人喰い竜2
「それではまず、鎮痛薬の成分を見せてもらってもいいですか?」
「は、はい! これです」
私は男性から薬の瓶を受け取った。
名称を確認して、思わず眉を顰める。
「排泄されるのを待つのは難しそうですね。催吐処置を行います」
「ど、どういう処置ですか?」
「静脈に注射をします。従来の薬と違って、身体への負担はそれほどありませんから、大丈夫ですよ」
「よろしいですか?」と確認すると、男性はこくりとうなずいた。
私はその男性に牧羊犬を押さえてもらい、嘔吐を誘発する薬を前足に注射した。
数分後、牧羊犬は突然身体を曲げ、腹部を収縮させて「オエッ」と胃液を吐き出す。
その中に、丸い錠剤が二粒確認できた。
「出てきたー! ああ、本当によかった! 頑張ったな!」
男性はほっとしたように笑みを浮かべ、牧羊犬の顔を何度もなで回して褒めた。
様子を見守っていた周囲の人々も、興奮したように歓声を上げる。
「本当にごめんな。これからはもっと気をつけるからな」
男性がそう謝る一方で、当の牧羊犬はけろっとした様子で、飼い主に構ってもらえるのが嬉しいのか、楽しそうにはしゃいでいた。
(大きな犬も可愛いなぁ……)
エアル……と、また寂しさに襲われそうになって首を横に振る。
最後に点滴を打たせてもらい、処置は終わった。
すると、周囲で見守っていた人たちが「へえ~」と感心したような声を上げる。
「すごいもんだなぁ、獣医って。俺にはできねぇよ」
「かっこいいなぁ」
「お嬢さん、すごいんだな! あっという間に治しちゃって!」
さっきとは違い、好意的な態度を向けられて、少し照れくさくなる。
その時、飼い主の男性が申し訳なさそうな顔をして言った。
「先生、助けてくださって、本当にありがとうございます! さっきは失礼なことを言ってしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、お役に立ててよかったです」
ほっとして微笑むと、男性はなぜか目元を赤らめた。
すぐに、彼の奥様が「恩人の先生に妙な気を起こすんじゃないよ!」と男性の背中を思いきり叩いた。
「いってぇ!」
「いってぇじゃないよ、まったく……ごめんねぇ、先生! うちの子を助けてくれてありがとね! まさか観光客の中に獣医さんがいるなんて、本当に運が良かったよ」
「いえ、私もまさか、ここで処置をするとは思いませんでした」
「そうよねぇ! この島には旅行で来たの? この定期船はほとんど島民しか利用しないから、いつも同じ顔ばかりで退屈でねぇ」
聞かれるとは思っていたけれど、やはりドキッとする。
あらかじめ用意していた答えを伝えようとした瞬間、ヘリアス様に肩を抱かれた。
「ええ、新婚旅行に」
そう言って、鼻先が触れ合うほどの距離まで顔が近づく。
エメラルド色の瞳が優しく細められ、その輝きに見惚れてしまう……けど、乗客の視線がすべて私たちに集中していることに気づいて、かぁっと顔が熱くなる。
(ヘリアス様! ものすごく見られています!)
と目で訴えかけるけど、彼は楽しげに顔を近づけてくる。
「まさかここで!?」と心臓がバクバクと鳴り響く。だけど、ヘリアス様の唇は、私の前髪に触れた。
そっと髪をなでられたかのような柔らかい感触が伝わって、ゆっくりと離れる。
そのかすかな動きで、ふわりと香水の香りが広がった。
「まあぁ」
奥様がうっとりと頬を染めた。
男性たちからも「おお……!」と感嘆の声が漏れる。
私は無意識に止めていた息を、ふうっと吐き出した。
ほっとしたような、残念なような……。きっとそんな気持ちが顔に出ていたんだと思う。
ヘリアス様がふっと小さく笑って、私の耳元に顔を寄せた。
「またあとで」
耳元でそうささやかれて、びくっと肩が跳ねる。
心臓が再び激しく鼓動し、耳まで熱くなる。
(女神様……私は、はしたない女です!)
と内心で懺悔する。
キスを期待していたことをヘリアス様に気づかれたのが、一番恥ずかしい。
気をそらすために、周囲の反応を確認する。ひとまず、新婚旅行に来た夫婦だと信じてもらえたようだった。
「じゃあ、そこの兄ちゃんと嬢ちゃんは?」
飼い主の男性がそう問いかけてきた。すると、私たちの後ろに控えているラインさんとシーラに注目が集まった。
ラインさんは誠実そうな柔らかい笑顔を浮かべ、ヘリアス様の左肩を軽く叩く。
「俺はこいつの兄です。そして、こっちの女の子はうちの使用人。俺たちみんな仲が良いので、新婚旅行と家族旅行を兼ねているんです」
「へえ、家族ぐるみでわざわざこの島に? 観光客向けの島なら、他にもあったろうに」
警戒されているわけではないと思うけど、偽っているという後ろめたさからか、そんな問いかけにもつい緊張してしまう。
しかし、ラインさんは動揺する様子もなく、身振り手振りを交えて答えた。
「我々、兄弟で古代遺物商を営んでおりまして、旅行のついでに珍しいものがないかと、島々を旅しているんですよ」
「まさか新婚旅行にもついて来るとはな」
ヘリアス様が、兄の奔放さにあきれているかのようにつぶやいた。
「いいじゃないの。俺が仕事をしている間、お前たちは存分に島を楽しめばいいさ」
そう快活に笑う姿は、どこからどう見ても商家の好青年だった。
すると、男性があきれたように笑いながら言った。
「兄ちゃん、いくら仲良しでも、新婚さんの邪魔しちゃいけねぇよ」
「そこは反省してますよ」
「そうかぁ?」
「でもねぇ、パクトロス島に行くなんて滅多にない機会だし、俺も楽しみたいんですよ! メシと酒が美味いと聞いたら、行かないわけにはいかないでしょ?」
ラインさんの言葉に、男性は納得したように大きくうなずいた。
「ま、そりゃそうだな。ここには美味いもんがいっぱいある! いい女もな!」
「いい男は少ないよ」
「うるせぇ」
わっと笑い声が上がった。
(さすがラインさん、懐に入るのが上手い)
それに、ヘリアス様も迫力はあるけれど、いつも通り自然にラインさんと会話しているせいか、厳しい印象が多少和らいだように思える。
島民の方たちと少しだけ打ち解けられて、内心ほっとする。
おかげで、ヘリアス様のお姿を眺める余裕も出てきた。
(黒髪も綺麗……)
ヘリアス様と言えば、あの鮮やかな赤髪が印象的だけれど、黒髪も冷たい美貌を引き立てていて、とても素敵だ。
こうしてみると、本当にラインさんと兄弟みたい。
ふと、さっきヘリアス様が口にした「新婚旅行」という言葉が、頭に浮かんだ。
(それらしいことを、してもいいのかしら……)
そんなことを思いながら、そっとヘリアス様の指に触れると、ぎゅっと強い力でにぎり返され、びっくりしてしまった。
顔を上げると、ヘリアス様と目が合い、彼は少し表情を緩める。
穏やかな笑顔だった。
彼の心の柔らかい部分を見せてもらっている気がして、胸が温かくなる。
その様子を見られていたのか、奥様が「お熱いね」と笑ったけれど、急に真剣な顔になって言った。
「あなたたち、ここはいい島だけど、気をつけてね」
「どういうことですか?」
彼女は誰かに聞かれるのを恐れるように周囲を見回してから、小声で教えてくれた。
「パクトロス島にはね、『人喰い竜』が棲みついているから」
「人喰い竜……?」
不穏な言葉に、胸の奥がざわめく。
人間と共生してきた竜は、人を襲うことはまずあり得ないと言われている。
ただ、病気などで正気を失った場合や、ひどい虐待を受けた場合には、人を食べたという記録も残っている。
「夜はひとりで浜辺の散歩なんてしちゃだめだよ? あなたみたいな若い女性は、あっという間に食べられちゃうからね」
「そうなんですね……ご忠告、ありがとうございます」
私はそうお礼を言って、窓の向こうを見た。
島はもう目前だった。