紅脚のアタランテ1
まだ空に星が輝いているなか、私は金紅の竜舎で、ライラ師長からたくさん話を聞かせてもらっていた。
特に、ラルヴェントレ家にいた頃の救急医療の話は、とても勉強になった。
屋敷にある竜舎とは別に、領地内の竜の診察も行っていたらしく、そうやって多くの経験を積んできたみたい。
アルトリーゼ家も竜騎士の家だから、竜の怪我の治療は多いけれど、彼女の話には聞いたことのない事例が多くあった。
「やはり、帽子の誤飲で呼ばれることが多かったな。あとは、竜が近づいてきたことに気づかず、その竜の頭に木箱を落としてしまい、血だらけになってしまった、ということもあった」
「そんなことが……」
私は、日の出までライラ師長の話を聞いたあと、ラファエル副師長のチームに戻ってアルカスの世話を手伝った。
「アルカス、おいで」
そう声をかけて竪琴を鳴らすと、彼は嬉しそうに目を細めて駆け寄ってきた。
そのまま放牧場を歩くと、一緒についてくる。とても可愛い。
途中、ラファエル副師長たちと交代して、竪琴を弾いてもらうと、アルカスは嬉しそうに彼らの後をついていった。
ラファエル副師長たちは、顔を輝かせて感激していた。
朝の散歩が終わり、アルカスを竜房に戻すと、彼は新しいふかふかの藁が嬉しかったのか、すぐに横たわってくつろぎ始めた。
「気持ち良いね」
その穏やかな寝顔を見ていると、こちらまで嬉しくなる。
すると、同じようにアルカスを見つめていたラファエル副師長が、「寂しいですね」とつぶやいた。
「フィルナ様はこれから、金緑の竜舎に行ってしまうのですね」
「これからずっと金緑の竜舎なんですか? そんなの寂しいですよ!」
「……私、フィルナ様ともっと一緒に働きたいです」
セシリアさん、デボラさんが残念そうにするので、申し訳ないと思いつつ、そう思ってくれることが嬉しかった。
早朝のアルカスの世話が終わると、私は早速、金緑の竜舎に向かうことになった。
竜舎の前では、ライラ師長やラファエル副師長チームが見送りに来てくれた。
「フィルナ先生。もし向こうの竜舎で何かあれば、遠慮なく私を呼んでくれ。加勢するぞ」
ライラ師長は鋭く目を細め、凄みのある声で言った。その隣でラファエル副師長が「師長、顔が怖いですよ……」とびくびくしている。
心配してくれるのが嬉しくて、私は「はい!」と大きくうなずいた。
「フィルナ様」
セシリアさんとデボラさんが近づいてきた。
デボラさんは、手に持っていた小さな正方形の箱を私に差し出した。
「……チームで用意した、栄養満点のクッキーです。また、いつでも戻ってきてください」
「あと、風邪が流行っているそうなので、どうかご自愛くださいね」
「ありがとうございます! 大切にいただきますね」
竜のイラストが描かれた箱の中には、美味しそうな手作りクッキーがぎっしりと詰まっていた。
優しく甘い香りに、心が癒される。
今すぐ食べたい気持ちをぐっとこらえて、箱が壊れないように鞄の中に入れる。
「昼は休憩所に来るだろう? もし時間が合えば……一緒に食べないか?」
ライラ師長のお誘いに、私は迷わずうなずいた。
「お誘いいただけて嬉しいです! ぜひ、ご一緒させてください!」
そう答えると、ライラ師長の目が星のようにきらきらと輝いた。
「そうか! 何か聞きたいことがあれば、何でも聞いてくれ!」
「よろしいのですか? まだまだ教えていただきたいことが山ほどあるのですが……」
「ふふ、仕方ないな。特別だぞ」
ライラ師長は小さく微笑みながらも、すぐに表情を引き締めて、「フィルナ先生」と穏やかに声をかけた。
「忘れないでくれ。私たちはあなたの味方だ」
はっと息を飲み、目の奥がじんと熱くなる。ここで泣いてしまうのは、格好が悪い気がして、必死にこらえて胸を張る。
「……ありがとうございます。そう言っていただけて、本当に心強いです」
私は鞄の持ち手をにぎり直し、息を整えた。
ここで得た貴重な経験と学びを心に刻み、新たな一歩を踏み出す。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
ライラ師長たちに見送られ、私は金緑の竜舎へと向かった。
ほんの少しの寂しさを覚えながらも、私は新しい竜舎への期待に胸が高鳴っていた。
◇◇◇
金緑の竜舎に向かう道中、私はヘリアス様から聞いた話を思い出していた。
あの夜、金緑の竜舎からの指名を伝えられたあと、ヘリアス様はティモン竜医師の話をしてくれた。
ティモン竜医師が倒れたその日、彼は火竜戦の会場に向かい、施設の安全確認などを行っていた。
その後、会場のそばにある待機竜舎に立ち寄ってから金緑の竜舎へ戻り、食堂へ向かった。
朝食を済ませ、しばらくすると急に気分が悪くなってきた。
「風邪を引いたか、あるいは食中毒か?」彼はそう疑って、敷地内の診療所に向かおうとしたけど、誤って王家や王族関係者が集う休憩所に入ってしまい、そこで意識を失ったという。
食中毒の可能性が高いため、食堂を調査したものの、原因と思われるものは見つからず、彼と同じものを食べた者にも健康被害は確認されていない。
血液検査なども行われているそうだけど、結局、何が原因で中毒を起こしているのか、本人にも医者にもわからない状態らしい。
「あまり詳しい話を聞ける状態ではなかったが、それでも意識は戻った。熱も少しずつ下がっている」
「よかった……。ですが、中毒の原因がわからないままというのが、怖いですね」
「そうだな。そういえば、ティモン竜医師が気になることを言っていた。『赤い宝石は知らないか?』と」
「赤い宝石?」
「恋人に渡すつもりで持っていたそうだが、彼は竜笛以外何も所持していなかった。独身寮の部屋も確認したが、宝石類は見つからなかった」
消えた宝石の行方。
謎の中毒症状。
ここで一体、何が起きているのだろう。これ以上、何も起きないといいけれど……。
不吉な考えを振り払うように頭を振る。気がつくと、いつの間か金緑の竜舎に到着していた。
「わあ……ここも、綺麗で大きな竜舎ね」
金紅の竜舎ほどの派手さはないけれど、第三王女の竜舎とあって、金色と緑色で装飾された美しい建物だ。
その竜舎の屋根に、誰かが立っている。
「あれは、ヘイゼル様?」
王家の者特有の気品を漂わせた、美しい姫君だった。
彼女は長い金髪を風になびかせ、じっと遠くを見つめていた。淡い緑に染められた毛先が陽の光を受け、きらりと瞬いている。
(たしか、私のひとつ上の十九歳で、竜騎士だと聞いたことがある……)
王女であり、竜騎士であり、さらには竜競の騎手でもある。
ヘイゼル様は竜笛を吹くと、屋根を蹴って、飛び降りた。
「え!?」
身体は当然、地面へと落下していく。
けれどヘイゼル様は、落下の最中に剣を引き抜き、器用に身体を回転させながら、まるでそこに魔物がいるかのように剣を振るった。
そして、その身体が地面に近づいた瞬間、空を裂くような音とともに、一頭の火の竜が現れる。
ヘイゼル様は軽やかに身を翻し、何の危なげもなくその背に着地した。
彼女を乗せた火の竜は、風を巻き上げながら、私の頭上を駆け抜けていった。
「か、かっこいい!」
私は空を仰ぎながら、興奮気味に叫んでいた。
「あれがヘイゼル様……。そして、相棒のアタランテね」
あの竜こそ、前回の火竜戦で優勝した竜にして、最速と称される火の竜である。
その時、竜舎の近くにある放牧場から、ドンッと何かがぶつかったような音が響いた。
そちらに視線を向けると、風属性の竜と土属性の竜が倒れているのが見えた。
二頭はすぐに身を起こし、互いに威嚇し始める。
(喧嘩してる!)
私は反射的に駆け出した。
風属性の竜の肩から出血しているのが見えたからだ。
竜医師たちが竜笛を吹き、頭絡についた縄を引いて、それぞれの竜を引き離す。
私が放牧場にたどり着いた瞬間、ヘイゼル様も空から降り立った。
彼女は竜の傷を見て、顔をゆがめた。
「怪我してるじゃん」
「申し訳ありません。すぐに治療します」
ヘイゼル様に駆け寄ったのは、恐らくこの竜舎の竜医師長、ユーリ・オミクレー先生。
緑がかった黒髪の、五十代くらいの男性だ。
彼は風属性の竜に近づき、冷静に傷の状態を確認している。
私は呼吸を整えながら、その様子を見守ることにした。
(心配で思わず走ってきてしまったけれど、近くに竜医師がたくさんいるから、私の出番はなさそうね)
そう安心していると、ぱちりとヘイゼル様と目が合った。
「ねえ、そこの研修医さん」
「は、はい! 何でしょうか!」
背筋を正し、声を張って返事をする。
まさか話しかけられるとは思わなかったから、心臓がドキドキしている。
ヘイゼル様は、その金色の瞳でじっとこちらを見つめて言った。
「研修医でも竜医師でしょ? 治療してよ」
「ヘイゼル様!?」
ユーリ師長が驚いた顔をした。
「いいじゃん。やばそうなら、あんたが止めて。その判断は任せるよ」
「……わかりました。では、フィルナ様、診療所の方へ来てください」
「はい、わかりました」
まさか、到着してすぐに竜の処置を任されるとは思わなかった。
(私は竜医師なんだから、どこにいてもやることは変わらない)
そう内心で気合いを入れて、ユーリ師長の後についていく。
土属性の竜は別の竜医師が担当し、私は風属性の竜の傷の処置を任された。
風属性の竜は、麻酔のおかげで深く眠っている。
広い診療所に感激する暇もなく、私は手袋をはめて、竜の傷を確認した。
(右肩に裂傷。出血は少ない)
まずは傷を洗浄し、爪の破片や鱗などの異物が残っていないかを確認する。
それから、針のついた縫合糸を手に取り、縫合を始めた。
(硬い鱗に守られた皮膚を、ここまで深く裂いたということは、かなり本気でぶつかったのね)
私は息を整え、慎重に、けれど素早く針を動かす。
竜は鱗だけでなく、皮膚も硬い。糸を通すには力がいるし、コツも必要だ。
(大丈夫。落ち着いて。いつも通りにやればいい)
そう自分に言い聞かせながら、ひと針ひと針、正確に縫い進めていった。
ユーリ師長だけでなく、ヘイゼル様も腕を組んで私の処置をじっと観察している。
プレッシャーを感じながらも、処置自体はすぐに終わった。
ふうっと小さく息を吐き、顔を上げる。
「終わりました」
ユーリ師長に、そう声をかける。
気づけば、私の周囲には竜医師や補助竜医師たちが集まっていて、縫合についてひそひそとささやき合っていた。
「速いな」
「正確で、丁寧だわ」
ユーリ師長は縫合を確認し、「問題ありません」とうなずいた。
その評価に、ほっと胸をなで下ろす。
「ふーん?」
ヘイゼル様は何の感慨もなくそうつぶやいて、風属性の竜の身体に触れた。
「頑張ったね。もう喧嘩しちゃだめだよ」
そう優しく声をかけてから、ユーリ師長に視線を向ける。
「ティモンの穴くらいは埋められそう?」
「じゅうぶんすぎるくらい、と言うと、ティモンが悲しむでしょうが」
「そう」
ヘイゼル様の返事は淡々としていた。もともとこういう方なのか、それとも私に興味がないのかはわからない。
それでも……ほんの少しでも、竜医師として認めてもらえたのなら、嬉しい。