獣医だとか。我々は竜についての知識がありませんから、どうかあなたの見解をお聞かせ願えませんか?」
「かしこまりました」
私はトーマスさんのそばにしゃがみこんで、竜の痕跡と思われるものをじっくり観察した。
検死官が不満そうに鼻を鳴らす。
「ふん……素人に何がわかる」
「今は彼女の話を聞きましょう」
「は、はい!」
バトラール様に注意され、検死官はぴしりと背筋を正した。
ずいぶんと怯えている……。その様子にほんの少し違和感を覚えながらも、私はトーマスさんの背中の傷に視線を落とした。
「竜の爪の攻撃にしては浅い。まるで刃物で雑に傷つけたかのようです。それに、竜が獲物を仕留めるなら先に噛みつくはず。属性攻撃を受けた形跡もありません。人喰い竜と名のつく竜が死体を巣に持ち帰らないのも、不自然です」
「そう命令されたのでは?」
「彼女に」とまでは、バトラール様も口にしなかった。
「人間を獲物だと考えている竜ですよね」
私はバトラール様を見上げて言った。
「本当にそんな竜がいるのなら、まず人間の言うことは聞きません。自分が食べ物だと認識している相手に従うでしょうか?」
「俺たちが鶏に命令されるようなもんか?」
と、島民のひとりが納得したようにうなずいた。
セイレニア教のように改良したラドロンを生み出しているのなら、特殊な竜笛を使って従わせることはできるかもしれない。だけど、それも絶対ではない。
実際、大型ラドロンは途中から、マスカルンの竜笛ですら止められなかったのだから。
「これは、人喰い竜ではなく、人間の犯行です」
そう断言すると、島民たちは再びざわめいた。
中でも、検死官はひどく動揺しているようだった。
「だ、だからと言って、アイラが犯人ではないという証拠にはならんぞ! 宿屋のすぐ近くに死体があるということは、犯行現場の近くにいる人間が一番怪しいということだろう!」
「犯行現場はここではありませんよ」
「なぜ、そんなことがわかるのですか?」
バトラール様が不思議そうに首を傾げた。
私は手袋をはめて、トーマスさんの左手にそっと触れた。
「彼のにぎりしめた左手に、ほんのわずかですが砂がついています」
死後硬直で固まった指の隙間から、白い砂が静かにこぼれ落ちた。それを、広げたハンカチで受け止める。
「殺害された場所は砂浜でしょう。そしてトーマスさんは死後、何者かによってここに運ばれた。つまり、誰にでも犯行は可能だということです」
私の言葉を聞いたアイラさんは、ほっとしたような顔をした。
すると、島民のひとりが当然の疑問を口にした。
「アイラちゃんがトーマスさんを砂浜で殺して、わざわざ宿屋の近くに置いた?」
「そんなことをする馬鹿はいねぇよなぁ」
島民たちはアイラさんを犯人とする主張に疑問を感じたらしく、冷たい目つきで検死官を見つめた。
検死官はあせったように声を荒げた。
「何だよ、俺を疑ってんのか!? 違うに決まってるだろ! それに、証拠の件はどうなるんだよ!」
「死体を雑木林に移し、その証拠を処分することなく部屋に持ち帰るでしょうか? 海のそばにいたのなら、それこそ海に投げ捨てても問題なかったはずです」
そう指摘すると、検死官は「うっ」と言葉を詰まらせた。
「私はこれでも竜には詳しいので、その証拠品を見せていただければ、より詳しく判断できると思います」
「ただの観光客には見せられない」
そう言って、警吏たちは頑なに証拠品を見せようとはしなかった。
どうやら、私に見られると都合が悪いらしい。
竜の爪に似せた作り物という可能性もある。だから見せたくないのかもしれない。
(だけど、本物の竜の爪なら、きちんと見ておきたい。古代竜の爪である可能性があるのなら)
諦めずにもう一度「見せてほしい」と言ってみよう。そう思って口を開こうとした瞬間、
「拘束を解いてあげなさい」
と、バトラール様が警吏に命じた。
警吏たちは困惑した顔をしながらも、アイラさんを解放する。
アイラさんはバトラール様に向かって、祈るように両手を組んだ。
「あ、ありがとうございます、領主様」
「いえ。疑いが晴れてよかったですね」
バトラール様はアイラさんに優しく微笑みかけた。
(今、私の言葉をわざとさえぎったような……気のせいかしら)
密かに不審感を募らせていると、バトラール様は私に向き直り、微笑んだ。
「素晴らしいですね、フィリス先生。あっという間に解決するなんて」
解決はしていないけれど……。私は違和感を覚えながら小さく微笑みを浮かべた。
「いえ、少しだけ竜のことを知っていただけです」
「謙遜だ。遺体を前にしても動揺せず、冷静に分析する。誰にでもできることではありませんよ」
「ありがとうございます」
「とても優秀で、男にも怯まない強気な態度。清楚な花の中に隠された棘のようです」
これは褒められているのかしら……。
私は一応、感謝を告げて微笑んだ。
バトラール様はふっと目を細め、私の顔より上に視線を移した。
「綺麗な髪ですね」
「え? あ、ありがとうございます」
なぜ、髪のことを褒められたのだろう。
私の困惑には気づかないふりをして、彼はどこか陶然とした目つきで私の髪を見つめている。
「私の愛した人の髪色に似ています」
すっと手が伸びてきて、私は思わず目を見開いた。
天青の神殿で、マスカルンに唇を触られたことを思い出して、全身にぞわっと鳥肌が立つ。
逃げよう、そう思った瞬間、後ろにぐいっと腕を引っ張られ、気がつくと見慣れた逞しい背中が目の前にあった。
ヘリアス様だった。
心の中で彼の名を呼び、ほっと胸をなで下ろした。