人喰い竜5
人口約三万人と言われるパクトロス島の大半は、深い森に覆われている。
濃い緑の葉を広げる木や、見慣れない形の花など、亜熱帯ならではの固有種があちこちに群生していた。
湿った暑い空気にはまだ慣れないけど、鮮やかな羽を持つ鳥や大きな虫を見つけるたびに、子供のように心が躍った。
私たちは地図を頼りに、森の中を歩いていた。
もし古代竜が本当にこの島に降り立ったのなら、森のどこかに身を隠しているはず。
「竜がいれば空からでも探せるのに」
「たしかにな」
ヘリアス様が周囲を見渡しながら同意した。
「しかし、この島では、竜で空を飛ぶことも禁止されている」
「そうですよね……」
「だが、ベルンハルト様は空から探しただろう」
私はその発言に驚いたけれど、ヘリアス様は平然としていた。
王家が率先して規則を破っているのは衝撃的だったけれど、あのベルンハルト様なら、たしかにそれくらいはしていそうだと思った。
その時、背後で「ひぇ!?」とシーラの悲鳴が響いた。
「どうしたの?」
「奥様ぁ! でっかい虫が飛びましたよぉ!」
「森ですからねぇ。うじゃうじゃいますよ」
「……どうしてそんなことを言うんですか?」
にやにやと笑うラインさんを、シーラはじろりとにらんだ。
小さい虫なら平気だけど、あまりにも大きすぎるものは……たしかに怖い。
その時、目の前を鮮やかな赤が素早く横切った。
「見てください、ヘリアス様! この島の固有種の鳥です!」
「鮮やかな赤が綺麗だな」
「はい! 蜜を食べる鳥だそうですよ。ヘリアス様の髪色と同じですね」
「そんなに綺麗なものではないだろう。だが……あなたが褒めてくれるのなら、あの色も悪くないかもな」
そう言って、ヘリアス様は黒く染まった前髪に触れた。
黒髪も素敵だけど、やっぱりヘリアス様には赤髪が似合うと思った。
「ここまでなら観光客でも歩けるな。隠れているとすれば、さらに奥か」
「そうですね。今のところ、竜がいるような形跡は見当たりませんし……」
「先に私とラインで森の奥を確認する。魔物がいない島とは言うが、それが本当かわからないからな」
「わかりました」
ヘリアス様とラインさんが、深い森の奥へと入っていった。
私とシーラは迷ってしまわないように、ふたり一緒に周囲を見て回ることにした。
すると、その時、ガサガサと茂みをかき分けて、ひとりの男性が飛び出してきた。
私は思わず「わっ!?」と小さく声を上げてしまい、向こうも驚いたように目を丸くした。
日に焼けた三十代くらいの男性だった。
「えっと、もしかして地元の方ですか?」
そう声をかけると、男性は大きくうなずいて笑った。
「ええ、そうです! あなた方は、昼の定期船でやって来た観光客の方ですね? 船の中でオリバーさんの犬を助けた獣医さん?」
「え? ええ、そうです」
「やっぱり、そうだと思いました!」
もう話が伝わっているんだ……。そこまで大きな島じゃないから、噂が広まるのも早い。
あまり目立ちすぎないようにしないと。
「もしかして、迷われましたか?」
「いえ、この辺りの珍しい鳥を観察していまして……」
「そうでしたか! ですが、この辺はあまり観光客向けじゃありませんし、蛇も出ますから、もっと見晴らしの良い場所へご案内しますよ」
男性は親切そうに提案してくれた。
シーラが困ったようにこちらに視線を向ける。私たちはまだ調査中だけど、ここで無理に留まろうとすれば怪しまれるかもしれない。
私はシーラに小さくうなずき、それから男性に向き直った。
「ええ、お願いします」
「わかりました。ではフィルナさん、こちらへどうぞ」
私たちは男性の後につづいて歩き始めた。
「おふたりはどこから来たんですか?」
「王都の方からです」
「王都からですか! 俺には縁のない場所だなぁ。俺はこの島の漁師ですから、外に行く機会なんてほとんどなくて」
「そうなんですね。あの、ひとつ聞いてもよろしいですか?」
「ええ、何なりと! 穴場でも何でもお教えしますよ!」
ガチャンとレバーを戻す音に、男性はびくっと身体を震わせた。恐る恐るこちらを振り返る。
私はエンリカ様から受け取った騎兵銃の銃口を、男性の頭に向けていた。
彼は目を大きく見開き、唇をわななかせた。
「ま、待ってください! 落ち着いて……何でこんなことを――」
「動かないで」
銃口を前に突き出すと、男性は口をつぐんだ。
「なぜ私がフィルナであると知っているのですか?」
「そ、それは、あなたが船の中で犬を治療したと、オリバーさんから聞いたので……」
「私は古代遺物商を営むフレデリックの妻、フィリスと名乗っております。なぜフィルナと呼んだのですか? あなたは何者ですか?」
そう問い詰めた瞬間、男性の顔からすべての表情が抜け落ちた。
血走った目だけが不気味にぎらぎらと輝いている。
明らかに雰囲気が一変した。
私と同じように騎兵銃を構えているシーラが、ごくりとつばを飲んだ。
「左手に隠し持っている武器を捨てなさい。そして、何者かを答えなさい。撃ちますよ」
彼の左手のナイフがかすかに光る。
警告したにもかかわらず、彼はナイフを手放さない。
「本気で撃ちます」
私が言い終わる前に、男性はこちらに向かって駆け出した。
シーラが発砲し、男性の頬に赤い線が走った。それでも彼は止まらない。
本気で私を殺そうとしている。
男性は私に向けてナイフを投げつけた。それを間一髪で避けて、すかさず発砲する。
男性の左肩からぱっと血が噴き出した。彼は痛みに顔をゆがめ、肩を押さえながら逃げ出した。
「奥様! 崖から海へ逃げようとしています!」
「止まりなさい! 撃ちますよ!」
私は次の弾を装填しながら警告した。男性はまるで恐れを知らないかのように、走る速度を上げていく。
このまま海に逃げられてしまう! そう思った瞬間、私のそばを駆け抜けるふたつの影があった。
銃声を聞いて駆けつけたヘリアス様とラインさんだ。
ふたりは素早く男性の背後に近づき、ヘリアス様が飛び蹴りで背中を蹴り飛ばし、ラインさんが倒れた男性の背に乗り上げて、あっという間に拘束してしまった。
さすがは竜騎士……!
「すまない、遅くなった」
「いえ、来てくださりありがとうございます!」
「ふたりとも、怪我はないか?」
「ありません。大丈夫です」
私の答えを聞いて、ヘリアス様はほっとしたようにうなずいた。
ヘリアス様の姿を見て、私も身体から力が抜けた。つうっと額から汗が流れてきて、慌てて拭う。
(こ、殺されるかと思った……!)
今さらながらに、自分がひどい緊張と恐怖を感じていたことに気がつく。
心を落ち着かせるために、深く深呼吸をした。
それにしても、あの銃声を聞いて、一瞬でここまでたどり着くおふたりの身体能力に、ただただ感心するばかりだ。
「一体何があった?」
「その方は私の正体を知っていました。それを問い詰めると、ナイフで攻撃してきましたので、発砲しました」
「そうか……すまなかった」
「そ、そんな! ヘリアス様が謝ることではありません!」
怪我もしていないし、「よくやった」と微笑んでくれると思った。
だけど、ヘリアス様は私の右手を取って、悔しげに顔をゆがめた。
「手が震えている」
「それは……」
「すまない。悔しく思うのは、私の心の問題でもある」
彼はそう言って、優しく私の手を包みこんでくれた。その温もりが、私の恐怖をゆっくりと溶かしてくれる。
ヘリアス様の名を呼ぼうとしたその時、ラインさんがヘリアス様を呼んだ。
そちらに視線を向けると、ラインさんは男性の背中に乗り上げたまま、首を横に振った。
「だめですね。自害しています」
「え……!?」
「ど、どうして自害なんて!」
シーラが動揺したように口元を押さえた。
心臓がドクドクと嫌な音を立てる。うつ伏せに倒れている男性は、ぴくりとも動かない。彼がもう死んでいるなんて、信じられなかった。
少し近づいて見下ろすと、彼の顔は真っ青で、口から泡を吹いていた。
口の中に毒物を仕込んでいたみたいだ。
「なるほど。彼の正体が分かりましたよ」
そう言って、ラインさんが男性の服を剥ぎ取った。
彼の背中が露わになり、私は息を飲んだ。
「セイレニア教!?」
そこには、海面に立つ女神が槍を掲げている絵が刻まれていた。
「なぜ、ここにセイレニア教が……!」
「もしかして、奥様を狙ったのでは!?」
「いえ……それにしては、向こうも鉢合わせしたことに本当に驚いていた様子だから、違う気がするわ」
最初から私が狙いだったとは思えない。
ヘリアス様は男性に近づき、それからこちらに視線を向けた。
「ふたりはそれ以上近づくな。セイレニア教は敵を殺すための呪物を所持していると聞く」
「わかりました。おふたりもお気をつけて」
私たちは、おふたりの邪魔にならないように距離を取った。
ヘリアス様とラインさんが男性の服を探っていると、ヘリアス様がズボンのポケットから折り畳まれた紙を見つけたらしく、私たちのもとへ戻ってきた。
「見てくれ。ここと、別の場所にいくつか印がついている」
ラインさんがヘリアス様の手元を覗きこんで言った。
「どこも森ですね。彼らのアジトとか?」
「だったら紙には記さないだろう」
「ですよねぇ」
「もしかして……セイレニア教も古代竜を狙っている?」
私がその可能性を口にすると、ヘリアス様も同じことを考えていたのか、ゆっくりとうなずいた。
「その可能性はじゅうぶんに考えられる。もしくは、人喰い竜の方かもしれないが」
「んー、可能性としては古代竜の方じゃありませんか? だとしたら、最悪のライバル出現ですねぇ」
「何としても先に古代竜を見つけるぞ」
私は彼らの話を聞きながら、バツ印の入った地図をじっと見つめていた。
(水棲竜の次は古代竜を狙っているの? もしかして、またラドロンを改良するため?)
息苦しさと気持ちの悪さを感じ、左胸の服をぎゅっとにぎる。
討伐対象となっているラドロンは魔物に分類されているけれど、生き物には変わりない。
綺麗ごとを言うつもりはないけれど、セイレニア教のやっていることは、生命を侮辱する行為としか思えなかった。
すると、シーラが怯えたように声を震わせて言った。
「この人どうするんですか? 放置はまずいですよね? しょ、証拠隠滅!?」
「俺たちが犯罪者みたいに言わないでくださいよ」
ラインさんが苦笑した直後、男性の身体がボンッと音を立てて燃え上がった。
「ひぇぇ!?」
シーラが悲鳴を上げる。
私も突然のことで言葉が出なかった。
ヘリアス様とラインさんが、とっさに私たちを背に庇ってくれた。
「ここまでしますかねぇ……本当に過激なやつらだ」
ラインさんが軽蔑するように吐き捨てる。
肉の焼ける嫌な臭いが鼻につく。
その炎の光景が、いつまでも目に焼きついていた。
次回更新は9/20です。