紅脚のアタランテ26
私とヘリアス様、そしてヘイゼル様は、レース観戦のため関係者席に移動していた。
ここからだと、会場の様子が一望できる。ゲート付近で言葉を交わすアルカイオス様とルーク様の姿が見えて、内心ほっとした。
(ヘリアス様と一緒にレース観戦できるのは嬉しいけれど、私は研修医なのに、ここにいていいのかしら……)
と、少し罪悪感を覚える。
本来なら、不測の事態に備えて会場内で待機する予定だったのだけど、ユーリ師長に「我々に任せて、今日くらい休んでください」と言われてしまった。
そうだ、ここには竜医師がたくさんいる。
(せっかくヘイゼル様が用意してくださったんだもの。楽しまないと失礼だわ)
そう気持ちを切り替えて、用意された席に座ろうとしたその時、少し離れた場所で着席しているヘレナ様と目が合った。
まだ顔色は悪かったけれど、観戦できるほどには回復したみたい。
よかった……。そう思っていると、ヘレナ様はゆっくりと立ち上がり、こちらに近づいてくる。
ものすごく、にらまれている。
(これは、また何か言われるのかもしれない……)
以前のように、「他に男を誑かしている」と言われたら、真っ向から抗議するつもりだ。そう身構えていると、ヘリアス様とヘイゼル様が、私とヘレナ様の間に立った。
すると、ふたりを見たヘレナ様が、あからさまに嫌悪感を露わにした。
ヘイゼル様が鼻で笑う。
「私が目立ってるのも気に入らないんだろうけど、フィルナがお父様に気に入られてるのがムカつくんじゃない? ああ見えて、あの人も竜医師だからさ。対抗心を燃やしてるわけ」
「そ、そうですか」
「フィルナ、気にしなくていい」
「ありがとうございます。私なら大丈夫です」
せめて、体調が回復したことへのお言葉を伝えたかったのだけど、この調子だと無理そうだ。
ヘレナ様は何度か迷った末に、こちらに近づいてきた。
「うわ、こっちに来た」
ヘイゼル様が嫌そうにつぶやく。
その時、私の名を呼ぶ可愛らしい声が響いた。
「フィルナー!」
「アリーチェ様!? それに、エンリカ様!」
豊かな青い髪を揺らしながら、眩しい笑顔を浮かべたアリーチェ様が駆け寄ってきた。
その後ろで、美しい青のドレスを身にまとったエンリカ様が微笑んでいる。
「今日はベルンハルト様にご招待されたの! またフィルナに会えて嬉しい!」
「私も嬉しいです! アリーチェ様、そのお化粧、とても素敵ですよ」
「本当? ありがとう!」
アリーチェ様は私の腰に抱きついて、「えへへ!」と嬉しそうに笑った。
彼女の顔には、仮面の代わりに鮮やかな化粧が施されていた。
化粧のおかげで火傷の痕は薄れ、その周囲をビジューなどで飾ってあるため、火傷の痕すらその化粧の一部のように見えた。
アリーチェ様は「見て、見て!」と興奮気味に自分の顔を指差す。
「これはね、水舞師の化粧なんだよ。お母様がしてくれたの!」
「これが水舞師の化粧なのですね。アリーチェ様によくお似合いです。本物の人魚のよう」
「よかったわね、アリーチェ。ずっとフィルナにその化粧を見せたがっていたのよ」
「そうなんですか?」
「うん……」
アリーチェ様は目元を染めて、ほわりと微笑んだ。
化粧のおかげなのか、心の持ち方なのか……人々の視線を浴びても、彼女は怯む様子がない。それに、表情も生き生きとしている。
最初は緊張したかもしれない。それでも、彼女は今ここにいる。「できる」をしっかりと積み重ねている。
その強さが眩しくて、自分のことのように嬉しかった。
すると、アリーチェ様はヘイゼル様にじっと見つめられていることに気づき、びくりと飛び上がった。
「アリーチェのその化粧、すごいじゃん。可愛い」
「ひゃ……あ、ありがとう、ございます!」
アリーチェ様は慌てて私の後ろに隠れてしまった。
人見知りは完全には直っていないみたいだけど、褒められて嬉しそう。
エンリカ様は、微笑ましそうにアリーチェ様とヘイゼル様を見つめ、それから私に視線を向けた。
「フィルナ。また会えて嬉しいわ」
「私もです、エンリカ様。今回の中毒事件を解決できたのは、エンリカ様のおかげです!」
「え? 私は何もしていないけれど、あなたの役に立てて嬉しいわ。それにしても……」
エンリカ様は私の姿を眺めて、ふっと目を細めた。
「とても綺麗だわ、フィルナ」
「あ、ありがとうございます」
「私もそう思ってたよ!」
私の背後から、アリーチェ様の声が上がる。
「王子様なフィルナも、お姫様なフィルナも大好き!」
「嬉しいです! ありがとうございます、アリーチェ様」
「ふふ……ヘリアス卿が落ち着かない様子なのも納得ね」
思わずヘリアス様に視線を向けると、彼は困ったように小さく笑った。
「そんなに顔に出ていますか?」
「ええ。殿方すべてを威嚇しているわ」
「気をつけます」
そう言いながら、ヘリアス様が私の肩を抱いて引き寄せた。
周囲の視線が集まった気がして、顔が熱くなる。
ヘリアス様は、私が恥ずかしがっているとわかっていても、中々離してくれない。
エンリカ様がくすくすと楽しげに笑った。
「そうそう……あなたに贈り物があるの」
エンリカ様はそう言うと、後ろで控えている侍女のヴェルデさんから、長方形の青いケースを受け取り、私に差し出した。
「これは……?」
「スペルビア製の最新式騎兵銃よ。あなたの助言を反映して弾丸も改良されているから、大型ラドロンにも対抗できるはず。受け取ってくれるかしら」
その瞬間、周囲がざわめいた。
エンリカ様は笑顔を崩さないまま、ヘリアス様に視線を向けて、さらにつづける。
「まだ量産が追いついていなくて申し訳ないのだけど、取り急ぎ百挺、アルトリーゼ家に献上します」
「感謝いたします、エンリカ様」
ヘリアス様が竜騎士の敬礼をする。
さらにざわめきが大きくなった。
エンリカ様は、インヴィディア王国とスペルビア王国との友好関係を、目に見える形で示した。さらに、アルトリーゼ家がそれに深く関わっていることも強調している。
紛れもなく、エンリカ様が私たちに向けて示した、最大限の感謝の印だった。
私は背筋を伸ばし、彼女からの感謝の印を両手で受け取った。
「エンリカ様。ありがたく頂戴いたします」
私がそのケースを受け取った瞬間、ざわめきは歓声に代わり、拍手が沸き起こった。
視界の端で、ヘレナ様が顔を引きつらせ、慌てて引き返していくのが見えた。
「だっさ。さすがのヘレナ姉様も、スペルビア王国の人魚相手に喧嘩は売れないか」
ヘイゼル様があきれたように笑った。
「みなさま、おそろいで」
よく通る低く声が響いた瞬間、ざわついていた空気がすっと鎮まった。
振り返ると、そこには金色の髪を持つ美しい男性が立っていた。伸ばした長い襟足が、ふわりと風に揺れる。
切れ長の瞳は鋭さを帯びているのに、どこか柔らかさもある、不思議な魅力のあるお方だった。
「ベルンハルト兄様、帰ってたんだ……来なくていいのに」
ヘイゼル様が、少し不満げに口を尖らせる。
(この方が、ベルンハルト様……!)
思わず、箱を持つ手に力が入る。こうしてお会いしたのは初めてで、少し緊張する。




