紅脚のアタランテ16
麻酔で眠っているのは、アタランテを含めて五頭。
他三頭の竜は麻酔銃を撃たれることもなく、落ち着いている。この三頭は、ジュピタリア血統の火の竜ではなかった。
今回の訓練に参加した十五頭中、八頭がここに残っていることになる。
「アタランテが眠っている間に、他の竜に運んでもらって、会場から離れましょう」
「ええ、その方がよさそうですね」
私の提案にユーリ師長が同意すると、それを聞いたヘイゼル様が「だめ」と声を上げた。
「本番まで時間がない。アタランテが目覚めたら、訓練を始めるよ」
その発言に、私もユーリ師長も目を丸くした。
「一度竜舎に戻りましょう。ここにいるのは危険すぎます」
そう進言しても、ヘイゼル様は首を横に振った。
「この光景を市民に見られた。まだ戻れない」
ヘイゼル様は、観客席に残る人々に視線を向けて、厳しい表情を浮かべた。
「暴れたのはどの竜だ?」
「わからんが……眠っているのは、ほぼ王家所有の火の竜だろう?」
「王家の竜は気性が激しいって噂は本当なのか?」
「何か問題があったりするのかしら?」
そんな声が観客席の方から聞こえてくる。
「王家の竜だけがおかしくなった。このままだと、その印象が強く刻まれてしまう」
ヘイゼル様は、眠るアタランテの顔に触れながらそう言った。
「だったらここで、私たちだけでも飛ばないと。王家の竜には何も問題はないと、今からでも示す必要がある」
ヘイゼル様の言いたいことはわかる。
このままだと、「ジュピタリア血統の火の竜こそが最強である」という印象が覆され、王家の威信が失墜しかねない。
ヘイゼル様は王家の者として、その責任を負う立場にある。
「アタランテこそが最強だって、速さで証明する。城に戻るのはそれからだよ」
「しかし、麻酔から覚めてしまうと、再び癇癪を起こす可能性があります。今のうちに竜房に戻しておかないと、大事故につながりかねない」
そう指摘するユーリ師長に、ヘイゼル様は苛立ったように目を細めた。
「どうして癇癪を起こす可能性があると言えるの? 今まで連続で起きたことなんてないでしょ。アタランテに問題なんてない。きっと飛んでくれる!」
ヘイゼル様は力強く言い放った。
信じたい気持ちはわかる。だれど、この会場付近に癇癪の原因があるとすれば、再びアタランテが混乱する可能性がある。
すると、観客席に残っていた先ほどの団体が騒ぎ始めた。
「ほらみろ、竜の虐待だ!」
「人間が竜を酷使している証明だわ!」
「今すぐ、竜を解放しろー! 竜に自由をー!」
「ヘイゼル王女と竜医師たちが竜を虐待しているぞー!」
さすがに黙ってはいられなかった。
観客席に近づき、彼らに声をかける。
「申し訳ありませんが、竜たちを移動させる間は声を抑えていただけませんか? 竜たちが麻酔から覚めてしまうかもしれません」
「そんなの知らねぇよ! そっちの都合だろうが!」
そのうちのひとりが、八つ当たりのように柵を蹴り飛ばす。
ガンッと、思いのほか大きな音が鳴り、アタランテの身体がぴくっと震えた。
(まずい……!)
麻酔の効き目が悪かったのか、アタランテがぱちりとまぶたを開いた。
「あ」
ヘイゼル様が、ぽつりと声を漏らした。
その瞬間、アタランテがぐるりと身体を回転させ、その長い尾がヘイゼル様の両足を強打した。
バキンッと何かが折れる音が響き渡り、彼女の身体は軽々と空へ吹き飛ばされた。
目の前の光景が、やけにゆっくりと流れていく。
ヘイゼル様の身体は緩やかな弧を描き、激しく地面に叩きつけられた。
「ヘイゼル様!」
駆け寄ろうとした私の前に、何かが落ちてきた。
それはドサリと音を立てて、芝生の上を転がった。
二本の足だ。
「あ……!」
その衝撃に、思わず息を飲む。
断面には肉はなく、中はほとんど空洞のように見えた。細かい部品が周囲に散らばっている。
(義足……!?)
衝撃的な光景を目の当たりにした人々は、みな呆然としていた。
一瞬の間を置き、補助竜医師の女性が絶叫した。
「いやぁぁぁぁ! あ、足が! ヘイゼル様が!」
甲高い悲鳴に、アタランテが興奮したように雄叫びを上げた。
半端に麻酔が効いているため、ひどい混乱状態に陥っている。
(何が起きているのかわからなくて、怖がっているんだわ!)
ユーリ師長が竜笛を吹いているけれど、アタランテは頭を振り乱し、言うことを聞かない。
「う、あ……何が……?」
痛みに顔をゆがませながら、ヘイゼル様が顔を上げた。
顔を地面に打ちつけたのか、鼻から血があふれている。
その時、ヘイゼル様の身体にふっと影が落ちる。
アタランテの足が、彼女の真上にあった。
「ヘイゼル様!」
私は火属性専用の竜笛を咥えながら駆け出した。
(一秒でもいい! 動きを止めて!)
その願いが届いたのか、アタランテはほんのわずかな時間、ぴたりと動きを止めた。
その隙に、ヘイゼル様の脇の下に手を入れ、引きずるようにして急いで距離を取る。
「あ、ありがと……」
「すぐに医務室に運びますから!」
「これくらい、平気……うぅ!」
身体が痛むのか、ヘイゼル様はぎゅっと目をつぶった。額には大量の汗が噴き出している。
ちらりと下半身に視線を向けると、太ももあたりから下がない。
私は着ていたコートを脱いで、ヘイゼル様の腰から下を覆い隠した。