守護竜プロメテウス12
竜舎の近くにある放牧場。その中央に、ライラ師長は立っていた。
彼女はぼんやりとした目で私を見て、それからゆっくりと空を見上げた。
「もう一度、空を飛ぶ姿を見たい。陛下の願いを叶えたい。そう思っていたが……本当は私の代で、この偉大な竜を死なせるわけにはいかないと、そんなことを考えていたのかもしれない」
ライラ師長は自嘲気味に笑った。
「ああ、そうだ。プロメテウスのためだと言って、自分のことばかり考えていた」
「ライラ師長……」
「どうしよう」
そこで初めて、ライラ師長の顔に怯えの色が浮かんだ。
すがるように私を見つめ、あふれた涙が頬を伝って落ちる。
「私のせいだ。私は取り返しのつかないことをしてしまった! プロメテウスを苦しませた! 私は完璧にしないとだめだったのに! 私のせいで!」
「ライラ師長、落ち着いてください」
「お父様にも、完璧になれと、そう言われていたのに!」
子供のように泣きじゃくるライラ師長を見て、彼女の心の傷が、少しだけ垣間見えた気がした。
「私のやってきたことは全部、間違いだったのかもしれない……」
「そんなはずはありません」
私は彼女の震える右手を取って、両手で包みこんだ。それ以上、自分の言葉で追い詰めないで。そう願うように。
「あなたの努力がプロメテウスの命を繋いできたのです。だから彼は、心からあなたを信頼している。あなたのやってきたことは、間違いじゃない!」
「でも……!」
「あなたの目指す完璧ではなかったかもしれません。でも、あなたはずっとプロメテウスのために全力だった。誰に聞いたって、きっとそう答えるはずです」
「う、うぅ……!」
ライラ師長は深くうつむいて、嗚咽を漏らした。
私はその姿を見つめながら、ただ、そばにいた。
やがて、彼女はゆっくりと顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を袖で拭った。
「私のしてきたことが、無駄ではなかったとしても、償いたいよ……。このちっぽけな命で償えるなら、何でもする!」
ライラ師長の声は震え、目からは新たな涙がこぼれ落ちた。
「今からでも間に合うだろうか。守護竜としてではなく、プロメテウスの人生を……歩んでもらうことは……」
プロメテウスにはもう時間がない。ライラ師長は、その限られた時間を奪い、苦しませてしまったと、罪悪感で押し潰されそうになっている。
私は自分の体温を分け与えるように、彼女の手を強くにぎった。
大丈夫。ひとりじゃないと伝えるように。
「もちろんです。今からでも間に合います!」
力強く伝えると、ライラ師長はじっと私を見つめた。濡れた黒い瞳の中に、小さな希望の光が宿る。
彼女は私の手をにぎり返して、うなずいた。
「……ありがとう。陛下に、話をしてくるよ」
◇◇◇
「おはよう、プロメテウス」
そう声をかけると、プロメテウスは横たわったまま、少し顔を上げてうなずいて、また寝転がった。
竜舎の扉や窓を全開にして、外の風を招き入れると、彼は気持ち良さそうに伸びをする。
機嫌は良さそうだ。
「今日は翼のガーゼを貼り替えるからね」
プロメテウスは、尻尾で床を叩いて返事をした。
私は竜医師や補助竜医師たちと一緒に、作業に取りかかる。
ライラ師長は、プロメテウスの現状と今後の処置について陛下に報告した。
どうすれば穏やかな余生を送らせてやれるか……その話し合いは深夜までつづいた。
そして、陛下の希望は、やはり「苦しませたくない」ということだった。
その翌日から、プロメテウスの食事量や、与える薬などが変更された。
もちろん、翼の炎症を抑える治療はそのままつづけるけれど、大きく変更があったのは、やはり食事だった。
食事は無理をさせず、今食べられるものを食べられるだけ与えること。好きな食べ物を与えること。
その方針に変えてから、プロメテウスは穏やかな顔で眠るようになった。
さらに最近は気分がいいのか、自分から散歩に行きたがるようにもなって、ライラ師長は感動のあまり倒れそうになっていた。
「近頃は、ほとんど散歩ができなかったから……」
そう語るライラ師長は、嬉しそうに、それでいて痛みを抱えたように微笑んだ。今は喜びよりも、後悔の方が勝っているのかもしれない。
「よし……お疲れ様、プロメテウス」
汚れたガーゼと包帯を抱えて竜房の外に出ると、ライラ師長がラファエル副師長と何かを相談していた。
ライラ師長は私の姿に気づいて、手招きする。
「食事には、チコリを配合したものをそのまま使用する。あとは、大好物のリンゴを、食べられるだけ食べてもらおう」
「わかりました」
「頼む」
ライラ師長は小さく微笑んだ。雰囲気が随分と柔らかくなった気がする。
今までは完璧を目指して、ずっと気を張っていたんだと思う。もちろん、気を抜いているわけではないけれど。
(現実としっかり向き合って、プロメテウスとの時間を大切にしようとしている気がする)
プロメテウスは大好きなリンゴを食べたあと、「出してー」というように、竜房の扉に頭を擦りつけた。
散歩の催促だ。
特注の竜具一式を装備させるのは大変だったけれど、ライラ師長も、そして他の竜医師や補助竜医師たちも楽しそうだった。
近くの放牧場に出たプロメテウスは、日光浴をしながら、時々顔の前を飛ぶ蝶を追いかけている。
威厳ある守護竜としての面影は薄れ、今はただ無邪気な子供のような姿だった。
「驚いたよ。今日も散歩をしているんだね」
「陛下!」
私たちは、放牧場にやって来たリアン陛下に一礼した。
彼はプロメテウスを見て、「楽しそうだねぇ」と嬉しそうにうなずいている。
私とライラ師長は顔を見合わせて、小さくうなずいた。
そして、ライラ師長がリアン陛下に声をかけた。
「陛下、プロメテウスの背中に乗ってみませんか?」
「え? いいのかい?」
リアン陛下は、少し不安そうな表情でプロメテウスを見上げた。
プロメテウスは、じっとリアン陛下を見下ろしている。その瞳は、「一緒に散歩できるかも」という期待に輝いているように見えた。
「飛ぶことはできませんが、歩いたり、少しだけ走ったりすることは可能です。プロメテウスも、乗ってほしいそうです」
リアン陛下は、じっとプロメテウスを見つめていた。その目が、次第に潤んでいく。
「……わかった。もう一度、私をその背中に乗せてくれ」
リアン陛下は目尻を濡らす涙を拭いながら、「よし!」と気合を入れて、プロメテウスの背中をよじ登った。
大きな竜なので、乗るのも大変だと思うけど、さすがにリアン陛下は慣れた様子だった。
リアン陛下が手綱を引くと、プロメテウスは地を蹴った。
巨体とは思えない軽やかさで、草を散らし、風をまとって駆け出す。
かつて空を飛んでいたように翼を広げ、歌うように鳴いている。
もう空へは届かないけれど、それでも彼らは楽しそうだった。
(この時間が、ずっとつづけばいいのに)
涙がにじんで、目の前の景色が水面のように揺らめいて見えた。
「おお、おお! すごいぞ、プロメテウス! まるで飛んでいるかのようだ!」
リアン陛下の歓喜の声が、ここまで響いてくる。
とても素敵な光景ではあるけれど……。
「いや、速すぎないか?」
「陛下が吹き飛ばされそうですね」
ぶらん、ぶらんと激しく揺れているリアン陛下の姿に、私たちは内心あせり始めていた。
やがて、速度を緩めて戻ってきたプロメテウスは、「やりきった!」というように、どこか満足そうな顔をして止まった。
リアン陛下は少し目を回していたけれど、それでも笑っていて、「とても刺激的だった!」と言いながら、プロメテウスの背中を軽く叩いた。
そして、リアン陛下は降りる直前に、プロメテウスの背中に上体を倒して、全身を使って抱きついた。
そっと目を閉じ、その身体をなでる。
「……ありがとう」
その言葉が届いたのか、プロメテウスも同じように目を閉じた。
きっと、これが最後の騎乗だ。それがわかっていたから、ふたりは静かにお互いの呼吸と体温を感じていた。