人喰い竜1
海の上にいる。
それも、生まれて初めての船の旅だ。
私は古代竜の調査のため、目撃情報のあった島へ向かっている。
青い空ほど自由な場所はないと思っている私だけど、今はこの広大で透き通った海の美しさに夢中だった。
手すりの向こうに顔を出して、海を覗きこむと、色とりどりの鮮やかな魚たちが泳いでいるのが見えた。
船が進むたびに白い水飛沫が上がり、その光景にも思わず見入ってしまう。
「船で移動するなんて初めてです!」
隣にいたシーラが楽しそうに言った。
「ええ、私も初めて。肌に触れる風の感覚も、時間の流れも……竜に乗っている時と全然違う。正直、エアルと一緒にいられないのは、ちょっと寂しいけれど」
「ずっと竜と一緒にいた奥様は、特にそう感じますよね。今回は正体を隠しての調査ですし、島の規則で竜を連れていくこともできませんからね」
シーラの言う通り、今の私は公爵夫人ではなく、商家の妻という設定である。
貴族だとわかると警戒され、情報を得られない可能性があると考え、観光客を装うことにした。
そして、とても珍しい話だけど、今から向かう場所には竜を入れてはいけないという規則がある。
ということで、エアルやドゥルキスたちはお留守番だ。
今はここにいないけれど、ヘリアス様とラインさんも調査に同行している。
私たち四人は、古代竜が目撃されたというパクトロス島に向かっていた。
私は、海の上にぽつりと浮かぶ島を見つめながら、ベルンハルト様から聞いた話を思い出す。
彼によると、パクトロス島へ向かう定期船の船長や船員から「珍しい竜を見た」という通報があったそうだ。
それが古代竜ではないかと、ベルンハルト様はお考えのようだった。
その話を聞いたヘイゼル様は、眉を顰めた。
「はー? そんな情報つかんでないし」
「そりゃ教えるわけないだろ。お前が女王になってしまう」
そう言って笑うベルンハルト様に、ヘイゼル様は不機嫌そうに頬を膨らませた。
「フィルナ、その話断っていいよ。それか、私もついて行って、フィルナと一緒に古代竜を見つける。名案じゃん」
「やめなさい」
ベルンハルト様は小さく息をつき、それから再び話をつづけた。
「俺はしばらくあの島を調査していたが、古代竜を見つけることはできなかった。加えて、あの島はよそ者にあまり協力的ではない。王家の者だと知って、より一層警戒されたかもしれない」
「その島が古代竜を隠していると?」
そうヘリアス様が訊ねる。
「隠しているかはわからんが、あの島には何かある」
「その竜の情報が何かの見間違いか、またはデマである可能性は?」
「古代竜の目撃情報はほとんどがデマだ。しかし、今回の情報は信憑性が高い」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「船長たちの情報には、王家しか知り得ない情報があったからさ」
ベルンハルト様はそう言って、確信に満ちた笑みを浮かべる。
「彼らが言うには、その竜には角が四つ、翼が四つあったそうだ。これは、王家に伝わる古代竜の特徴と一致する」
私は息を飲んだ。いや、驚いているのは私だけじゃない。
この話を聞いて驚いていないのは、ヘイゼル様だけだろう。
私たちは、古代竜の姿がどんなものなのか知らない。絵本や図鑑にだって描かれていなかった。
でも、王家にだけは、古代竜の特徴が伝えられていた。
(角が四つ、翼が四つある竜……そんな竜は見たことがない!)
未知の竜。その可能性を思うと、全身が高揚感に包まれる。
その時、ベルンハルト様と目が合った。彼はなぜか嬉しそうに目を細めた。
「あなたは、古代竜の登場を純粋に喜んでいるんだな」
王家と違って、という言葉は口には出さなかったけれど、何となく伝わってきた。
そこでようやく、私の口元が緩んでいることに気がつき、慌てて手で押さえる。もう手遅れだけど……。
ベルンハルト様は私を見て、親しみを感じさせる優しい笑顔を浮かべて言った。
「よそ者には非協力的ではあるが、観光客には親切な島だ。調査を兼ねた新婚旅行のつもりで観光してもらってもいい」
「フィルナはまだ依頼を受けるとは言っていませんよ」
「まあまあ、ヘリアス。お土産は酒でいいぞ」
「お酒ならご自身で購入したものがあるのでは?」
ヘリアス様がさり気なく断ろうとすると、ベルンハルト様はきりっとした表情を浮かべながら、
「もう全部飲んだに決まってるだろ」
「なぜ威張るんです」
ヘリアス様は少し疲れたような顔をした。
あの時、「新婚旅行」という言葉にちょっとドキドキしていた、なんて言えない。
しばらく海を眺めたあと、シーラと一緒に船内に戻ると、人々が一か所に集まり、困ったように顔を見合わせていた。
近づいてみると、その中心には大きな犬がいて、飼い主と思われる年配の男性が、必死になってその子の口をこじ開けようとしていた。
「どうされましたか?」
そう声をかけると、飼い主の男性が顔を上げた。
「こいつが、俺が落とした鎮痛薬の錠剤を二粒飲みこんじまったんだ。まあ、そんなに気にしなくても、いつか出てくるかもしれねぇがな!」
「いえ、飲んだ種類によっては中毒症状を起こしますし、少量でも死亡した例があります」
「え……」
私がそう指摘すると、飼い主の男性は不安そうな顔をした。周囲の人たちも驚いた表情を浮かべる。
私はその犬の近くに屈みこんで、様子を観察した。
ブラウンの毛色に、筋肉質な身体をした大きな牧羊犬だ。
呼吸の早さも正常。今はまだ元気そうだけど、このままにしておくのは危険だ。
「あのー、あんたは何者だ?」
「私は獣医です。どうかこの子を、私に任せてはもらえませんか?」
嘘はついていない。竜医師になるには、必ず獣医学の基礎を学ぶ必要がある。
そこから竜を専門とするか、それ以外かに分かれるけれど、竜医師であっても犬や猫などの動物を診察することはできる。
この子を今すぐかかりつけ医のもとまで運ぶことはできないし、今できることをしてあげたい。
そう思って申し出たのだけど、周囲の反応はどこか冷ややかだった。
飼い主の男性は疑わしげな目をして、「女の獣医って……大丈夫か?」とぼそりとつぶやいたので、私は驚いてしまった。
「ちょっと、あんた! 失礼じゃないか!」
彼の奥様らしい年配の女性が、バシンと男性の肩を叩く。
「そうですよ! 奥様はすごい獣医ですよ!?」
シーラも憤慨したように声を上げる。
だけど、他の人の顔を見ると、大体この男性と同じ考えのようだった。彼らは小声でささやき合っている。
「島に戻っても獣医さんはいないだろ?」
「ああ。病気になって、島の外の実家に戻ってるんだってよ」
「だからって、女の獣医って――」
私は周囲の声を聞かないふりをして、飼い主の男性を真っ直ぐ見つめた。
彼は少し面食らった表情をした。
「あなたの考えが正しいとか、間違っているとか、そんなことを論じるつもりはありません。ただ、その話は、この子の命より重いものですか?」
そう、静かに問いかけた。
男性ははっと息を飲んで、不安そうに男性を見上げる牧羊犬を見下ろした。
「私の妻では不満だと言うのか」
疑いと不満に満ちた空気を吹き飛ばすかのように、鋭い声が飛んだ。
その瞬間、人々は思わず口をつぐみ、ぴしりと背筋を伸ばした。
ゆったりとした靴音を響かせ、ヘリアス様が現れた。
服装はいつもと違い、商人らしい動きやすそうな格好をしている。素材は良いものを使い、程よく裕福に見えるよう工夫されていた。
燃えるような赤い髪は、今は濡れたように艶やかな黒髪に染まっている。
一応、商人という設定なのだけど……その身からにじみ出る気品が、身分の高さを物語っていた。
そのエメラルド色の瞳の力強さに、人々は思わず目と口を丸くし、圧倒されていた。
「大切な家族の命を彼女に委ねるくらいなら、失った方がマシだと?」
「い、いえ、そういうわけでは!」
飼い主の男性は慌てて首を横に振り、私に視線を向けた。
「で、では……お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんです。お任せください」
そう告げてから、私はヘリアス様に感謝を伝えるように目配せする。
すると、彼は小さくうなずき返してくれた。