紅脚のアタランテ10
「これ以上、辺境伯に恥をかかせたくないなら、黙っていた方がいいんじゃない?」
そう言って、ヘイゼル様も竜舎から出てきた。
彼女は地面に落ちている装飾の残骸を見て、ぎょっと目を見開いた。
「は? 私の竜舎、壊れてるんだけど!?」
屋根を壊した風属性の竜の方を見ると、竜はゆっくりと顔をそらした。
ヘイゼル様に叱られると思ったみたい。
「いいじゃない、それくらい!」
「これ、ヘレナ姉様の仕業なの? 人の竜舎を壊しといて、何その態度。あー、ほんと最悪」
ヘイゼル様は、くしゃっと前髪をつかみ、はあっと深くため息をついた。
気のせいかしら……ちょっと体調が悪そうに見える。
「とりあえず……竜医師、補助竜医師、竜騎士も全員、ラインの言うこと聞いて。これは命令だからね」
ヘイゼル様がそう命じると、人々はざわめいた。
恐らく、金緑の竜舎の調査が始まるのだろう。
「それで、ヘレナ姉様は私の竜舎を破壊して、何がしたいの? 問題を起こさないでほしいんだけど」
「姉に向かって生意気な態度……本当に相変わらずね、ヘイゼル。昔はあんなに親切にしてあげたのに」
「姉様の言う親切って、私を哀れんで笑うことなの? さすが、視座の高いラルヴェントレ辺境伯夫人のおっしゃることは違いますわね」
「なっ!?」
ヘレナ様は再び怒声を爆発させた。
「何なのその態度! あなたも私を馬鹿にして!」
「ヘレナ姉様が私に意地悪ばかりするからでしょ。そんなことより、騒ぐだけなら帰ってよ」
「ルークは守るくせに、私は追い出そうとするのね!」
「守ってないし。竜を治療しただけでしょ」
ヘイゼル様は、「この人、本当に面倒」とぼやいた。
「ねえ、何がそんなに不満なの? 昔も今も何不自由ない暮らしができて、可愛い息子もいる。幸せでしょ?」
「何も知らないくせに」
「知りたくもない」
「あなたは結婚したことも、子供を産んだこともないから、そんなことが言えるのよ! 毎日、色んな人から後継ぎを催促され、男を望まれつづけた私の苦労が、あなたにわかるの!?」
「ふーん。結婚して子供を産めば、ヘレナ姉様の気持ちがわかるんだ」
ヘイゼル様は剣を引き抜いた。一気に緊張感が増す。
「だったら、ヘレナ姉様も私と同じ目に遭えば、私の苦労をわかってくれるわけね?」
その金色の目は憎悪の炎を宿していた。
「な、何をするつもりよ」
ヘレナ様の顔から、さあっと血の気が引いた。
「それとこれとは話が違うでしょ!? あなたは生まれつきの『欠陥品』なんだから!」
「黙れ」
一瞬で殺気が膨れ上がり、ヘイゼル様は目にも留まらぬ速さで剣を振り抜いた。
その瞬間、金属同士が激しくぶつかり合う音が響き、火花が散った。
ヘリアス様が、ヘイゼル様の剣を受け止めていた。
「ヘイゼル様、これ以上は後戻りできませんよ」
「ヘリアス……!」
「あなたは竜騎士だ。その剣は、一瞬の達成感のための道具か。それとも、自分の誇りを守るための力か」
ヘイゼル様ははっと息を飲んだ。
私はとっさに風属性専用の竜笛を吹いて、ヘレナ様の竜を落ち着かせた。
剣戟の音を聞いた竜が、ヘレナ様を害されたと思い、暴れることを防ぐためだ。幸い、アリアドネは落ち着いていた。
沈黙が流れ、ふたりはしばらく無言でにらみ合っていた。
ざりっと剣が擦れ、ヘリアス様の剣が燃え上がる。
それを見たヘイゼル様が、ほんの少し目を見開いた。
「……いいじゃん、その燃える剣。私も欲しい」
「お褒めいただき光栄です」
「どうやって作ったのか、教えてくれる?」
「もちろんです。……いい”訓練”になりましたね」
ふたりは剣を引いた。少々強引だけど、ヘリアス様が「訓練」と言ってくれたことで、ヘイゼル様も剣を収めるきっかけができた。
ヘイゼル様は伏し目がちになって、
「……助かったよ」
とぼそりとつぶやいた。
竜騎士として、先ほどの自分の行いを反省したようだった。
命の危機を感じたヘレナ様は、顔を青ざめ、ガタガタと震えていた。
ヘイゼル様は、冷たい目で彼女を見つめて言った。
「ヘレナ姉様も、たくさん苦労をしてきたんだよね? だからね、ヘレナ姉様が昔、私に言ったセリフをそのまま言ってあげる。『泣くほどつらいなら、死んで楽になればいいじゃない』」
ヘレナ様は涙目になって、「もう嫌~!」と叫びながら、慌てて竜に乗って去っていった。
「竜舎の修理、ラルヴェントレに請求するからね!」
ヘイゼル様は疲れたように、ふうっと深く息を吐いた。
姉妹の仲は、あまり良くないみたいだ。
人のことは言えないけれど……。
「ねえ、研修医さん」ヘイゼル様が私に視線を向けて言った。
「明日、火竜戦の会場に向かうから、そのつもりで準備して」
「わかりました。ですが、ヘイゼル様。体調が悪いのでは?」
ヘイゼル様はぴたりと動きを止めて、不自然なくらいに無表情になった。
額から汗が一筋流れ落ちるのが見えた。
「あれ、もしかして……?」と思った瞬間、ヘイゼル様はむすっと頬を膨らませて言った。
「何言ってんの。私がそんな軟弱に見える?」
「いえ、そんな風には見えませんが……汗が……」
「汗なんてかいてないし、さらさらだし。この話は終わり。心配なんて必要ない。私は強いんだから」
ヘイゼル様は、ぴしゃりと話を打ち切った。まるで、自分に言い聞かせるような口調だった。
私の隣に戻ってきたヘリアス様が、「どうやら図星のようだ」とつぶやいた。
(本当に体調が悪いみたい……)
火竜戦が大事なのはわかるけれど、少しは休んでほしい。
でも、ヘイゼル様の背中は、そんな私たちの気遣いを全力で拒絶しているように見えた。




